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被爆者の永き道のり 
新竹 潔子(しんたけ きよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2008年 
被爆場所 広島市広瀬北町[現:広島市中区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
私は、昭和十八年の暮れに南方戦線から帰った夫と昭和十九年七月に結婚し、現在の新天地に家を借りて住みました。夫は江波町の三菱重工業広島造船所総務課に勤めていました。

昭和二十年三月には再び軍からの召集があり、夫は山口県の柳井暁部隊に配属されました。当時、私は妊娠八か月でした。夫は高田郡の出身で「広島は危ないから、甲田町の実家に帰っておいてくれ」と言いましたが、私は田舎生活の経験はありません。また、夫の実家には両親と兄夫婦、弟妹三名が住んでいましたので、行きたくはありませんでした。結局、荷物だけを夫の実家に疎開させ、私は母の所に行き、そこで長女の敏子を五月に出産しました。
母の家は広瀬国民学校に近く、蚊帳工場の南側にありましたが、七月に第三次建物疎開のため、同じ町内で横川橋近くにある家に移りました。その家は、夫は出征し、老人と赤ちゃんがいるので大変だろうと、町内会長さんがお世話してくださいました。その家には、夫を空襲で亡くした姉・喜子が六歳と三歳の子どもを連れて帰ってきましたので、全部で六人で住むことになりましたが、お医者さんの家で広かったので不自由はありませんでした。姉は呉海軍工廠の検査官だった夫を呉市の空襲で亡くし、帰ってきたのです。

●八月六日の様子
あの日は、朝七時過ぎに出された警戒警報が七時半過ぎには解除されましたので、私は市役所に転居届を出しに行こうと思って朝食をすませ、出掛ける支度をしていました。

八時十五分、突然、廊下の窓ガラスがぱっとオレンジ色に光りました。何とも言えない稲光とも違う色で、本当に気持ち悪く、今でも思い出すとぞっとします。あらっと思った途端、ピカッと光ってドーンといい、私は意識を無くして大きな二階建ての家の下敷きになりました。

何分たったか何時間たったか分かりませんが、辺りは真っ暗で体の上に幾重にも木材が重なりあっていて身動きがとれません。原爆だとは知りませんから、様子が全く分からず、ただ何とかして外に出なければと思いました。そのとき、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。私が出掛けるので、母が子守りをしていた敏子の声が聞こえ、母と娘がいたことを思い出しました。たまたま甥の秀城がそばにいたので、それを引き連れて、どうにかこうにか外に出ると、辺りは火の海で、広瀬北町の通りは全部焼け、私の家の玄関にも燃え移ってきました。顔は傷で血みどろになり、倒れてきた木材で背中を打ち、左足には四センチくらいの塊となった肉がぶら下がっていましたが、着ていたワンピースを破いて足に巻き、応急処置をして水を掛けました。水を掛けるといっても水道管がはじけて水が飛び散り、そこら辺にあった入れ物を使ってもなかなかためることができず、どうしようもありませんでした。

甥はやけどや傷らしい傷も無く、血も出ていませんでしたので、私は甥を火の回らない少し離れた所にある木の下へ立たせておきました。

とにかく、子どものことをなんとかしなければと思っていると、近くの小学校にいた兵隊さん、警防団の人、そのほか大勢の人が目の前を逃げていきます。「助けてください、助けてください」と言っても、誰もそれどころではなく、放っておいて逃げていくのです。その中の一人が「これを貸してあげるからどうにかしなさい」とつるはしを置いていきました。火は回ってくるし無我夢中で倒れている材木を押しのけ、母と敏子を引きずり出そうとしました。自分より孫を助けてほしいと思ったのでしょうか、母は「この子、この子」と言うばかりです。何とか敏子を助け出すことができ、続いて母も引っ張り出すことができました。敏子は母が抱いていたので、けがも無く意外にきれいな顔でしたが、抱いたら頭の上に傷がありました。母の方はたんすの角がこめかみへ当たり血まみれで、全身も打っていたのですが意識はありました。ただ、右手の甲にガラスが突き刺さって麻痺し、垂れ下がったままでした。

