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私の原爆日記 
森 澄江(もり すみえ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1971年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

八月六日八時一五分近所の大和さんに行って話をしていました所、閃光がしたかと思うと少して爆風が襲って来ました。

次女和子を奥八畳間に寝かせていたので心配になり急いで家に帰りました所、子供は火がついたように泣いていましたが子供用のねがやの所にフスマがもたれ掛りそのフスマに窓ガラスの破片が散乱していましたが幸いにも子供にはケガはありませんでした。

午後三時頃五日市町造幣局に出張していた主人が帰って家の中のガラスの破片を整理してくれました。夕方になって事情があって大河に別居中の主人の父が帰宅していないとの連絡があり七日と八日の二日間主人が一人で探しに行きましたが見当らないと重い足どりで帰りました。

主人にだけ任せておくわけにいかないので九日の朝は夫婦で探しに出掛けました。

朝八時に主人の自転車の後に乗って家をでました。現在の県病院である陸軍病院に行き探しましたが患者が多くコンクリートのローカに荷札に住所氏名を書いた名札をつけている重傷者を見て胸がふさがる思いで一杯でした。

御幸橋までは損傷はしていても家はほとんどありましたが御幸橋を渡ると家はほとんど焼失してなくなりコンクリートの建物が所々残っている程度で焼野原になっているのを見てビックリしました。

御幸橋を渡った所で八時四〇分頃古谷さんに逢いました。御主人を探しに行かれるとの事でした。鷹野橋をすぎ白神さんの所で休憩しているとき宮木さんに逢いましたので父を探しに来た事を云ってもし見られたら家に連絡して貰うように依頼して鶴見橋―出汐町―大河―丹那と帰りました。

一二日になって父が金輪島に収容されている事が分りましたが主人が一〇日から又五日市に出張しましたので収容に行く事が出来ず主人が一五日に帰りましたので一六日に収容に行って貰いました。そして次男の家に連れて帰りました。

その後毎日のように見舞に行き看病を致しました。

御存じのように食糧事情の悪い時でしたので僅かでも珍らしいものが入手する事が出来た時は持って行って喜んで貰いましたが八月二九日の朝なくなりました。

尚二女和子は放射能のせいか生後六ケ月で脳膜炎になって死亡してしまいました。

 

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