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伝えておきたいこと 
横山 直惠(よこやま なおえ) 
性別 女性  被爆時年齢 25歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2008年 
被爆場所 広島電鉄㈱(広島市千田町三丁目[現:広島市中区東千田町二丁目] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 広島電鉄㈱ 総務部 庶務課 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の状況
被爆当時、私たち一家は広島市尾長町東山根に住んでいました。父の横山好太郎、母の八重、私、妹の知江の四人家族です。次姉と次姉の子どもたちも住んでいました。私は広島電鉄の総務部庶務課の社員として働いていました。

戦時中は家で米や野菜などを作っていたので、大根飯やサツマイモをよく食べていました。あまりおいしいものは食べられませんでしたが、おなかがすいて困るというようなことはありませんでした。

被爆前は毎晩のように呉が空襲を受けていて、呉に向かう何百機という敵機の編隊を眺めては、また広島は空襲を受けなかったと胸をなでおろしていました。ただし、私の近所では尾長国民学校が空襲を受けたことがあり、そのとき、近くのお宅に爆弾が落ちて、その家の方が亡くなられたことがありました。
 
●被爆の状況
被爆当日、私は会社に出勤しており二階の総務部の部屋でたった一人、御幸橋の方を向いて窓の所に座っていました。被爆の瞬間、ピカッと光るのが見え、すごく大きな音が聞こえたのを覚えています。私は光ったと同時に立ち上がり窓ぎわに行きました。天井が落ちてきましたが、私は下敷きになることもなく無傷でした。すぐに廊下に出て、建物の外に避難しました。被爆の瞬間、私以外の社員は体操をするため建物の外にいましたが、その人たちも無傷でした。

その後は、けがをして帰ってくる社員を救護したり、食事の支度をするなどの手伝いをしていました。午後三時頃、みんなで帰ろうということになり、会社を出ました。会社の人たちと一緒に御幸橋を渡って皆実町に出て、そこから電車通りに沿って瓦礫をよけながら北上して行きました。まだ火事は起きておらず、私たちが通った後で火事が起きたようです。愛宕町の踏切を渡り尾長町の自宅に帰りました。急いで帰ったので、午後四時頃には家に着いたと思います。

家に着くと、妹がまだ帰っていないことを知りました。被爆当時、妹は下中町にある広島中央電話局で挺身隊員として働いていたのです。私は妹が心配になり、防空用の袋に医薬品を入れたものを持って家を出ました。

市の中心部にある中央電話局に行くため、電車道に沿って紙屋町の方へ向かい、途中に防火用水があれば、妹が入っているのではないかと中をのぞいて見たりしました。

立町の電車停留所近くまで行くと、線路上に女の子が横たわっていました。その子はまるで炭のように真っ黒に焼けただれ、ほとんど全裸で服の縫い目の部分だけが焼けたまま体にくっつき、エビのような格好をしていました。その子が通りかかった私の足にさわったのでその子を見ると、その子は自分の出身地と名前を言い、自分がここにいることを伝えてほしいと頼みました。しかし、私は「はい、はい」と言ってその場を通り過ぎることしかできませんでした。線路上にいたということは、広島電鉄が開設していた女学校の生徒で電車の車掌か何かをしていた子かもしれないという印象をそのとき感じました。このときにはもう辺りは薄暗くなっていました。

そこから紙屋町に行き芸備銀行の前に出たところで、二人の部下を連れた広島電鉄の二宮電気課長に出会いました。二宮課長は「横山さん、あんたとんでもない。こんな所を女一人で歩くなんて」と言って、私を引き止めました。

そのとき、救援のため市内に入ってきていた軍人たちに出会いました。軍人たちは負傷した広島瓦斯の社員と一緒にいました。実は原爆の二、三年前まで広島瓦斯と私の勤めていた広島電鉄とは同じ会社だったのです。私たちが知り合いであることを知った軍人たちは、「お願いします」と言って、広島瓦斯の人を預けて去ってしまいました。預けられたのは荒川常務、加藤さん、国田さん、名前の分からない女性の四人です。