姉や姪も気になりましたけれど、火が回ってくるので、逃げるしかありません。姉は別棟の風呂場で洗濯をすると言っていたので、どうしようかと思いましたが、とにかく甥を連れ、敏子を抱き、母を肩に寄りかからせて天満川の河原まで逃げました。

河原には自然の砂浜や芝生のような所があり、みんなそこに逃げていました。火が燃え上がって熱いので汚くても関係なく、皆、川の水を飲んでいました。

川には小舟がありましたので、元気な人はまだ燃えていない対岸の中広町に渡っていきました。しかし、私たちは渡ろうと思っても、赤ん坊の敏子や甥、けがをした母がいて渡ることはできません。仕方がないから砂浜にいましたら、雹のようなものが降ってきました。黒い雨だったのでしょうが、痛いぐらい大粒の雨で、そのときの私たちには雹に思えました。夏だから裸同様で、服は破れシミーズ一枚の格好で、甥は海パン一枚でした。

ちょうど引き潮だったので、ずっと河原にいたところ、姉が私たちを捜してやってきました。ずっと捜し歩いてやっとのことで見つけたらしいのですが、逃げるときブロックか何かで右目の上をけがしていました。たったと走ってきましたので、ほかは大丈夫だったようです。

姉の子で三歳の恭子がまだ家にいるというので姉と一緒に捜しに行きましたが、土手の所は火が回っていましたので、どこかを必死でよじ登ったのだと思います。

行ってみると、姪は一番奥の部屋にあったミシンの下にうずくまっていました。三歳ぐらいの子が入るとちょうどミシンが囲いのようになっていました。雨が降ったためか火災も収まっており、一番奥の部屋だけは焼けずに残っていました。姪を連れて母たちのいる河原に戻り、夕方までそこにいました。

いくら夏だといっても夕方になったら寒くなり、おなかもすいてきました。元気な人は布団を引っ張り出してきた人もいましたが、私たちは小さな子を連れているので、そういう訳にはいきません。どうしようかと思っていたら、横川町の広島市信用組合本部(昭和二十年五月までは三篠信用組合)が救護所になっているという話が聞こえたので、私たちはたくさんの人が黒焦げになって道いっぱいに死んでいるのを見ながら、信用組合本部までとぼとぼ歩いていきました。その頃にはもう暗くなり、この近くの火は収まっていましたが、道路も川も死体でいっぱいでした。

信用組合本部は横川駅東南(今の広島信用金庫横川支店の所)にありましたが、私たちがそこに着いたのは遅かったので、建物の中はムシロの上に死んだ人や黒焦げになった人、やけどした人が大勢転がっていました。お医者さんが一人おられたのですが、けが人が大勢いますから手が回らず、赤チンを塗るだけです。そのお医者さんに「この子はもう亡くなっているからだめですよ」と言われましたが、私は敏子を離す気にならず抱いたままでした。泣くでもなく、乳も飲んでくれないのでおかしいと思っていましたが、死んだと信じたくはありませんでした。

夜、軍人や警防団の人が乾パンと水をくれました。みんな水、水と言っていましたから、アルマイトかアルミニウムか何か知りませんが、それに水を入れて少しずつ配ってくれました。でも、それでは足りないので、私たちは置いてあったバケツの水も飲みました。建物の中ですが、不安や痛みで寝られない一夜を過ごしました。

●八月七日以降の様子
翌朝早く、様々な方面に行く軍隊のトラックが出るから、希望する方面に行くトラックへ乗ってくれと言われました。私の見た限りでは軍隊のトラックが三、四台程来ていました。明るくなった七時か八時頃、私は主人の実家へ行こうと思って、高田郡方面に行くトラックに乗りましたが、トラックの上ではがたごとがたごと揺られて傷が痛みました。途中、可部の警察署でいったん休憩となり、町内の人に乾パンとお水を配ってもらいました。

