昭和二十年八月、当時広島文理科大学数学科二年に在学中であった私は原子爆弾に被爆しました。
当時の状況に就いては、安易に話す気持ちにはなれず、今まで他人に話したことは一度もありませんし、家族にもあまり詳しくは話していません。恩師、級友、知人の多くが、或いは非業の死に倒れ、或いは後遺症に永らく苦しむのを見ては、私の被爆など取るに足りないことのように思えたからです。また、広島の原爆記念館は、多くの方々の非常な努力で大変立派な展示がなされ、また近ごろ新しく拡張されますます充実したとのことですが、私が数年前参観したときは、ホンモノはこんなものではなかったと云う気持ちが先にたちました。ホンモノは展示出来ません。それと同様に私がしゃべることも虚しいことのような気がしていたのです。
また人間にはあまりに強烈な事実に遭ったとき、それを見聞きする回路を一時中断したり、又は一枚ヴェールを被せてそれをまともに受け止めて蒙る精神的被害を避けようとする働きがあるように思われます。私が見たあの状況もその真っ只中での経験であったにも拘らず、記憶が途切れていたり、映画でも見ていたかのような間接的な感じがしたりするのはその為かもしれません。しかしそれでも尚、このような自己防御線を突破したいくつかの場面が五十年の歳月にも色褪せることなくはっきりと瞼に焼き付いて残っています。被爆五十年の今年こそ最初で最後の機会と思い、その幾つかを、あの日に至るまでの思い出と共に乏しい筆力ながらここに書き留めておく事にします。
私は昭和十六年四月広島高等師範学校理科第一部(数学専攻)入学、十八年九月同校中退、飛び級で同年十月広島文理科大学数学科入学、そして二十一年九月同学を卒業しました。はじめの頃はまだ余裕もありましたが、次第に物資、食料が乏しくなり、勤労動員などで授業も欠けることが多くなりました。私は大学入学以来、数学科主任教授であられた岩付寅之助博士から特別のご指導を賜りました。先生の教授室に机を頂きいつも先生のお側にいて教室での講義以外にもいろいろ教えて頂き、また度々翠町の御自宅に伺って数学以外に古事記など日本の古典の講義を私一人の為にして頂きました。寒いとき和服姿の先生が階下から火鉢を抱えて二階の座敷に運んで来られた姿が目に浮かびます。燃料の乏しかった当時のことだから、その間階下では奥様や家族の方々が寒さを堪えておられたのではなかったかと、今これを書いていて初めて気がつきました。
昭和十年代の前半、岩付博士をリーダーにして物理学の三村剛昴教授、数学の森永覚太郎教授、柴田隆史教授等が、波動力学と幾何学との融合としての波動幾何学を確立され、広島学派と呼ばれる名声を世界に馳せられました。また一方岩付先生は非常に純粋で高潔な愛国者であられ、日本古来の本当に美しい精神の持ち主でありました。当時の大学教授といえば今の掃いて捨てるほどいる大学教授とはワケが違うし、特に勅任官で海軍では将官待遇されていた先生は高級官僚や軍関係者同様随分融通が効いた筈ですが、そのような事は一切されず我々と同じように窮乏生活に耐えておられ、そして私達に美しい日本精神を教えて下さいました。
私達は呉海軍工廠からの委託研究で、飛行機から投下した魚雷を海面でバウンドさせながら水上を走らせ敵艦に命中させるための魚雷の運動の解析とか、海面を航行する大きな船による水圧変化に感応して爆発する布設機雷の掃海の為に斜めにした板をボードで曳航する時の水圧の計算とかを、岩付先生の指導の許で研究するという大学生らしい幸せな時期もありましたがそれも束の間で、宇品金輪島の暁部隊の軍需工場に動員され、エアーコンプレサーで鋳物の土を落とす重労働に駆り出され、頭脳の使い道の無い毎日を空腹に耐えながら送りましたが、七月中旬、命令により数学教室は貴重な図書文献を疎開することになり、加茂郡豊栄村の天理教会に森永教授、吉田助教授外同級生数名と移りました。山陽線八本松駅からバスで十六、七粁の山の中で食料もきわめて乏しい中それなりに努力した毎日でした。広島へ連絡にいった帰り一日二往復のバスに乗り遅れ、谷川の水を飲みながら山道を歩き通した事を思い出します。
