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被爆体験記 
山中 恵美子(やまなか えみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 11歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2008年 
被爆場所 広島市水主町[現:広島市中区] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 須川国民学校 6年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
昭和二十年当時、江波町地先の三菱重工業広島造船所の協力会社(土木関係)日栄社を営み兼ねて陸軍の暁部隊に所属していた父の高宇静雄、母のアヤコ、私と四人の弟、そして祖父母の九人家族で江波に住んでいました。

私は当初、江波国民学校から集団疎開に行きましたが、少し体が弱いのですぐ家族のもとに帰ってきました。それから昭和二十年四月に今度は吉本さんという親戚を頼って、安芸郡倉橋島村にすぐ下の弟・桂三と二人で疎開し、村立須川国民学校に通いました。私は六年生、弟は四年生でした。

あの頃は不衛生でしたから頭や体にノミやシラミがおり、目は結膜炎で朝起きても目ヤニで目が開かないという状態でした。土曜日、日曜日も学校は休みではなかったと思います。水主町の県庁の近くにある三宅眼科に行くために八月四日の土曜日に江波の実家に帰ってきました。
 
●八月六日の様子
八月六日の朝、三宅眼科に行くためバスに乗りましたが、住吉橋の手前あたりで警戒警報が鳴り、乗っていたバスを降ろされました。警戒警報はすぐ解除になり、歩いて住吉橋を渡りましたが、途中で履いていた下駄の鼻緒が切れたので、下駄を持って歩きました。そのまま歩いて行き、住吉神社を少し過ぎたあたりにある工場の所で、私はハンカチを切ってげたの鼻緒をすげようとしていました。そのとき工場のおじさんが「暑いから、ここの中へ入ってからすげんさいや」と言って麻ひもを下さいました。

私が、工場の中へ入って鼻緒をすげていたそのときでした。大きな電気か太陽が目の前に落ちた感じでバーンと鳴った瞬間、私は地面にたたき付けられたような、何かに押さえ付けられたように感じました。次に息を吐こうと思っても本当に吐き出せない、もう空気はいらないというくらいの爆風を浴び、その瞬間気を失ってしまいました。すべて一瞬のことです。あの爆風を浴びた人の中には、肺が裂けて死んだ人がたくさんいたのではないかと、後から思いました。

何か周りがざわざわとしている感じがして、はっと気が付いた途端、私は「助けてぇ、助けてぇ」と叫びました。すると軍靴を履き、黒いゲートルはぼろぼろで、前掛けを掛けたようなおじさんが「どこじゃあ、どこじゃあ」と言って声を掛けてくれました。私は埋まっていたので、おじさんの足元と前掛けがぶら下がっていたことだけを覚えています。「おじさん、助けてぇ、助けてぇ」と言ったら、おじさんが瓦礫をのけて、手を差し伸べて下さいました。私がおじさんの手を掴むと、手の皮がズルッとむけました。腐りかけたバナナを持ったら、ジュッと抜けるような感覚で、とても嫌でした。そうしたらおじさんがお互いの指を引っ掛け合うようにして引っ張り出してくれました。そのときは助かってよかったと思うだけで、お礼も言えませんでした。もし会うことができたら「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたいと思います。

全部一瞬の出来事でした。私が助け出されたときには、まだ水主町は焼けていませんでしたが、一面暗い灰色というか、家を倒すときに出るような、土煙のベールに包まれているようでした。ぼんやりと人が歩いている影が見えましたが、皆爆発したように膨れた髪になっていました。

助け出されはしましたが、状況が全く分からず、どうしよう、どこに行こうと思いました。住吉橋の雁木から川に下りようか、それとも吉島に向かって行こうか、おろおろしながらも足はどんどん土手を刑務所の方へ向かい、いつのまにか一生懸命走っていました。そうするうちに火の手が私を追いかけてきました。お題目を唱えながら一生懸命走りましたが、逃げても逃げても火は追いかけてきます。必死に逃げて刑務所まで行き、やっと火から逃れることができました。助かったと、火に巻き込まれなくて良かったと思って、安心したせいかそこでまた気を失いました。今この道のりを車で走ってみると近いものですが、私は一日走ったような感じでやっとたどり着きました。そのときには全然分かりませんでしたが、後から考えると火から逃げれられたのは、刑務所の壁で火が遮断されていたからでした。

