広島に原爆が投下された日の当日、今思えば四歳の時、空はきれいに澄み渡りとても暑い日でした。空襲が解除されていた時、突然一機の飛行機がやってきて、空から何か落としました。その物体は太陽に照らされひらひらときれいな光を放ち、ゆっくりと落ちてきました。その時突然「ピカッ」と強い光を放ちました。次の瞬間「ドカーン」と何が起きたかわからない程の、すさまじい音と供に、家が傾いておりました。
その当時、私の住んでいた家は、比較的庭が広くて大きい家でした。庭には大きな防空壕があり、サイレンが鳴ると近所の方たちが皆でその防空壕に入っておりました。丁度お昼に当たったときは、おひつを持つ込んで中でおにぎりを作ってもらい、度々食べていたのを思い出します。
防空壕の中のなんともいえない、地下の土のにおいがよみがえります。
私は当時爆弾が落ちた瞬間には、玄関から庭へ向かって細い路地を、歩いていました。まだ小さかった事もあり、丁度歩いていた頭の上に、お風呂場のガラス戸がありそのガラスが、粉々に壊れ飛び散っていました。しかし不思議な事に怪我一つありませんでした。運が良かったとしか思われません。
又同時に、すさまじい光線も、その方向に高いブロック塀があり、さえぎってくれておりました。
やけど一つせず、又怪我もなくまさに皆さんに未だに、不思議がられています。それから暫くして、隣のおばさんが帰ってこられました。
顔はケロイドで突っ張り、背中の皮膚はぼろきれの如く垂れ下がり、顔を背けたくなる状況でした。
またその後、道路を歩いていると死体がごろごろと横たわっていました。
体のケロイドが酷い人たちは、余りの暑さにきゅうり畑に入り、きゅうりの水分を体にこすりつけており、またある人たちは川に飛び込み、数日後には膨らんだ死体がぷかぷかと浮かんでいました。
後に引き上げられてガソリンをかけやかれました。今その場所には慰霊碑が建っています。
既に今七三歳を過ぎようとしております現在、この様な光景は脳裏に焼きついて離れません。地獄とはこのようなことでしょう。これから先二度と関わりたくないこととして、皆で忘れる事のないよう伝えて行きたいと思っております。
尚、七、八年前に「世田谷被爆者の証言第一集」に私の手記が世田谷同友会より編集された書籍に掲載されています。
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