そして八月六日朝、晴天で明るい周囲がピカッとひかり、つずいて家がガタガタと揺れました。何事かと見ると西南西四十粁弱の広島の上空に灰白色のキノコ雲がモクモクとゆっくり立ち昇るのがみえました。ガスタンクかガソリンタンクが爆発したのか等と話あっていましたが、何の情報も得られぬ儘翌日になりましたら大学が焼けたらしいと云う噂が何処からか流れて来ました。当時は学生と雖も学徒動員令の下にあり、命令なしに勝手な行動は許されなかったのですが、広島の惨状は知る由もない乍らも学校が焼けたのなら帰らねばならぬと決め、八日早朝、全員八本松駅から汽車に乗りました。途中その一人が、対向する列車に手先からボロボロの着物が垂れ下がっている人や顔一面に赤い筋のついている人が乗っているのを見たと言っていました。あとから考えると焼けて皮膚がボロのように垂れ下がっている人や、爆風で吹き飛んできたガラスの嵐を顔面に受けた人達だったのでしょう。数日後のことですが以前の下宿を尋ねた時、襖が鋭い細かいガラスの破片で斬り裂かれて、その表面一杯に狭い間隔の平行線が刻まれているのをみて、ゾッとしました。
広島駅に着いた時プラットフォームの鉄骨の柱以外には何も無く、市街も一面の焼け野原でそのずっと向こうに宇品湾の島影が見えました。勿論改札もなくそのまま外へ出ると道も一面瓦の破片等で覆われています。その中を市電の線路沿いに大学のある東千田町目指して歩きました。僅かに幾つかの鉄筋の建物だけがその外観を留めていましたが、その一つである市役所の残骸の玄関から真っ黒な丸太のような死骸を次々とトタン板に乗せて運び出しているのに逢いました。有名な広島日赤病院の道路を隔てた反対側にある大学正門の太い石の門柱と鉄扉は残っていましたが、その傍らに馬が一頭仰向けに倒れ四肢を空に向けて死んでいました。構内は、高等師範や付属中学の木造校舎はすべて灰燼に帰し、大学の茶色化粧タイルの本館や付属小学校の白色コンクリートの建物は外観だけ残っていました。付属小学校の階段途中の踊り場の天井の丸い電球が細長いキュウリのように伸びて垂れ下がっていました。
まず岩付先生の消息を尋ねて歩きました。途中出会う人は皆火傷を負っていたり怪我をしている人たちばかりで、無傷の私たちは場違いの恥ずかしさを覚え火傷でもしていればよかったというような気分さえ感じました。たださえ食料のない時代にあの状況で何を食べ何処で寝たのか思い出せません。話は逸れますが戦後ずうっと研究を共にした親友である九州大学の安浦さんは動員されていた広島高等工業学校で被爆しましたが、焼け跡から掘り出した軍隊の牛肉の缶詰の配給を受けてこんなに旨いものはないと喜んだのだけれど、後から放射能が一杯くっついていた事が判ってヒヤッとしたと笑い話をしていました。安浦さんはその後九州大学工学部長を務め、私達の専門の電磁界理論で世界的権威になられましたが、まだ働き盛りの六十二才で内臓全部に癌が広がって亡くなりました。