そうして私たちはみんなけがをしているので、吉田病院に連れていかれました。病院では廊下へゴザやムシロが敷いてあって、そこに寝かされましたが、お医者さんもそんなに多くはいませんから、治療といっても赤チンを塗るぐらいです。食事は町内会や婦人会の人が、薄いみそ汁とちょっとしたおにぎりをくれましたので、それで飢えをしのぎました。亡くなる方も多くあり、裏庭が広いので、そこで死体をどんどん焼いていました。敏子を抱いたままの私を見て、「あなたの子どもはもうだめだ。死んでいるから裏庭に出しなさい」とお医者さんに言われましたが、私は出したくないと言って敏子を離しませんでした。

夫の実家が病院から一里余りの所にありましたから、連絡してもらいました。夫の親もどうなったのだろうかと心配していたらしく、おにぎりや梅干しなどいろいろ持ってきてくれました。そして敏子の弔いをするため、青年団と一緒に大八車を引いてきてくれ、それに足が動かない私と敏子を乗せ、村まで連れて帰り、丁寧に敏子を弔ってくれました。敏子が火葬場へ連れていかれるのを私は家の裏口から見送り、しばらくして小さい骨つぼに入って帰ってきたのを迎えました。

夫は軍隊で身体をこわし、島根県にある広島第一陸軍病院大田分院に入院していました。私は、一度だけ敏子を見せるため見舞いに行きましたので、夫は敏子を一目だけですが見ています。そのときにはもう一度敏子を見せてあげたいという気持ちでいっぱいでした。娘の弔いをすませた私は、母がいましたので、また病院に帰りました。

吉田病院が増え続けるけが人でいっぱいになり、少し元気そうに見える人たちは吉田高等女学校へ移され、夏休みいっぱいを女学校で過ごしました。収容されている人が多く、校舎の一階も二階もいっぱいで、私たちは二階へ上げられました。その当時、気を病んで自殺した人が何人もいたので、警備の人がずっと廊下に立っていました。私も夫には会えず、子どもは死んでしまい、そのうえ周りの人も騒がしく、蚊もいるのでなかなか寝られず、うろうろしていたら、自殺をすると思われたのでしょう、警備の人から部屋へ入れと言われました。私は「頭はまともなのです。ただ寝られないから出ているだけです。大丈夫です」と言いました。はたから見れば私はやけどをしていないからいいではないかと思われたかもしれませんが、全身打って脊髄をやられ、しんどい思いはほかの収容者たちと同じでした。

八月の終わり頃、夏休みが済んだら学校も始まるので、それまでにそれぞれ行き場を考えてほしいと言われました。私は母とともに夫の実家に世話になることになりました。ただ、姉には「あなたも一緒に主人の実家へ連れていってあげたいが、お母さんを連れていくのも気兼ねなのでごめんなさい」と言い、安村の教宗寺なら父親の里で、家も広いので気兼ねがないのではないかと勧めました。

しかし、姉はしばらくしてやはり気兼ねでかなわないと、似島検疫所に移ったようです。ここにはご主人の父親が群馬から出てきて勤めていましたし、そこが救護所になっているのを聞いたからです。その後、検疫所は封鎖となりましたが、それからもしばらくそこにいたそうです。

私と母は夫の実家に移りました。母屋の方へ住めばいいと言ってもらいましたが、気兼ねなので狭くても母と一緒の方がいいと思い、蔵の横にある番小屋に住ませてもらうことにしました。

私たちは疎開していて食べ物も十分ではないので、米や漬物は母屋の方からもらいました。また、私のタンスを夫の実家の蔵へ疎開させていましたので、そこから衣装を出して近所の人に食べ物と交換してもらい助かりました。姑には「近所の人に笑われるからやめてくれ」と怒られましたが、そうしないと私たちは食べることができませんでした。

私のけがはやけどなどと違って目に見えず、その痛みは他人には分からないのですが、農業の手伝いもしなくてはなりませんでした。母にしても右手が痛く、垂れ下がって使うことができないのに、井戸の水汲みを手伝ったりして、本当に死んだ方がよかったと思うくらいつらい日々が続きました。

