●被爆前の生活
当時、私は船舶兵として、宇品町(現在の広島市南区)にあった船舶司令部(通称:暁部隊)に所属していました。それまでは大阪の鉄工所で働いていましたが、昭和19年9月5日に召集があり入隊しました。慣れない軍隊の生活はとても大変で、連日の空襲警報で毎日が緊張の連続でしたが、当時は絶対に日本が勝つのだと信じていました。
●8月6日
その日は、特殊部隊要員として南千田町(現在の広島市中区)の修道中学校に行く予定でした。本来であれば8時に学校に集合する予定だったのですが、未明に空襲警報が発令されたため、起床時刻が1時間延長となりました。今思えば、それが運命の分かれ目だった気がします。
出発のため兵舎の前で整列していると、突如青白い光に辺りが包まれ、「あっ」と思った瞬間、ものすごい音とともに爆風で体が数メートル飛ばされました。それと同時に、兵舎の屋根瓦や窓ガラスなどが飛び散って、上から落ちてきましたが、幸いにもガラス片で右手にかすり傷を負った程度で済みました。
間もなく、上官より予定を変更して市内へ救援に行くよう命令が下りました。すぐに上陸用舟艇に乗り込み、宇品を出ました。市内上空には、真っ赤な巨大なきのこ雲が立ち上がり、この世のものとは思えない光景でした。これはとてつもない爆弾が落とされたと思いましたが、当時は原子爆弾とは知る由もありませんでした。
私たちは市内に向け、天満川を上っていきましたが、上流に進むにつれ、段々と川に浮く死体が目につくようになりました。舟艇で行ける所まで行き、舟入川口町(現在の広島市中区)辺りに着岸できそうな場所を見つけ、上陸しました。建物は崩れ、あちこちで火災が起きていました。また、おびただしい数の死体が横たわっており、私は身震いが止まりませんでした。直ちに広島市立第一高等女学校付近を本部として、救援活動に入りました。
●救援活動
まずは負傷者の救護が優先ですが、広島市立第一高等女学校の校舎は壊れていて使用できず、他に負傷者を収容できるような場所もありませんでした。市内電車の軌道上には瓦礫がなく、電車も動いていなかったので、そこにむしろを敷き、仮の小屋を作って臨時の救護所にしました。負傷者を次から次へと連れてきては、そこに寝かせました。しかし、余りにも数が多いので、収容しきれない負傷者は、他の部隊と協力してトラックで運び、さらに船で似島へ連れて行きました。
薬は白いペンキのような塗り薬しかありませんでした。皆、熱線で体中が焼けただれ、皮膚はろうが溶けているかのようにどろどろでした。まだ幼い女子生徒たちは、髪が焼けちぢれて、まるで老人のように変わり果てた姿になっていました。幸い水道から水だけは出ていたので、「水をくれー、水をくれー」と苦しむ負傷者には、求められるままに水を飲ませてあげました。当時は、重症者に水を飲ますとすぐに死ぬと言われていましたが、皆ひん死の状態で、欲しがっている人にはあげた方がよいと上官が判断したようです。そして、翌日には大部分の人が亡くなっていました。
その日から1週間、私たちは救護所の近くで野営することになりました。6日の夜、不寝番に立ちましたが、市内の火災は依然として収まらず、また空襲でもあったらと気が気ではありませんでした。夜中じゅう、負傷者の苦しそうなうめき声や泣き声、そして水を求める声が響いていました。
明くる日になっても状況は変わらず、「兵隊さん、兵隊さん」と至る所で助けを求められましたが、私にはなす術がありません。
3日目になると、死体処理に当たるようになりました。真夏の暑さのせいで、死体はぶくぶくに膨れ上がり、持ち上げようとすると、皮膚がずるりとむけてしまいます。荷車で死体を集めて運び、その際亡くなった人の家族が捜しに来た時の参考になるように、瓦に性別や身体的特徴などを記録しておきました。一度に30人くらいずつだびに付していきました。燃料がなかったため、毎朝、焼け残りの木材を焼け跡のあちこちから集めて、だびに付していく作業が続きました。
救援活動の中で今でも鮮明に残っているのは、爆心地付近で見た光景です。焼けて鉄骨だけが残った市内電車の中に、多数の人骨が散らばっていました。その人骨の多さに、言葉を失ってしまいました。
あっという間に1週間が過ぎ、ようやく救援活動を終え、引き上げることになりました。その後は宇品の部隊には戻らず、安芸郡海田市町(現在の安芸郡海田町)へ移動となり、そこで終戦を迎え、9月5日に復員しました。入隊してから、ちょうど1年後のことでした。
●戦後の生活
復員後は、地元の広島県芦品郡府中町出口(現在の広島県府中市出口町)に帰りましたが、戦後の混乱の中、なかなか思うような仕事はありません。9月中旬頃に起きた枕崎台風で芦田川が氾濫したため、その復旧工事の作業員をしながら生活をしていました。
その後は、桐箱製作で生計を立てて、昭和25年に結婚しました。当時は被爆者に対して差別がひどい時期でもあり、結婚する時、妻には被爆者であることは内緒にしていました。その後、2人の子どもに恵まれ、今では孫やひ孫までいます。
被爆者健康手帳は、近所の友人に証人になってもらい、昭和40年にとりました。定期的に被爆者健康診断を受けており、幸いにも被爆が原因の大きな病気はしていません。
●平和への思い
毎年8月6日には、府中市から団体で平和記念式典に出席していましたが、最近は年を取ったため、なかなか出席できません。昔は、家族や友人以外には、自分が被爆者だということは余り言っていませんでした。被爆していない人が「被爆者は元気なのに手当をもらってええのー」と話しているのを耳にしたことがありました。その時、私は何も言いませんでしたが、実際に体験した人でないと被爆者の気持ちは分からないのだなと思いました。私たちは、骨の髄まで放射線の影響を受け、いつか病気が出るのではないかという不安な気持ちで毎日を過ごしているのです。
しかし、被爆者への偏見や無理解から被爆したことを言いたくないと思う反面、実際に被爆した人にしか分からない思いや不安を次世代の人たちにも伝えていかなければ、本当の戦争や原爆の恐ろしさは伝わらないと思うようになりました。あの悲惨な体験を決して忘れることなく、次の世代に語り継ぐことで、戦争の恐ろしさを知ってもらい、もう二度と戦争が起きないことを願っています。
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