一、兵役
昭和一九年九月一日現役兵として広島市陸軍暁一六七一〇部隊に入隊。同部隊は船舶通信隊であり全国各地よりの出身者の混成よりなり。大阪府下や近接府県の出身者は二~三名しかなく終戦復員後文通なきため消息不明で現在に至っている。入隊後通信関係の教育をうけ教育終了後本来は輸送船や他の船舶に乗船し任務につくのであるが、昭和二〇年四月ごろすでに戦局ははかばかしくなく船待ちで待機をしていたが船舶不足と戦局悪化でついに船に乗ることがなく陸にとり残され、八月六日の原爆を浴びる運命となった。
二、原爆当日の状況
八月六日は早朝より警報が出されたが間もなく解除され、自分の部隊(暁一六七一〇部隊)は朝の点呼のため営庭に集合していた(※註一)。そのとき突然首筋がちくりと熱く痛さを感じたので(※註二)、何事かと背後を振り向くと中空に大きな真赤な火の玉(※註三)があり、とろとろと油が燃えているようだった(※註四)。その火の玉を見ると同時に、熱く眩しいため本能的にそれを遠ざかる方向に一目散に逃れ、凹地に身を伏せ目をつむり両耳を塞ぎ身を殺して死んだような状態でいくばくかの時間がすぎ(※註五)、目を開くとあたり一面土煙で真白で何も見えなかった。暫くして土煙もおさまり澄んでくると眼前の建物は大半壊れ見るも無残な状態に一変していた(※註六)。
当部隊は爆心地より約二キロメートルの距離があったため軽度の火傷をうけたのみですみ不幸中の幸いであった。兵舎の中に残っていた同僚は建物の倒壊などにより若干の死傷者があった。
あわただしかった騒動(?)も一応おさまり幾何かの時間がすぎての後(※註七)倒壊した建物の残片づけ作業につき暫の間この片づけをした様に記憶しています。
一方残った建物は応急修理のうえ臨時の野戦病院として転用され、ぞくぞくと被爆重傷者が(※註八)トラックで運び込まれ、病室はもとより廊下などまでも一ぱいとなり異様なうめき声で、この世の沙汰でなく地ごくの様相でした。この様な状態であるにもかかわらず引続き運び込まれ収容しきれないため息たえだえの重傷者でも何んの治療もせずそのまま広島の南の似之島へ転送していました。一刻も早く処置してあげたい気持ちで見ていましたが致しかたがありません。
被爆後の広島の都心部は焼野原となり、夜、市内は真暗い闇夜となりましたが、焼跡のあちこちで死者を集めて焼く火葬の不気味な火が点点とあり、これが暫の間続きました。
広島のこの悲惨な惨状をまのあたりに見て日本は戦争に敗れると直感しました。
三、被爆その後
小生は被爆後前記の部隊で終戦を迎え残務整理で暫く隊に残り昭和二〇年一〇月復員し入隊前の会社(関西配電・・・・現関西電力)に復職し現在に至っております。
昭和二〇年以降昭和五〇年ごろまで自覚症状は感じませんでしたが、それ以降貧血の症状で立つと目がくらんだり、頭がふらつくようなことを時々意識するようになった。昭和五四年人間ドックで健康診断をうけたところ貧血とわかり約一〇ヶ月間増血剤を服用し治療した。また昭和五〇年ごろより度々胃潰瘍をくりかえし都度投薬治療している。
昭和五六年六月
中西 寛
※印の註一~八は下記を参照して下さい。
註一 服装は夏のため上衣なし。半袖のうすいシャツ一枚であった。
註二 焼いたコテを皮膚に押しつけられるか、または熊蜂に刺されたような痛さ・・・
今までに経験したことのないような痛さ、熱さを同時におそわれたよう。
(地上の熱一、三〇〇度)
註三 空に上がっているアドバルンぐらいの大きさに見えた。
(直径二八メートル、地上五八〇メートルでさくれつ、最大径三一〇メートル)
註四 火の玉は今にも地上に降ってくるようで熱くまた眩しくて太陽を裸眼でじっと正視できないような状態であった。
註五 身を伏せていた時間の長さは記憶にないがその間爆風による建物の倒壊などの音は耳に入らなかった。
註六 爆心地より約二キロメートルのため火災などの発生はなかった。
註七 被爆後何時間ぐらい経過していたか記憶にない。
註八 被爆者の皮膚は焼けただれぶくぶくとふくれあがり黒紫色に変色し、皮はめくれ、ぶら下がり見るもあわれな姿となり正
視できずこの世の人間と思いたくない気持ちでした。一~二日の間はこの事を思い出すと食事も喉を通りませんでした
。
・衝撃波(爆風?)は二キロメートル地点では約六秒で到達し建物が破壊される
・火の■■熱い■地面の高温となり(一三〇〇度)上昇気流がおこりそれによりキノコ雲が発生し発■
半径五〇〇メートル以内で九八・五パーセント死亡
半径二〇〇〇メートル以内で五六・一パーセント死亡
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