そのまま気を失っていたのですが「おおい、江波へ帰る者はおらんかぁ」と声が遠くで聞こえ、そしてだんだんと近づいて来ました。「江波へ行く者、舟入へ行く者はおらんかぁ」と叫んでいる人を見ると、顔見知りのおじさんでした。涙が出ました。「おじさん、連れて帰って」と言うと「お、あんた誰かいのう」と聞いてくれました。「おじさん、私、恵美子、高宇の恵美子」と言いました。そして川を船で渡してもらい、対岸の江波に帰ることができました。船には何人か乗っていましたが皆顔は真っ黒で髪が爆発したようになっていて若い人はおらず、おじいさんとおばあさんばかりだと思っていました。でも今思うと、私もきっとおばあさんに見えていたのだろうと思います。瓦礫から助けてくれたおじさんも、実は青年だったかもしれません。

江波の我が家に帰り着きましたが、家は崩れ、そこには誰もいませんでした。近所のおばさんに、お母さんは海宝寺の横穴防空壕にいるのではないかと言われ、尋ねて行きました。その後、母と再会してからは片時も離れるのは嫌で、その晩もくっついていました。夜になってまた空襲警報が鳴り、そのときは、防空壕は危ないから山へ逃げるよう指示がありました。しかし、もう皆動くことができず、死ぬのなら家族一緒に死のうとその防空壕で過ごしました。三、四世帯ぐらいの人と一緒でした。その夜は、町が燃え続ける炎で昼のように明るく、皆実町のガスタンクに火がついたのか、あるいは爆弾が落ちたのかと思うくらいでした。
 
●七日以降の様子
その後は、出っ放しの水道の水を飲み、兵隊さんがトラックで運んでくれたおにぎりを食べながら、防空壕で過ごしていました。

そして九日ぐらいだったと思いますが、呉にいるおじの吉本吟一とその息子の正勝が私たちを迎えに来てくれました。広島に新型爆弾が落ちたと聞いて一度迎えに来たのですが入ることができず、船を仕立てて来てくれたということでした。船で呉に向かう途中艦載機が編隊を組んで飛来しました。そして私たちの船めがけて機銃掃射してきました。呉に向かう途中の小屋浦か福浦という所の海岸にあった小さな山に船を着け、私たちは飛び上がるようにして山の中に隠れました。今でも忘れられない恐ろしいことでした。

おじの家に二、三日くらいお世話になり、そこで父とも会えました。父は暁部隊に行く途中に被爆し、住吉橋の所で遺体を引き上げる作業をしていて帰れなかったそうです。それから倉橋島に行き疎開でお世話になっていた吉本さんの家に行きました。
 
●終戦後の生活
倉橋島ではバラックを建てて住んでいましたが、九月の台風で流され、その後、牛小屋を借りて牛と一緒に生活しました。

母はやけどをしていましたし、私たちは髪が抜けて半分坊主になりました。皆そうだったので恥ずかしいと思ったことはありません。頭のことを聞かれると、ピカドンに食べられたと言って平気でした。原爆が落ちたとき、ピカッと光ってドーンという音がしたことから、ピカドンと呼んでいましたが、私はピカッと光ったことは覚えていますがドーンという音は知りません。そうしているうちに終戦を迎えた兵隊さんたちが帰ってきました。復員した兵隊さんから、ひまし油が毒ガスの解毒剤になると聞いて飲みにくいのを無理して飲みました。最初原子爆弾は、新型爆弾だから毒ガスだと思われていたのかも知れません。