何処で誰に聞いたか覚えがありませんが翌日岩付先生の御遺体が日赤病院で見つかり御自宅に帰っていることが判りました。広島も御幸橋を南に越えた宇品寄りには焼け残った家も多く、先生のお宅も無事でした。御生前何度となくお伺いしてお教えを頂いた馴染みの座敷に先生は毎日着ておられた茶色三つ揃いのセビロを召したまま布団の上に横たわっておられました。先生は原爆投下の時は研究室におられ、飛行機の爆音に窓から顔を出された瞬間飛んできた小さな木片が後頭部に突きささり、殉職されたと云うことでした。御遺体は全身が膨れあがっていて三つ揃いのチョッキがはち切れそうにパンパンに張りきっていました。奥様はスラリと美しく上品な方で我々の憧れの的でした。それまで気丈に振る舞っておられましたが私が伺って御遺体を拝したとき、気が弛まれたのか、「主人は真面目にお国の為に働いたのに。何も悪いことをしていないのに。」とだけ言って嗚咽されました。物理学科の助教授(名前が思い出せない)が弔問に来られて、ピカの時自分はランニングシャツと半ズボンで大学の塀に沿って歩いていたが、丁度塀の陰だったので火傷一つしなかったと言っておられました。いろいろな運命があるものだと思いました。
御遺体を納める棺など望むべくもなく、また屍毒で直接触れることも出来ないので、布団に横たわった儘の先生を布団の端を持って持ち上げて何処でかで借りてきた大八車にお乗せし、私が前で梶棒を握り、同級でずっと行動を共にしていた西䕃英夫君(後に宇和島高校長)が車の後押しをして、大学構内まで運びました。焼け跡の付属小学校横に穴が掘ってあり先輩の助手の人が取り仕切っていて、荼毘用の燃料を拾ってくるように言われ木切れを集めました。しかしいま思うと何処にそのようなものが焼け残っていたのか不思議です。そして先生の御遺体を布団ごとゴロリと転がして穴に落とし込みました。その時の、御遺体がゴロリと転がって燃料の板切れの上に横たわった有様がまだ瞼に残っています。その上に布団を被せ板切れを乗せてさらに焼けトタン板を被せて火を付け、帰りました。奥様のご指示で先生御愛用の品物をなにか一緒にいれたような気がします。翌日お骨を拾いました。奥様は元々ご病身な上お疲れでとても動ける状態でなかったので、私がすべてさせて頂きました。それにしてもあまりにも粗末な御葬送で、奥様のお嘆きそのままに、あのような立派な先生が何故このような目に遇われるのかと残念で、申し訳ない気持ちで一杯でした。
翌日広島市西端の高須町の伯父の家へゆきました。伯父は当時広島唯一のデパート福屋の常務取締役をしていて他にもう二人の叔父もいました。私はこの伯父達を頼って広島の学校へ入ったのでしたが、特に食糧が乏しくなってからはしょっちゅう空腹を充たしに伯父の家へ行っていました。爆心からすこし離れた場所で一帯は焼けていないと聞いていましたが、若い叔母が当時多くの主婦達が駆り出されていた建物疎開作業などに出ていて被災した可能性もあり、四人の幼い従弟妹達のことも心配でした。勿論乗り物など一切あるワケもなく、広島の街を端から端まで瓦礫の道を歩きました。その後も毎日毎日歩き回ったのですが、空き腹で破れ靴を履いてよく歩いたものだと思います。伯父の家は幸い天井板が爆風ではずれてぶらさがっている以外、皆無事でホッとしました。
翌日また大学に戻りました。はじめの頃数年を過ごした懐かしい高等師範の淳風寮や剣道部の嘯雲寮など大学近辺の建物はその場所さえ判らなくなっていましたが、下宿していた宇品寄りの皆実町や翠町の家々は焼け残っていました。そのうちの一軒で上に述べた、ガラスの小さい剣の嵐にずたずたに切られた襖を見たのでした。またその家の座敷に真っ黒な顔の人が横たわっていました。下宿のオバサンの知人らしく、オバサンが、若くて綺麗な奥さんだったんだけれど、と言っていた言葉が耳に残っています。
