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熱さと激痛に耐えた日 
森田 時江(もりた ときえ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島電鉄㈱広島駅前停留所(広島市松原町[現:広島市南区松原町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島実践高等女学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前
私は当時十三歳で、佐伯郡井口村(現在の広島市西区)にあった広島実践高等女学校(現在の鈴峯女子中・高等学校)の二年生でした。両親と五人の弟妹とともに、現在は平和記念公園の一部になっている天神町に住んでいましたが、戦局が厳しくなったので、妹の千代(八歳)、弟の晴視(六歳)と一緒に安芸郡中野村(現在の広島市安芸区)の祖母の家に疎開していました。国民学校の高学年になっていた文雄と君代は、すでに学童疎開をしていましたので、天神町の自宅には両親とまだ幼かった弟の睦穂の三人が暮らしていました。

そして、原爆が落ちる何日か前には、千代が熱を出したので、母も看病のために睦穂を連れて祖母の家に来ていました。天神町は爆心地のすぐそばですから、千代が熱を出さなかったら二人は原爆で亡くなっていたでしょう。ですから、千代は母と睦穂の命の恩人です。
 
●あの日
八月六日の朝も友人といつもどおり汽車に乗りましたが、この日は勤労奉仕の人が余りにも多く、汽車が満員でしたので、広島駅で路面電車に乗り換えることにしました。

駅前の停留所で電車に乗ろうとしたとき、突然まわりが黄金色に光りパッと明るくなったと思った途端、「ドン」という耳をつんざくような音がして辺りが真っ暗になりました。ものすごい爆風が来て体が吹っ飛び、一瞬電車が爆発したのかと思いました。無我夢中で走ったことまでは覚えていますが、途中で倒れて気を失いました。

どれくらいたったのか分かりませんが、初めはぼんやりとしていた意識が、やがて少しずつ戻ってきました。しかし、何か強い衝撃を受けたときのように頭や体中がしびれ、起き上がることができませんでした。ただ、人々が何か口々に叫びながら走り回る音や、ガチャガチャという車の音などが入り混じって聞こえ、とてもひどい状態の中にいるということだけは分かりましたが、どうすることもできませんでした。しばらくして、体のしびれが少し治まると同時に、痛みと熱さを感じるようになりました。そうして、やっと起き上がることができ、周りを見て驚きました。周囲の建物はすべて燃えており、まるで火事場の真ん中にいるようでした。黒い煙の中から聞こえてくるのは、「助けて」「助けて」という叫び声や負傷した人のうめき声、そして、たくさんの人が倒れているという大変な状態でした。体中がしびれた状態は続いていましたが、私は持ち物が気になり辺りを捜しました。しかし、肩に掛けていたカバンや防空頭巾を入れていた袋だけでなく、履いていた靴も無くなっていました。そして、一緒にいた友人の姿もそこにはありませんでした。

意識がはっきりするにつれて、全身に焼けつくような痛みを感じました。後頭部、首、腕や足に切るか、刺すかしたような激痛が走り、髪の毛は焼けて縮れ、頭はやけどし、さらに右腕もやけどで黒く水ぶくれになっていました。そして、着ていたグレーのシャツやモンペは焼けてボロボロになり、焼け残った部分は体にくっついていました。火の手が近づく中、一緒にいた友人のことが気になりましたが、「早くこの場を逃げなさい」という声を聞き、人の波に押されるように歩き始めました。

歩いていると、救援のトラックがいて、乗っていた軍人さんが「似島に行くから乗りなさい」と、二度も三度も言ってくれました。しかし、私は「お母さんのいる中野に帰りたい、似島へ行ったら二度と中野には帰れない」と思い、トラックには乗らず中野の方向へ歩き出しました。炎天下に焼けつくアスファルトの上を靴も帽子も無くボロボロの姿で歩きました。太陽の光はむきだしになった肌に照り付け、刺すような痛みがありました。やけどした人が道端にたくさん倒れていましたが、私も喉の渇きがひどく、とてもこのままでは歩き続けることができそうにないので民家に立ち寄り水をいただきました。

しばらく行くと尾長国民学校があり、そこではけがをした大勢の人が手当てをしてもらっていました。廊下にもたくさんの人が倒れており、やけどで重傷を負った人たちが、口々に「水くれ」「水をくれ」と哀願していました。私も水をお願いしましたが、「水を飲むと死ぬ」と言われ、代わりにおむすびを渡されました。しかし、とてもおむすびが喉を通るような状態ではありませんでした。お医者さんがいたのかどうかは分かりませんが、簡単な治療をそこでしてもらい、少し休んでから向洋駅に向かって、トボトボと歩きました。途中、「どこでそんなひどいやけどをしたのか?」とか「ひとりだけやけどをしたのか?」などと聞かれましたが、何も答えることはできませんでした。道で会う人からは「ボロが歩いている」などと言うからかいの言葉を言われました。みんな、広島市で起きた悲惨な状況を知らなかったようです。まだ先か、まだ先かと、目指す駅がとても遠く思われましたが、止まると二度と歩けなくなると思い、フラフラしながらも必死で歩き続けました。やっとの思いで向洋駅にたどり着いたのですが、汽車は動いていないと聞きがっかりしました。仕方がないので、少し休んでから次の海田市駅に向かってまた歩き始めました。家に帰りたい一心でした。