十一月、江波の家が片付いてどうにか人が住めるようになったので祖父が迎えにきてくれました。江波に帰りましたが、私は体調をくずし、体はふらふらの状態で、ドクダミ草をせんじてよく飲まされました。下痢が続き、カーテンを体に巻いておまるにずっと座っていたこともあります。でもそれが放射線を浴びたことに対して解毒作用になり、一番良かったのではないかと思います。私の知っている周りの人は、けがをしなかった人が皆ほとんど死んでいます。朝起きてみたら突然斑点ができて死んだり、元気だったのに血を吐いて死んだりなどです。案外無傷の人が大変で、やけどをした人の方が長生きしているように思います。

体調が悪く寝たり起きたりしていましたが、進学のこともあるので、三学期が始まる翌年一月から江波国民学校にまた通い始めました。学校では校庭でたくさんの遺体を焼いたのでしょう、ものすごい異臭がしていました。昭和二十一年四月に白島にある安田高等女学校に進学しましたが、学校に行っても毎日旧校舎の焼け跡や寮の後始末などの復興作業です。また工兵隊の跡地が学校でした。そこも建物は崩れており、大きな建物の材木を取り除くと腐った死体が出ました。校舎が崩れているので雨が降ると授業が無い日もありました。晴れても、あまりに天気が良いと私の体の具合が悪く、たまに体の調子が良いときに学校へ行っても、復興作業で大変でした。市内電車が完全に復旧してはいないため、江波から歩いて通学しました。通学中に広島城の跡で防空壕生活をしている人もいました。お堀では雨が降れば、食用ガエルが鳴いたり、火の玉が燃えたりしていました。二年生の正月、弟も私も含め家族が皆血を吐いたり病気ばかりするので、父が、死ぬならおいしいお米を食べさせたいと言い、家族で島根県の温泉津に引っ越しました。
 
●結婚、出産
結婚するまで結核を三回わずらい十年間にわたって入退院を繰り返しました。恋もしましたが、被爆者ということで結婚は相手のお母さんに反対されました。でも、その人がいたからいろんな勉強をしました。入院するたびに本をプレゼントしてくれたのです。

それからはこういう苦い思いをしているので、どこで被爆したか聞かれると、いつも江波でとどめていました。江波は実家で逃れられないからです。

やっと元気になりました。母は「反対するような所とは一人娘を結婚させない」と言ってお見合い話を持ってきました。それが夫です。二十三歳のとき結婚し、二年目に長女を妊娠しました。しかし医師に、結核で肺に空洞があるので出産した後母体がもたないから、子どもを産んではいけないと言われました。夫は「子ども欲しさに結婚をしたのではない。あなたに元気でいて欲しいから子どもはいい」と言ってくれましたが、私は女として生まれた限り命をかけても授かった子どもを生みたいと思いました。

陣痛が起きたとき、力んでも体力が無いのですぐ疲れて眠る、いわゆる眠り産でした。帝王切開はせず、三日三晩かかって二千グラムの赤ちゃんを産みました。眠り産は親子とも亡くなることがあり、とても怖いそうです。出産後、一年間寝ついてしまい、そのときは夫や両親に本当にお世話になりました。
 
●現在までの病気や生活について
昭和三十七年、体が起き上がれない状態になり、国立呉病院で血小板減少症と診断されました。少し手を切っただけでも血が止まらず、指が腐るぐらいきつくひもを結んだりしました。出産のとき、帝王切開はしたくてもできなかったということをこのとき知りました。

昭和四十四年には原爆白内障と診断され、失明すると言われましたが、失明はどうにか免れました。

その後、虚血性心疾患になりました。道路を歩いていたら急にしんどくなり、道の真ん中であっても横になりたくなるのです。川を見ると、川の中に吸い込まれそうになりました。車が横を通ればフウッと巻き込まれそうだし、普通に歩いていても、地面を踏みしめているのに雲の上を歩いているような感じでした。