つらい生活をしながら、私や母は治療のために村の西村というお医者さんへずっと通いました。大した設備も無く、治療も私の足の傷の手当てと母の右手のガラスを抜く程度の簡単なものでした。髪はとくたびに抜けていき、歯茎からは血が出て、身体のあちらこちらに斑点が出ました。私は貧血で白血球が一、四〇〇しか無く、岡山の医大生の方の話によると自分の血を採ってどこかに注射したら白血球は増えるというので、村の学校でやってもらったこともあります。めまいや貧血で頭がふらふらして倒れたり、嘔吐をしたり、いつもどこか体の具合が悪く、大変な生活が続きました。

そんな苦しい生活の中で、毎日、夫が帰ってくるのを待ちました。吉田病院から夫のいる島根県の病院へ連絡をとってもらったこともありましたが、何にも連絡が来ません。後から聞いた話なのですが、夫は夫で私たちを心配して市役所へ一生懸命問い合わせをしたが、居場所が分からなかったそうです。その後、私が実家へ帰っているということを両親から聞いたのでしょう、子どもは死んだけれども私は元気でいるのだと知って、一応は安心していたと言っていました。

九月になり、待ちに待っていた夫が帰ってきてくれたので、本当にうれしく思いました。島根県の病院から来たので、軍服でなくて白い病衣のままでした。もし、広島の病院にいたら原爆で死んでいたと思います。夫は何も無くなったが命が助かっただけでも幸いだと励まし、様子を聞いてくれました。夫は正式に除隊になったわけではありませんので、「僕はこのままいるわけにはいけない。とにかくここで厄介になっていなさい。何とかするから」と言って、何日か後に病院に戻りました。

夫は十月の始め頃正式に除隊になり帰ってきましたので、小さい番小屋ですが一緒の生活が始まり、本当に心強く心からうれしく思いました。

夫は広島の三菱への勤めも再開し、芸備線を使って通勤しましたが、しばらくすると台風による水害で芸備線が不通になったりしたものですから、次第に会社に泊まり込むようになりました。

●被爆後の生活
夫の実家で生活をしていましたが、昭和二十一年七月四日に子ども(次女)が生まれました。その頃から、いつまでも夫の実家にいるわけにもいかず、夫が勤めに困るということもあり、何とかして広島に家の再建をしたいと考えるようになりました。夫は私をかばってくれますが、夫の親としては厄介者がいるわけですし、小姑もたくさんいて嫌な思いばかりなので、とにかく広島に帰りたいと願っていました。

しかし元の土地は建物疎開で訳が分からなくなり、被爆時の家はお医者さんの別宅で建てる所がありません。そんなとき、己斐に住んでいる長姉の家は傾いてはいましたが、焼けずに残っており、ちょうど職人さんを雇って傷んだ箇所を修理させたところでした。義兄は戦地からまだ帰っておらず、子どもたちも疎開して一人暮らしをしていましたので、私たちはここに身を寄せ、家を建てる準備をすることにしました。

お金は私の衣装を駅前のヤミ市で売って作りましたが、それだけでは足りないので、アメリカにいた夫の叔母に手紙を書き、お金を送ってくれるようお願いしました。すると小遣いの中から五十ドル送ってくれ、何とか資金を用意することができました。それからは私たち夫婦に子どもがいるのを知っていた叔母は、衣類とかお菓子類とかしょっちゅう物を送ってくれるようになりました。

土地は広島に住むいとこに頼んで、昭和町に四十坪ぐらいの畑だった所を貸してもらい、大工の棟梁をやっていた義兄に家らしいものを建ててもらうことにしました。材木は、主人の戦友が五日市の材木屋さんでしたので月賦払いで材木を分けてもらい、主人が休みの日に私と二人で屋根のソギ(木を薄く削った板)を打ちました。私も足が痛いのをがまんして、長姉の家から昭和町まで通いました。当時はみんな掘っ立て小屋の時代ですから、そんなにいい家ではないにしても何とか家らしい家ができました。夫はこの家から三菱に通い、よく戦友が訪ねてきたのを覚えています。