海田市駅からやっと汽車に乗ることができましたが、汽車の中では「痛いよー」という悲鳴や泣き声があちこちから聞こえ、私と同じようにやけどをした人たちがたくさんいました。夕方になって、安芸中野駅に着いたとき、駅にはたくさんの人がいましたが、知っている人は一人もいませんでした。一人で歩いてようやく家に帰り着いたとき、母はびっくりして、「時江ちゃん、あなた学校へ行ったのではなかったの」と言いました。

母は私が学校に行っているものと思っていたので、変わり果てた姿を見て、さぞかし驚いたことでしょう。原爆が落ちたとき、中野村にいた家族は、きのこ雲と光が広島市の方に見え、「何かあったのだろうか」とは思っていましたが、こんなにひどいことになっているとは知らなかったそうです。

母は、どうすることもできず、すぐにお医者さんを呼んでくれました。幸いなことに、すぐにお医者さんが家まで来てくれましたので、大変嬉しく、もう大丈夫だと私も家族も思いました。しかし、診察していただいた結果、お医者さんは「気の毒だが手の施しようがない。とても治る見込みはない」と言い、ほかにも同じような患者が多く忙しかったのでしょう、治療もせずに帰ってしまいました。後年、そのお医者さんが私が生きているのが不思議だと言われたそうです。

広島市内に勤めていた父は、夜になって安芸中野駅に着き、千代と晴視が迎えに行ったということは聞きましたが、私は気づきませんでした。
 
●自宅での療養生活
お医者さんから、「治る見込みはない」と言われましたが、母は諦めず、必死の看病が始まりました。キュウリやジャガイモなどの野菜を切ったりすりおろしたものを、ガーゼ代わりに裂いた浴衣の生地に乗せ、患部に当ててくれました。毎日、毎日、幾度も幾度もそれを取り替え、寝ずの看病が続きました。祖母の家では農業をしておらず、母は娘を助けたい一心で近所を探しまわり、野菜を分けてもらいました。しかし、やけどはなかなか治らず、私は、ずっと「熱い」とか「痛い」とか言い続けていました。

二か月余りは寝たきりでした。この間、体の熱さと痛みは治まらず、その上、頭髪はほとんど抜け、歯茎からも出血していました。また夏の暑い時期なので、蚊帳の中に寝かされましたが、患部からはウジがわき生きた心地がしませんでした。ガーゼを張り替えるときは、体の熱を吸収し、乾いた野菜が皮膚と一緒に剝がれるので一段と痛く、「もう死にたい」「殺して」と大きな声で泣きました。それが毎日のことですから、近所でも評判になったそうです。弟や妹たちは、ふすま越しにのぞき、その様子を見て、「かわいそうに」と言っていました。こうした、母の必死の看病にもかかわらず、私はなかなか良くならず、翌年の二月までずっと床についていました。

その年の四月になって、やっと女学校へ行くことができるようになりました。女学校に行ってみると、原爆で亡くなった友達もたくさんいました。
 
●その後
昭和三十四年、二十八歳のときに結婚しました。健康診断で白血球が少ないと言われることはありましたが、その頃はもう元気になっていました。夫の家族や親戚にも原爆に遭った人が多くいましたが、みんな元気だったので、特に結婚を反対されるということもありませんでした。夫 も全く気にしていないようで、私の体に残るケロイドについて一言も聞きませんでした。二人の子を出産しましたが、生まれてくる子どもへの影響については何も心配していませんでした。ただ、息子が病気になったとき、初めて「原爆の影響かもしれない」という不安がよぎりました。

夫の転勤で福岡に十六年間いましたが、息子が小学生のときに、学校で原爆の話をしました。その話を聞いた病院の先生に、「原爆に遭われたのなら被爆者健康手帳の申請をしたらどうか」と言われました。それまで原爆の手当とか一切関係ないものだと思っていましたが、せっかく先生に助言いただいたことなので、被爆者健康手帳を取得することにしました。

福岡にいるときに子宮筋腫になりました。広島に帰ってから頭痛が続き、元々白血球が少ないこともあったので、病院で検査したところ、甲状腺に問題があることが分かりました。ひょっとしたら被爆したせいかもしれません。今でも毎日甲状腺の薬を飲んでいます。

夫に言わせると、私は雷が鳴ったり、ピカッと光ったりすると極端に怖がるそうです。また、普通の人には何でもない音にも反応するようですし、髪の毛や爪を切るときも怖いと思うことがあります。原爆に遭った衝撃は、今も私の心に強く残っています。
 
●お願い
被爆後何年たってもケロイドの部分は異物感があり、精神的にも肉体的にも不安や苦痛は消えません。

あの、熱くて痛かったことが忘れられません。

二度と私たちのような被爆者を作らないでください。

核保有、核実験、絶対やめてください、お願いします。 

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