被爆後、背中にガラスの破片が立って夜眠ることができなかったので江波の陸軍病院で大きい破片は取ってもらいました。その後、原田外科でもう一度摘出手術をしましたが、それでもまだガラス片は背中に残っていました。かゆいなと思ってかくと、かゆい部分が膿を持っているのです。それで、かみそりの刃をマッチで焼いて消毒し、膿の部分だけを少し切り、膿をしぼり出すようにすると三角形をしたチョコレート色のガラスも一緒に出てくるのです。皆は怖いと言いますが、膿の部分を切れば痛くありませんでした。いつ出てくるか分からないし、その度に病院には行かれませんから、自分でできないときは、子どもや友達に切ってもらいました。一か月に何回も出ることもあれば、一年あまり出ないこともありました。それが当たり前のことでしたが、昭和五十二年を最後にガラスが出ることはありません。

このように病気を繰り返しましたが、子どもが大学へ行く教育費のため、国勢調査など総理府の統計の仕事に携わりました。平成九年には八月十五日に県の要請により日本武道館に行き被爆者の遺族代表として、献花をしました。そのとき、天皇陛下にもお会いでき、お声を掛けていただきました。

こうした中、被爆六十周年にあたる平成十七年に七月二十九日から三日間、東京の日本青年館で開催された国際会議に出席しました。このとき、三十一日の朝のことですが気分が悪くなり倒れてしまい、居合わせた医師にすぐ広島に帰るよう言われました。そして、広島赤十字・原爆病院で甲状腺癌と診断され、手術をすることになったのです。しかし、まだすることがたくさんあるので、手術は一年後にすると決めて、この間できるだけのことをしようと思いました。いずれにしても人間誰でも一度は死を迎える、それなら私が今しなければいけないことをやっておかなければと思いました。結局手術は八か月後にするのですが、家に帰った後、いつ死んでもいいように色々なものを整理しました。以前、同級生から「被爆で生き残ったということは、平和のために何かをしなさいということ。体験した者でないと出せないものがある」と言われ、後押しを受けながら被爆体験を書いたことがありました。

そうして、初めて国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に来ました。それまでは被爆のことを思い出すのも嫌で、語りたくもなかったのですが、最後に命に刻んでがんばろうと思い、色々整理が済み、まだやらなければならない使命があるなら帰って来られるだろう、もうこれで終わりなら来世でがんばろうと思い手術を受けました。手術を受けたのは広島赤十字・原爆病院です。病名は甲状腺腫瘍(乳頭癌)です。左葉峡部切除、右半分強切除、リンパ、前頸筋切除、気管切開をしました。術後は上喉頭神経麻痺、喉頭浮腫になりました。今は約三か月ごとに血液検査とエコー検査を行っています。また、約一年ごとに胸部レントゲンなど検査しながら長期に渡って外来で十年位経過観察が必要と申し渡されました。

私はいろんな病気をしてきましたが、病気のことは深く先生に聞いたりしません。聞いて治るものではないからです。人生すべて、いろんなことが起きても意味があってのことです。それを体験しなければならないという私の宿命なら、使命に変えて生きていこうと思っています。
 
●平和への思い
戦争ほど残酷で不幸なものはありません。自分がいくら幸せでも、戦争で周りが不幸だったら、絶対に幸せにはなれません。

核保有国は使ってはいけない核を研究して小さくして、強度なものにしています。被爆者はこの核に対して本当に阻止し怒っていかなければならないと思います。

しかし、私自身なかなか怒っても行動が伴いません。そんな自分自身に勝って、人頼みにする心を捨てなければなりません。小さな石を池に投げると、小さな波紋しか起きないかもしれません。けれど石一つを投げてその波紋を広げるように今「生きている私たちが『核はサタン(悪魔)。絶対反対』と叫び訴えなければならない」と最近無性に感じています。

世界の平和は個人の幸せ、個人の幸せは世界が平和であることを痛切に祈り願う昨今です。 

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