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言葉にならない悲惨さ 
匿名(とくめい) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2012年 
被爆場所 広島市大須賀町 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 広島第一機関区 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私は当時十六歳、広島鉄道局広島第一機関区で働いていました。祖母、父、母、姉、弟二人、妹二人の家族八人は山県郡都谷村(現在の山県郡北広島町)に住んでおり、私は家族と離れて大須賀町にある鉄道局の寮に入っていました。父は、一時、船越の日本製鋼所へ働きに出ていましたが、昭和二十年には都谷村に戻って農業をしていました。姉も千田町にあった広島貯金支局に勤めていましたが、原爆が投下される前には都谷村に戻り、役場で仕事をしていました。弟や妹は学校に通っていました。

私は都谷村尋常小学校の高等科を卒業して鉄道局の試験を受け、十四歳のとき就職しました。その頃は祖父が残した借金があって、父は一生懸命働いていましたが、家は貧乏で食べ物は麦ご飯くらいしかありませんでした。
 
●八月六日から八月九日
八月六日の朝は大須賀町にある鉄道局の寮にいました。当日、私は午後からの勤務だったため、八時くらいまで寝ていました。鉄道局の職員約四十人が寝泊まりするこの寮では、八畳ほどの部屋に四人が布団を並べて寝ていましたが、その日の朝は、私以外は、みんな外へ出ていました。寮母さんが起こしに来てくれて、朝ごはんを食べに食堂のあるもう一つの鉄道局の寮へ行くため支度をしていたときでした。青白い閃光を感じると同時に「ドーン」という音がして、部屋の中で吹き飛ばされました。寮は丈夫な造りでできていたため崩れませんでしたが、どこかにぶつけてしまったのか、顎に痛みがありました。

「ううん」といううなり声が聞こえたので行ってみると、寮母さんも吹き飛ばされていました。やけどなどの外傷は一つもありませんでしたが、苦しそうで歩ける状態ではありませんでした。十時頃になって、「広島駅から西条まで列車を出すから、鉄道局の職員と家族は西条へ避難してください」という指示が出ました。そこで、寮母さんを抱え二人で広島駅へ行きましたが、私は列車に乗らず寮母さんだけを乗せました。列車に乗せた鉄道局の職員や家族を賀茂郡西条町(現在の東広島市)にある傷痍軍人広島療養所まで送るということでした。

寮に戻ったのはお昼頃です。帰ると寮は燃えていました。寮母さんのご主人の舎監さんが帰るまでは寮の近くにいなければならないと思い待っていたところ、舎監さんが帰ってきたので、二人で東練兵場に避難しました。そこは、市内中心部から避難してきた軍人や一般の人々でいっぱいでした。みな「水、水、水、水」と言って水を求めていて、死臭が漂い、言語に絶するほど悲惨な状況の中で六日の夜を明かしました。八月六日は水だけ飲み、何も食べるものはありませんでした。

翌日七日は、舎監さんと一緒に奥さんの寮母さんに会いに行くために、十時頃の列車に乗り、傷痍軍人広島療養所へ向かいました。しかし、寮母さんはすでに亡くなられていました。子どもがいなかったので私をとてもかわいがってくれた人です。地元の人が火葬をしてくださり、お骨を持って、寮母さんの実家である尾長町へ行きました。尾長町の家は多少爆風の影響を受けていましたが、住めないことはなかったので、その晩はそこに泊めていただき、大豆飯のような食事でしたが食べさせてもらいました。

尾長町からは広島駅がよく見えました。七日と八日には広島駅の現在の新幹線乗り場の下の方から黒煙が上がっていました。その黒煙は生ゴムの入った貨車から上がっていたのではないかと思います。昼でも薄暗くなるほどの真っ黒な煙が上がっていました。

寮母さんの実家に長くいるわけにはいかないので、二晩泊まった後、九日に勤めていた西蟹屋町の鉄道局第一機関区に行きました。そこの寮は焼けていませんでした。その寮では後輩が全身やけどで寝ていました。たくさんのウジ虫が体をはっていたので、そのウジ虫を取ったり、やけどに菜種油を塗ったりして看護していました。彼は尾道出身で、ご両親が機関区を訪ねてきて、彼を尾道に連れて帰ったのですが、すぐに亡くなられたそうです。

また、九日には上流川町にある広島女学院高等女学校へ一人で行きました。その当時、兵隊に行く同僚のために、千人針を女学院の生徒に作ってもらっていたので、あれだけたくさんいた生徒はどうなったのだろうと気になっていたのです。しかし、学校の校舎は木造でぺしゃんこになっていたため、みんなやられてしまったと思いました。

その後、機関区に戻ると、舎監さんから「当分仕事が無いから尾道に行こう」と誘われ、尾道の百島へ行き、休養しました。
 
●自宅への道
十日と十一日は尾道に滞在しましたが、仕事を再開するということだったので、十二日にまた機関区に戻りました。岩国のほうへは列車を動かせませんでしたが、上り方面へは動かさなければなりませんでした。このようにして、十二日から仕事を再開していましたが、被爆後、都谷村の家族とは、一切連絡を取っていなかったので、上司に「一度家に帰って、親に顔を見せてこい」と言われ、都谷村へ帰ることにしました。十五日未明に出発し、広島駅から、芸備線の線路沿いとバス通りをずっと歩きました。一番安全で近い道でした。天皇陛下が終戦を伝えた玉音放送は、帰路の途中、よその家庭から聞こえてきました。

