暦の上ではもう春になり二月もあと数日となりました。
皆様方には、大変お世話様になっております。すっかり御無沙汰致しております。私事ですが過日、母野田ヨシキの亡くなった際にお世話になりました、佐々木峯子でございます。大変遅くなり、お礼を申し上げなくてはと思い乍ら今日に至っております。母の四男である、私の弟、野田光夫が昨年二月十四日、入浴中に心筋梗塞で一人、あの世に去りました。関係者の方々にはその節大変お世話になりお礼申し上げます。光夫は父親の顔も知らず被爆後、母の背で首も座っていない上、ケープで母がしっかりくくりつけて山道を、投下後、一週間かかって母の実家に戻って来た姿は忘れられません。母の入院時、いつも光夫が上の部屋にいるから見舞ってくれと私に云っていました。いないのです。過日長男である弟が、母の七回忌にある席で淋しくなったよと涙しておりました。父親代り後年は光夫の病院通いとよく世話をしてくれました。最近、報道などで原爆を知らない人ばかりにと言われています。
私は投下された一カ月前に高等科一年生で疎開は許されない時代。何故か母の実家へ、長男、二男、私と三人で・・・・私は、家族の食事作りでした。原爆投下も黒い雨も知っています。とっさに押入にかくれ、以後、本通り商店の名入紙切れが沢山舞って来ました。祖母があぶないからふれるなと言っていました。
私は直接、あっていないので人様に話す事は出来ずただ家族を失ったのみ。又、高等科を去る時、幼い時からの友人が野田さんは非国民だと云われて別れた事、進学された友は、ほとんど亡くなられたと聞いております。ラヂオ等で体験されたお話を耳にすると一人涙しています。昔は、貧しかった。戦後、進学させて貰えなかった話を娘にぐちっていました。お母さんあっての私、もういいじゃないとなぐさめてくれ、母も身体の弱い私に更年期が過ぎたら元気にと云ってくれました。光夫のお礼と思ってペンを走らせたのに私のぐちばかりで済みません。現在は主治医のお世話で自立支援に週二回お世話になって楽しく過ごさせて貰っています。
戦争で大きな犠牲になられた方々との思い、幸せをかみしめております。八十二才との言葉を耳にするとすぐに八月六日を思い出します。光夫の生存中のお礼を申し上げようとペンを走らせた私、ぐちばかりになり済みません。私の家族は十二才の折、七人でしたが三人になり姪や、私の孫二人で戦争を知っている一人です。いつまでもこの生活が続きます様に思います。戦後七〇年を前に、あの様な事が二度とあってはなりません。
つまらぬ私のお話に目を通して頂きありがたうございます。
職員様にはくれぐれもお世話をいただき有難うございました。
佐々木峯子
追伸
三男の勝巳被爆者です。数年前に「ガン」の手術をしましたが、見違える程にやせて半月のパートで働いています。その後の事を聞くと嫌いますが長生きしてほしいです。
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