私は広島市の中心部にある本川小学校を昭和一九年三月に卒業をした。それで原爆投下のあの日は私は広島県立第二中学校の二年生になっていたが、通常の登校日が急遽勤労作業に振替えられ、現在の広島駅北、当時の東練兵場へ集合を命ぜられた。さつま芋畠の草取りの仕事である。
畠作業は大嫌いな皆であるから、八時になってもすぐには作業にとりかからない。一点の雲もない快晴の空に、かすかに爆音が広がり東方より米軍の爆撃機B29が一機真っ直ぐにこちらをめざして飛んでくる。何にでも興味を示したがる中学二年生はたちまち立上がり、そのB29の方を指しながら口々に何か叫んでいる。私は太陽がまぶしいので左手を顔にかざしながら目を凝らして機影を追いかけた。B29は単機で高度も相当高いところから機体をキラキラと光らせながらこちらめざして飛んでくる。我々のいる地点よりだいぶ東寄りの位置まで来たとき、ポロリと黒いものを機体から離した。「落した。落した」皆が口々に叫ぶ。その物はあたかも鳥の糞の落下そっくりで、頭上を西方へすーと放物線を描きながら落ちてゆきたちまち見失ってしまった。これがあの原子爆弾そのものと知ったのは暫く後のことである。
と、B29の方は爆弾を放り出すや否や信じられないくらいの急旋回で北方へと九十度方向転換し遁走を始めた。「曲った。曲った」の声で皆は一斉に爆弾の落下方向を追うことを止め、スピードアップしながら逃げる機影を追って首を西から北の方に向けた。これが、結果的には良かった。おかげで、閃光のために目が潰れないですんだのである。
飛行機が進路を北に向けてほんの数十秒経ったときか、頭の後ろのあたりがマグネシウムを焚かれたように轟然と光った。「アチチチチチ」熱線に焼かれた顔と左手に鋭い痛みを感じる。その瞬間は、側に立っていた友人の頬が太陽の直射下にもかかわらず、桃色の皮膚が紙のように真っ白に見えたのを覚えている。これが原爆の信じられぬ閃光の特徴なのだ。「千の太陽よりも明るく」という言葉は正しい。
その直後、市内から地を這うように伝わり襲ってきた爆風で芋畠に打ちつけられて失神してしまった。数秒なのか?数分なのか?気が付くと畠の畝の間にひれ伏して両手はしっかり両目を覆っていた。広島では原爆のことを「ピカドン」と名付けた。最初に光、続いて大きな音が「ドン」と聞こえたからである。然し距離が近すぎて、自分には光は記憶しているがドンの音の記憶はない。頭上を見上げて驚いた。すぐ上を巨大な入道雲が覆っている。雲は静止しないでむくむく動き膨らみ、その部分部分の色が全部異なる。中心部の雲は原子核反応の余熱が残っているのだろうか赤い火球状。その外の雲部分は暗紫色、更なる外は暗青色、更に外は灰色。中心の火球部はまだ明るいので、取り巻く雲を通して赤さが透けて見えている。それぞれの雲はむくむくとダイナミックに動きつつ色も変化し続けている。絶望的な気分のなか隣家の友人を捜しだし、二葉山南の尾長から牛田東に通ずる峠越へに、牛田早稲田神社隣接の自宅へ帰ることができた。
途中、峠の高度が徐々に高まって行くにつれ広島市中の惨憺たる情景が望見された。もう幾条かの黒い煙が上がり始めていた。頭上の原子雲はずいぶん巨大化して、すっかり市全体を覆い尽くしている。その天辺の縁の部分は白く輝いているのだ。
早稲田に着くと近所の藁屋根の農家が炎上中で紅蓮の炎を上げていた。消す人は見当たらない。自宅に帰ると奇跡的にも両親、六人の兄弟は誰も市中に出なかったので無事であることを知り安心した。母親は私の顔をみるなり、「まあちゃんおおごとよ!牛田に爆弾が落ちたんよ!」と目を張って言う。私は「何を言っとるん。爆弾は広島の真ん中に落ちて、今峠から見たが広島じゅうが火事だらけよ」と答えた。とにかく市民には原爆のスケールが巨大すぎたのだ。自宅はといえば、爆風で母屋の屋根は全体が北側にずり上がっており、縁側をL字形に囲む総ガラスの雨戸はガラスが総て砕け、柱に突き刺さっている。庭の百年を経た黒松は南西側の葉が赤茶色に焦げ縮れていた。私は母親から火傷の手当、といっても薬がないのでごま油を塗られ、包帯を顔から背、腕にかけてぐるぐる巻きにされただけだった。
しばらく休んで外に出てみた。被爆後幾らか経過した時だが、市中から火傷し着衣がボロになって垂れ下がったままの市民が続々避難をしてきた。ここは行き止まりの場所なので、多くの人が早稲田神社境内の樹木の下に休むというより倒れ込んで動かなくなっていた。しきりに「水、水」の声がする。元気な大人が小声で「水をあげてはいけんよ。すぐ死ぬから」と囁く。なかでも、やかんの音が聞こえた途端身動きしないでいた人が腕だけをにゅっと延ばし「みずー」の声を聞いた瞬間だけは忘れられない。
翌日以降は当地にて行き倒れて息を引き取った人々を牛田公園にて茶毘に付すため、付近の大人が集められて作業に当たった。父も連日奉仕に出たが、帰宅後は「言えないよ」と言ったまま全く無言。父は亡くなるまでに一回もその説明をすることはなかった。当時風向きによっては煙と臭いが自宅までただよってきて、数ヶ月間はうちでは魚は食べなかった。
私は被爆日八月六日の前日の五日には昔の材木町、今の広島国際会議場のある場所で建物疎開作業していた。八月六日は一学年下の一年生が作業を受け持ったのだが、不運にも三〇〇人全員が亡くなった。この一日の差は今も心の負い目になって今日に至っている。
それから幾星霜。東京にずっと暮らしていた自分は、たまたま帰広して平和公園を訪れたとき、全く偶然に広島二中の原爆慰霊碑を見つけた。碑の裏に廻って、懐かしい先生方のお名前と旧友のY君の名前、それからいつも牛田町から一緒に通学した一年生M君の名前を見つけたとき、ボロボロボロと両眼から涙が噴き出して止らなかった。今でも慰霊碑を囲み水を湛えたあの池を見るたびに、「みずー」のあの声が必ず耳元に蘇るのである。
(付記)
自分は原爆のことについては長年文章に書いたことはなかった。それは思い出したくないし、触れたくもないという潜在意識が絶えず働いている故であろう。
私は原爆の出てくる映画は見ない。原爆に関する本も読まないことにしていた。唯一読んだ記憶があるのは、昭和三〇年代の出版であろうか、ロベルト・ユンクというドイツのジャーナリストの書いた「千の太陽よりも明るく」という原爆の開発と使用のいきさつを書いた書物である。これでマンハッタン計画というものの存在を知った。この本一冊で充分であると思っている。
近年は若干変化してきた。即ち原爆についての体験を知人友人そして若い人に求められるままに体験談として、意見も含めて努めて語るように心がけている。近年ますますこの傾向が激しくなってきたように思われる。それは「語りべ」の存在が必要だと自覚してきたことによる。
今回もそういった経緯で当時の記憶を書かせて頂きました。
二〇〇五年一〇月三一日
(注)
山根政則の被爆場所 広島市松原町(今のホテルグランビア付近)距離二キロメートル
私の当時の自宅位置 広島市東区牛田早稲田 距離三キロメートル
被爆時の年齢 一四歳 中学二年生
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