その後、三菱が合併することになり、夫は会社を辞めました。自分はどこでも行き場所があるからと後輩に職を譲り、国泰寺にあった大手の建設会社へ入りました。そして、緊急連絡がしやすいように社宅に入ったため、昭和町の家は主人の友達に貸しました。現在の住まいに来るまでずっと社宅生活で、宇品の社宅は門構えも立派な寂しいぐらい大きな家でした。

●後遺症と生活苦
広島に移ってからも原爆の後遺症に悩まされました。髪が抜けるのは治まりましたが、物が食べられない、嘔吐する、めまいがする、倒れるといった病状がずっと続きました。弱い嫁で夫に迷惑を掛けたと思いますが、そんな私を夫はやさしくいたわってくれ、行く所が無い母を我が家へ引き取ってもくれました。

戦後すぐは、まだ被爆者の医療費が要らないという時代ではなく、金銭面でも大いに困りました。体のあらゆる所が痛いので、ずっとお医者さんにかかっていましたし、夫もいいお医者さんがいると聞けば、山口県だろうとどこだろうと連れていってくれました。

そのうちに貧血の治療費だけが無料になりましたが、貧血の治療というのは毎日注射を打ちに行かなければなりません。市民病院がいっぱいだから、白島の逓信病院まで注射一本打ちに行かないといけないのです。治療費は要らなくても、私は足が悪いからタクシーに乗らなければならず、交通費が大きな負担になりました。

その後、現在の広島赤十字・原爆病院ができて治療費が無料になりました。入院したら個室代とかが要りますが、治療費は要らなくなって少しは楽になりました。それまでは給料のほとんどが私の治療費と交通費で消えていたので、夫にはつらい思いをさせました。

夫は癌を三回患いました。初めは四十二歳のときに胃癌で胃を全部取り、六十歳のときに食道癌を患いました。癌の部分はきれいに取ったにもかかわらず、三度目は肝臓癌を患いました。でも、七十七歳まで生きることができました。

私ももうすぐ八十六歳になりますが、よくここまで生きたと思います。

被爆時に痛めた背中の痛みで寝られない夜が続き、今でも睡眠薬を飲んでいます。原爆のために足が不自由になって脊髄の手術もしました。肺癌と心筋梗塞なども患い、ずっと病気で悩んできました。

娘は三人いましたが、長女は原爆で亡くなり、次女は婿の転勤で三十年前に東京へ行って定年後もそのままで、三女は広島の平和記念公園のそばにいます。娘たちには原爆にあって産んだ子だということをはっきり言って、それを承知で結婚してもらいました。

うつになりそうなときもありますが、孫たちが楽しい気持ちにしてくれ、みんな心配していると言ってくれます。孫が携帯電話もちゃんと用意して、操作の方法も分かりやすく教えてくれたり、もう少し元気な頃は伊豆や横浜などいろいろな所に連れていってくれたりしました。

主人が亡くなって少しショックでしたが、娘たちにはできるだけ一人で頑張ると言っています。娘たちは私が病気がちだから毎日のように電話をくれますし、泊まりにも来てくれます。お婿さんたちも優しく理解があり、ありがたいことだと思っています。

●平和への思い
戦時中の若い人は、中学生の頃から軍隊や挺身隊に召集されて、いくら勉強したくてもできませんでした。今の若い人の中には、ニートといわれる人たちがたくさんいますが、どのように考えているのかと思います。戦時中の若者は苦労して、犠牲になって死にました。

また、広島、長崎では原爆が投下され、かつてない多くの犠牲者が出ました。多くの生存者は今もそのために病気と闘いつつ生き続けていかなくてはなりません。その苦しみがどんなものであったか、若い世代の人たちにも分かってほしいと思います。

被爆者の苦しみは被爆者自身にしか分かりませんが、少しでも私のような立場の人の苦しみを分かってもらいたいのです。今の世があるのも多くの犠牲者があってのことで、二度と原爆は繰り返すべきではありません。世界中、絶対に戦争はあってはいけません。

 

 

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