自宅に着いたのは十五日の夕方でした。原爆が投下されて、私は死んでしまっただろうと家族は思っていたみたいです。「生きていたのか」という感じでした。広島市内で被爆してやけどを負った叔父と叔母も、被爆後すぐに歩いて帰ってきており、私の自宅にいました。自宅は人数も多く、貧しかったので、食べるものはあまりなかったのですが、おかゆを食べさせてもらいました。
 
●再び機関区へ
自宅に二晩泊まり、十七日にはまた市内に向けて出発しました。私の家は分家で、近くに本家がありました。本家の人が広島に行くと言うので、一緒に行こうということになり、朝の五時頃からおむすびを作ってもらい、山越えをして市内へと戻りました。都谷村の自宅へ帰るときは線路とバス通りを沿って帰りましたが、市内へ戻るときは本家のおじさんが近道を知っており、山道を通りました。そして、その後は当たり前のように機関区で仕事し、西蟹屋町にある機関区の寮に住んでいました。
 
●被爆後の光景
仕事が非番の日には、私が被爆した大須賀町の寮や東練兵場など気になる場所へ足を運びました。特にひどかったのは、今の平和記念公園の西側に流れている本川の惨状です。たくさんの死体が流されており、川の水が引くときにはざあっと死体は海の方へ流れてなくなります。そして、満潮になると膨れた死体がばあっと戻ってくるのです。時間がたつにつれて、死体は腐敗し、そのうち骸骨となり、それもいつの間にか見えなくなっていました。

市内の状況を見に比治山に行くこともありました。残っているのは日本銀行広島支店などの鉄筋コンクリートやレンガ造りの丈夫なものだけで、それ以外はぺちゃんこでした。そのときは、「アメリカはなんてひどいことをしたんだ」という思いが強かったです。しかし、日がたっていろいろなことを考えてみると、日本も満州(中国東北部)を侵略したり、真珠湾を攻撃したり、若い人がお国のためと言って爆弾を抱えて飛び込んだり、日本も人道に反したことをしていました。
 
●戦後の生活
鉄道局の仕事はきつかったため、二十二歳頃に辞め、都谷村の自宅で農業をしました。そして、十五年間農協へ勤めました。その後、三十八歳から五十八歳までは東洋工業(現在のマツダ)に勤めました。

二十七歳の頃に縁があって、見合い結婚をしました。私は被爆しているということを一切言いませんでした。被爆していると言ったら、結婚できないと思っていました。妻は被爆者ではありません。

その後、息子と娘が生まれましたが、原爆の話はしたことはありません。妻や両親、兄弟にも話していませんでした。しかし、被爆二世健康診断があるということを新聞やテレビを通じて知り、そのときに初めて妻や子どもたちに被爆者であることを伝えました。妻や子どもたちは「そうだったのか」というくらいの反応でびっくりはしていませんでした。妻は、私が鉄道局に何年いたか分かっていましたので、口には出しませんでしたが、「被爆しているに違いない」と思っていたかもしれません。たぶん子どもたちも知っていたでしょう。そのとき、原爆に遭ったことは伝えましたが、被爆の現状については一切話していません。あまりにも残酷すぎて私はとても話せませんでした。そして結局、妻の意向で被爆二世健診の申請はしませんでした。
 
●平和記念資料館での出来事
息子が仕事の関係で海外の方四人を広島に連れてくることになり、案内を頼まれました。平和記念資料館や宮島、市内を案内してほしいとのことだったので、最初に資料館へ連れて行きましたが、みんな泣いて見ていました。しかし、原爆の悲惨さは、実際にはこれどころではないのです。被爆の現状を話すことができないほど、それほど悲惨だったということを彼らには伝えました。
 
●健康面への不安
自宅へ帰って農業をしながら勤めていた頃は、風邪もひかずとても元気だったのですが、五十八歳になった頃にはやせ細っていました。広島市内までの長時間の通勤、度重なる出張などで下血するほどになってしまったので、これが限度だと思い、五十八歳で会社を辞めました。そして、五十九歳のとき、喉に腫瘍ができました。年も若いし、検査をしたら悪性ではなかったので、とりあえず様子を見ようということでしたが、昨年喉頭癌になりました。二か月かけて放射線治療を受け、治ったと思ったのですが、去年の十月に再発し、手術しました。しかし、今年の五月にも再発し、とうとう声帯を半分除去しました。声帯が半分しかないので、あまり声が出ません。残った声帯に癌が転移する確率が五〇パーセントなので、今でも二週間おきに病院を訪れ、カメラを入れて診てもらっています。被爆したことが原因で癌になったのではと思います。
 
●平和への思い
核は本当に怖いです。核兵器はもちろん、原子力発電所も含めて核を世界からなくさなければいけません。核兵器を持っている国もありますが、核を一切排除するしかないと思います。私は原爆のことを話し出すと涙が出ます。そのくらい残酷なことです。悲惨な状況を口に出すのがそれだけつらいです。核がある間は本当の平和はこないと思います。 

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