二宮課長は私に「横山さん、すまないがこの四人を見ていてくれ。私たちはこれから相生橋のたもとにある櫓下変電所まで行ってどうなっているか見てくる。それから戻ってくるので、それまで待っていてくれ」と言って三人で行ってしまいました。しかし待てど暮らせど帰ってきません。ようやく帰ってきたら、「私たちだけではどうにもできない。会社に戻って援助の人を連れてくるので待っていてくれ」と言ってまた行ってしまいました。

もう辺りは暗くなっていました。私は、いつまでもここにはいられない、仕方ないから私がこの人たちを連れていこうと思いました。まわりを見たら捨ててある布団がありましたので、やけどをして歩けない荒川常務と国田さんをそれに乗せて引きずって行きました。ああいうときには強い力が出るものです。加藤さんと女性の人は自分で歩いて去っていってしまいました。広島電鉄の前にある宮本旅館の前まで二人を引きずっていきました。私は立ち去ることもできず、そのまま二人を見ていたのですが、広島電鉄の常務が私の所に来て会社に戻って手伝うように言われたので、会社に戻りました。そのまま朝になり、会社で手伝いをしてから家に帰りました。結局、妹を捜すという目的は果たすことができませんでした。
 
●妹を捜して
あらためて八日に妹を捜しに出掛けました。今度は父と母も一緒です。六日と同じ道を通って電話局まで行きましたが、妹は見つかりませんでした。それから比治山に行きましたが、父は「妹は必ず元気に帰ってくる」と言って途中で帰ってしまいました。高齢だった父には歩くのも大変だったのでしょう。

比治山には被災者がずらっと並んで収容されていました。被災者には日光が当たらないようにトタンがかぶせてあったので、一枚一枚めくって妹を捜しました。トタンをめくると皆さん「水をくれ、水をくれ」と言われます。しかし水を飲ませてはいけないと言われていたので、「水を 飲むと治りませんよ」と言っては次のトタンをめくりました。

比治山でも妹は見つかりませんでした。そこにいた人から聞いた話では、比治山まで逃げてきた人たちは軍隊の車で宇品へ送られたそうです。それで私と母は宇品に行きました。宇品で乗船名簿を調べていたら、別府という名前がありました。別府さんは以前私と同じ会社にいた人で、会社に復帰してくれるよう頼んだところ、六日に会社に来てくれることになっていたのです。そこで私はこのことを会社に知らせなければいけないと思い、母を宇品から宇品線の汽車で帰らせることにし、私は会社に行きました。これが私が終戦前に会社に行った最後の日になりました。次に会社に行ったのは戦後しばらくしてからになります。

母が宇品駅で汽車に乗っていたとき、偶然その汽車に妹が友人と一緒に乗り込んできて母と会うことができたのです。妹たちは三日間食事をしていないと言ったので、母は持っていた食料を食べさせたそうです。妹も友人も負傷していませんでした。こうして母は妹を家に連れ帰ることができたのです。

後で妹から聞いた話では、無傷だった妹たちは電話局の負傷した人たちを連れて比治山、宇品、金輪島へという順に逃れて行ったそうです。その後、金輪島から宇品に戻ったときに母と再会できたのでしょう。
 
●おいの死
私の長姉の子どもで清原正三という男の子がいました。被爆時は山陽中学校の一年生です。正三は雑魚場町で建物疎開の作業をしているときに被爆しました。やけどを負いましたが歩くことはできたので、自分で私の家に避難してきました。家に着くと池に飛び込んだそうです。やけどをして体が熱かったのでしょう。

清原の家も尾長町にありましたので、母は姉を呼びに行き、姉はすぐに私の家に来ました。正三はそのまま私の家の防空壕で暮らすことになり、亡くなるまで母と姉がつきっきりで看病しました。私には正三が何かを食べたという印象が残っていません。それくらい苦しんでいました。本当にかわいそうでした。

