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風化をさせてはいけない記録 
三宅 順子(みやけ よりこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1994年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島実践高等女学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

八月六日の広島は朝から青空が広がり、今日も暑い一日がはじまろうとしています。朝八時疎開先の江田島切串の浅橋で広島の自宅へ戻るべく小学六年生の妹と二人で船がくるのをいまかいまかと待っておりました。
 
当時私の家は現在の平和大橋(旧新橋)のそばで天神町に所在し、材木商を営んでおりました。又、当時小学六年と四年生の妹が学童疎開をしていたのですが、材木商を営んでいた父が終戦の一ヶ月前の七月二十日に病死したゝめ疎開先から一端広島の自宅に戻っていました。

父が病死した前後は毎日空襲があり、父の葬儀を出すにも中々思うに任せずたゞ虚(むな)しい日が過ぎていくばかりでした。

当時女学校一年の私と妹弟六人で疎開先の切串の家に残り連日の空襲のため防空壕(ごう)へ入ったり敵の機銃掃射を農家の軒先で皆んな固く手を握りあってこわごわと見たりと云う毎日でした。

又、私は疎開先では一応一番の年長者だったので毎日の食事の世話から身の廻(まわ)りの世話と大奮闘の毎日でしたが、今考えるといったいどんな食事を作って食べさせたのやら全く思い出せません。

八月三日漸(ようや)く父の葬儀が済んだので一番上の姉が小学校四年、二年、四才、三才の妹弟四人を連れて広島の実家(天神町)へ帰って行きました。間もなく二人きりになった疎開先へ祖母がきてくれました。

そしていよいよ八月六日の朝を迎えました。私と小学校六年の妹が船を待っていた桟橋は丁度(ちょうど)広島市内の真向かいにあったので、あの魔の時刻八時十五分ピカッと光った瞬間の光はたゞキレイだったの一言です。と、思った時物凄(ものすご)いごう音とともにB29が家々の屋根すれすれに大きな翼を翻(ひるがえ)しなが飛んでくるので思わず防空壕(ごう)へ逃げ込んでしまいました。

それから一体どの位いの時間が経過したのでしょうか。不思議なことになんの音もしません。恐(おそ)る恐(おそ)る外に出ました。

これはどうでしょう。巨大なきのこの様な形をした雲が二段になってぐんぐん上へ伸びていきその白い雲の下段がピンク色、上段がブルーと、それはキレイな色でした。

いったい広島の市内はどうなっているのでしょう……たゞ無我夢中で疎開先の家に飛んで帰りました。なにはともあれ実家の様子を見に行こうと、その日の午後三時頃祖母と妹と三人で急ぎ桟橋へ向いました。

幸い広島へ向う船があり、やっと宇品港へ着きほっとした次第です。その間すれちがう船には怪我(けが)人や火傷(やけど)をした人達が大勢乗船しており、だんだんと胸騒ぎがして正にパニック寸前の状態でした。それでも正直なところ実家の附近はなんとか無事であってほしいと心に念じながら皆んなに食べさせるべく救急袋の中の南瓜(かぼちゃ)を背負ってきて本当よかった。

宇品港から線路に沿って歩き御幸橋、千田町、大手町、と行くにしたがい被害が益々(ますます)ひどくなる一方で、赤十字病院の前の道端には大勢の負傷者が「水を下さい」「助けて下さい」と懸命に叫んでいます。私達は母と幼い妹と弟達の消息を一刻も早く知るべく先を急ぎました。さらに進むと黒焦げの人がボロボロの布を手に持って歩いてまいります。

又、男女の区別もつかない異常にふくれた死体があちこちに散らばり正に地獄絵を見るような凄惨(せいさん)な光景です。私達三人は黙々と先を急ぎやっと白神社に辿(たど)りつきましたが、見るも無惨な姿に変わっていました。