詳しいことは覚えていませんが、市内をあちこち歩き回りました。知人や友人の消息を求めたり、壊滅状態とはいえ大学報国隊の一員としての任務があったからです。その途中、県立一中(現国泰寺高校)の側を通りかかってフト横を見ると、すぐ足元の運動場らしい広場の端の石垣沿いに、ズウーッと一列にびっしりと並んで、脚を抱えてつくばっている死体の列が目に飛び込んできた時には、麻痺して鈍感になっていた神経でもゾーッとしました。その近くに中学下級生らしい小柄な真っ黒に炭化した死骸が、俯せのまま胸を反らせて両手を上に伸ばしていました。そしてその死骸には下半身がありませんでした。また広場の多くの死体の中に、国民服と呼ばれた当時の制服を着てゲートルを巻いた人が仰向けになって両手両足を空に向けて倒れていました。その人の腹部が破れて露出した腸が風船のように大きく丸く膨れあがっていました。まわりは焼けた人ばかりなのにこの人だけ焼けていなかったようなのが今になると不思議です。道路は瓦礫やいろんな物に覆われていましたが、歩いていて時々グニャツと濡れた畳を踏み付けました。その度に飛び上がる位気味が悪かったのですが、あれはきっと死体だったのだと思います。
その頃は夏休みも何もありませんでした。その前帰郷が許された時、これが最後の休みと思えといわれ、もう故郷に帰れないものと思っていました。昭和二十年六月十六日付、広島高等師範学校長名のその年の新入生に対する、次のような要旨の通達があります。「拝啓 時局緊迫の折柄、神国護持の為益々御健闘の事と存候。(中略)事態は日一日と苛烈を加え、文字通り皇土悉く第一線と相成候。正に学徒の挺身場は戦線に、増産に、防衛に余す所無かるべく、一度家郷を出でては只管皇国護持の特攻隊となって突入し、何時如何なる場に倒るとも、些かも悔いなき覚悟極めて肝要と存候。就てはこの度の結集は応召の気概を以て家門を出でられ度く、墓参を始め身辺整理等、万遺憾なきを期せられ度。云々。」これは私達に対するものではなく、また私達にはもう少し気持ちに余裕がありましたが、それでももう親の顔を見ることなく死ぬのだと思っていました。そのうち八月十五日の正午を迎え、敗戦を知りました。ホッとする気持ちと切腹せねばならぬと云う気持ちとがあったことを覚えています。
学徒報国隊も自然消滅したわけでしたが、広島を見捨てて直ぐに故郷に帰る気持ちにはなれず、数日間をなすこともなく茫然と過ごした後、徳島に疎開していた父の許へ帰りました。手紙その他通信手段は何も無かったので安否を報せることは出来ませんでした。その上戦争が終わったというのに暫らく帰らなかったので、父は一人息子の私が死んだものと覚悟しかけていたそうで、幽霊ではないかと足元を見たそうです。
数日後両足の膝から下に水泡が沢山出来ました。あれが放射能の所為だったか否かは判りません。その後、後遺症かどうか判りませんが、何の原因もないのに蕁麻疹が脚の方から始まって内臓にも出てモルヒネで押さえる程痛み、顔から頭へ抜けるのに一週間かかることが五十才頃まで続きました。また全身が凝ったようになり何をする気力もなくなってただボーッと一ヵ月位過ごさざるを得ないことが毎年一、二度あり、これは今でも続いています。医者の診察を受けても原因は判らないと云うことです。不整脈も被爆後から続いています。
被爆後五十年経ちました。やっとこの文章が書けました。亡くなった恩師、先輩、友人、そしてその他多くの広島の犠牲者のことを思い出しています。ただただ御冥福を祈るのみです。
被爆五十周年を一ヵ月後に控えて
一九九五年七月六日 |