正三が亡くなったのは終戦の日八月十五日の正午前です。父が家にあった材料を使ってお棺を作りました。
 
●妹の死
妹は原爆で負傷しておらず、被爆後もしばらくは元気そうに見えました。ところが、九月になってからだと思いますが、熱を出して寝つくようになってしまいました。妹の死後、被爆時に妹と行動を共にした方から聞いた話では、妹たちが宇品に避難していたときに、妹が急に立ち上がり、喉が痛いと言って苦しんだことがあったそうです。もうそのときには原爆症にかかっていたのでしょう。

寝ついてしまった妹を家族や親戚で看病しました。妹を看病することで毎日があわただしく過ぎ、日付を覚えている余裕もないような生活を送っていました。

妹の症状でどうしても伝えておきたいことがあります。妹は喉や鼻が詰まるとか、呼吸ができないと言っていました。何かが詰まっているそうなのです。私たちがピンセットで取り出そうとしましたが、何かには当たるのですが出せません。それで出せないと言うと、妹は自分で出すのでピンセットを貸してくれと言います。ピンセットを渡すと妹はクルッと腹ばいになり、鼻から詰まっていたものを引っぱり出しました。驚いたことに内蔵の一部が出てきたのです。内臓は鼻からも喉からも出てきました。妹は鼻や喉が詰まって呼吸ができず、とても苦しそうでした。

また、爪の間や耳など体のあちこちから出血がありました。目じりからも出血して、涙に血が混じっていることもありました。

家から山を一つ越えた矢賀の国民学校に陸軍の部隊がいました。そこの軍医を呼んで妹を診察してもらいましたが、妹をみた軍医は何も言わずそのまま帰ってしまいました。何も分からなかったようです。

妹が亡くなったのは九月八日の午前零時三十分です。亡くなる直前、子どもたちが妹の枕元に並べられました。妹は二歳のめいが大きく成長するのを見たいと言っていました。妹が亡くなると、すぐに父が正三のときと同じようにお棺を作りました。それに妹を入れて、焼き場までかついで行きました。

原爆で亡くなった方の中でも、妹のように体から内臓が切れて出てくるという死に方が一番苦しいのではないでしょうか。私は妹と同じような症状で亡くなったという方の話を聞いたことがありません。ですから、このことだけは皆さんに知ってほしいと思います。

あの八月六日の朝、私は妹と一緒に家を出ました。愛宕町の踏切で遮断機が下り、汽車が通過しました。一番前にいた私と妹は汽車の煙で顔が真っ黒になり、ハンカチやちり紙でふいてもきれいにならないので、後戻りしようかと話しました。しかし、二人とも仕事のことを思いそのまま職場に向かったのです。あのとき家に戻っていればこんな災害に会うこともなく、妹を死なせることもなかっただろうと、いつまでも後悔しました。
 
●被爆後の生活
被爆当時、私の家は建てかけの状態だったので、原爆の爆風で倒れてしまいました。ですから、私たち家族は近くにあったヤギ小屋でしばらく生活しました。食事もおいしいものが食べられず、ひもじい思いをしました。ただし、多くはありませんが米や野菜を家族で作っていたので、食事をするために行列に並ぶというほどのことはせずにすみました。

昭和二十年のうちに私は広島電鉄に復帰し収入はありましたので、生活費に使ったり、家の再 建用の木材を買ったりすることができました。
 
●伝えておきたいこと
どうしても伝えておきたかったことは妹のことです。なぜかと言うと、今でも平気で原爆が作られているのは、原爆の恐ろしさが知られていないからではないかと思うのです。妹のように苦しみぬいて死んだ人がいることを知り、もしかしたら自分もそういう死に方をするかもしれないと思えば、原爆を作る気がなくなるのではないでしょうか。

当時のことを知っている人がもっともっと原爆のことを伝えていかなければならないのでしょうが、だんだん年齢的にも難しくなっていくでしょう。そう思いまして今回私の体験記を残すことにしました。 

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