さて、いよいよ実家のそばまできたのですが、実家のそばに架かっている新橋は恐(おそ)らく渡れまいと判断して相生橋を目ざして歩き丁度(ちょうど)護国神社の鳥居のところで旧産業奨励館が見えてきたのですが、建物の鉄骨や電線が道路をふさぎとても実家に辿(たど)りつくことは無理と判断し、今日は残念ながら疎開先の江田島へ引き返すべく重い足をひきずりながら歩くうち、とうとう夜になり船も出ないとか止(や)むをえず野宿をするこにしました。

さて、野宿すると云っても適当な場所が見当つかずたまたま市内から宇品へ逃れてきた罹災(りさい)者と一緒になって適当な場所を見つけ一夜を明かしました。昨夜は殆(ほと)んど一睡もせず疲労が激しいためとりあえず翌七日の朝江田島の疎開先へ戻ってまいりました。

翌八日なんとしても実家の状況を見るべく昨日と同じ道を辿り相生橋を渡りなんとか実家の焼跡(やけあと)を探しあてました。これはひどい、想像はしていましたが、あまりの変りように三人は口もきけず、たゞ呆然(ぼうぜん)とするのみです。

材木商を営んでいた私の実家は川岸に倉庫が二棟あり倉庫内にはかなりの木材があったのですが、木切れ一本残さずあとかたもありません。又、倉庫の前側には自宅で当時家には母、姉、妹、弟と計六人が住んでおりました。

私達三人は夢中であちら、こちらと遺骨を探し求めました。ありました。次々とキレイに焼けた遺骨が見つかりました。

私のすぐ上の姉は当時女子挺身(ていしん)隊員として自転車で観音町方面へ向う途中だった様です。

又、玄関のあたりには手足が焼けてなくなった黒焦げの子供の死体があり、きっと弟かも知れない。でも妹は死ぬことが分かっていたのかレースのワンピースを着ていたはずですが……妹かしら。一軒先隣りの病院では家族と看護婦さん八人が輪になって亡くなっておられましたが不思議なことに皆んな全裸の状態でそれも白く全く焼けていない死体があちらこちらにあるのです。又近くで焼跡、死体の整理等にあたっていた兵隊さん達が太い材木を井桁(いげた)に組んで火を燃やしてその上にどんどん死体をほうり上げておりました。

いずれにせよはじめて見る光景で、その臭いたるやなんとも云えず今思い出してもぞーとする光景でした。話は別ですが、現在原爆資料館には壁面に銅板による被爆地の地図のパネルが張ってありますが、地図の下部の部分が空白になっておりますが、これは強制立退きされた家屋があった場所だそうで、その家屋とり壊した跡地を整理のため大勢の女学生が動員されて作業中原爆のため教師と大勢の学生が散華(さんげ)した由、私の元の実家の跡地に広島市立女学校の石碑がたてられています。

たった一発の爆弾で二十万人の尊い命が一瞬にして失われたのです。逃げることも身をかくすこともできず、さぞ無念だったことでしょう。

終戦を迎え特攻隊だった兄が復員して参りました。八月二十五日頃疎開先の江田島を引きあげて亡父の実家である呉市広町に住むことになりました。

なお、九月一日には大きな台風が広島を襲い、かつて疎開していた切串地方を直撃して山津波が発生して切串の町村および田畑を埋めつくし約一〇〇〇人が亡くなったとうかがいました。

申すまでもなくあの原爆から九死に一生をえられた方々もおられたことゝ存じます。

本当に痛ましい限りです。

本年は両親、姉、弟、妹達が逝って五〇年がたちます。先般五〇回忌の法要を無事済ませました。

最後に現在の私の心境を正直に申し上げますとたゞ夢中で過ごしてきた五十年であり、よくぞ頑張ってこれたと、しみじみと過去を振り返る昨今でございます。

それにしてもあの一発の原子爆弾により私達は最愛の肉親を失い生活が激変した事実に対し最近はなんとなく風化の傾向が感じられますので、あえて拙文を書いた次第です。  おわり   

 平成六年九月十五日

出典 『被爆体験記集(東友会分)』 厚生労働省 平成二三年(二〇一一年)

 

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