ドクターマルセル・ジュノーは、昭和二十年九月九日朝十時頃、今の広島銀行銀山町支店にあった広島県衛生課においでになり、広島県衛生課長と打合わせの上、中国新聞の加藤報道部長と私とをお供に、向洋の東洋工業(今のマツダ)本社に移っていた広島県庁においでになり、高野県知事と医療品の配分について相談されました。帰途、橋を渡った所で乗用車を降りられてこう申されました。「私は今度の戦争で、エチオピア戦争以後、各激戦地を歩いて廻ったが、破壊のひどかったのは港湾都市ではハンブルグ、普通の都市ではスターリングラード(今のボルゴグラード)であった。しかし、この広島程徹底的に破壊された所は無い。こんな残酷な原子爆弾を使用することは人類の破滅につながることを考えねばならない。だから原子爆弾の製造は禁止すべきで、これを使ったアメリカは悪魔というべきである。その上、今後注目しなければならぬのは、この広島に落とされた一発の原子爆弾は、必ず全世界の人々の精神状態を変えてしまう。それは、いつ、どのように変えるかは分からないが、必ず変える。ドクター松永は注意して社会の状態を見てゆきなさい」と言われて、乗用車に乗られました。そして、己斐まで、爆心点を含めて三~四度乗用車より降り、被爆状態を観察されました。ドクタージュノーの来広の目的の一つは原爆の影響を調べられることです。
己斐に着きました。ここから宮島口まで電車ですが、電車賃は県から貰っていません。私のポケットマネーです。以後、毎日の電車賃は私のポケットマネーです。こうした県の態度が、大恩人のドクタージュノーの功績を埋もれさせてしまうのです。尚、ドクタージュノーが乗用車に乗られたのはこの日一日のみです。これは広島には乗用車が少ないのをドクタージュノーは御存知だったので、ドクタージュノーが乗用車の利用を辞退されたのです。己斐駅から銀山町の衛生課までは、荷物を積んだバタンコ(オート三輪)かトラックのヒッチハイクです。こんな事が考えられますか。事実なのです。衛生課に着いて衛生課のバタンコに乗られました。そして、目的地に行かれるのです。
翌日、二日目です。宮島口から電車に乗りました。若いお巡りさんが来ていました。ドクタージュノーが煙草をすすめてくださいました。「禁煙だがなあ」と思ったのですが、思い切って頂きました。一~二服吸った時、ドクタージュノーは禁煙と書いた白い注意書きを見つけられ「ドクター松永、あれは何ですか」と聞かれました。観察力の鋭さに感じ入りました。感じ入ることはもう一度後すぐ起こりました。「実は、禁煙なんです」とお答えしました。ドクタージュノーはわざと怖い顔をされて、左のポケットより葉書大の白紙を出して、煙草の吸がらを包まれました。この葉書大の白紙が、毎日、大活躍するとは思ってもみませんでした。ドクタージュノーはそれ以降、一本も煙草を吸われませんでした。又、ここらでひと休みしようかと言われたこともありません。
三十五年経って記念碑ができた時、御令息のブノアさんが来られましたので、ブノアさんにこの話をしましたら「父はヘビースモーカーでガウンやカーペットに焼けこげを作っては母に叱られていたが、意志の強い人だからそのくらいのことはした筈です」と言われました。電車は廿日市を過ぎると混みはじめ、五日市で老婆が乗ってきました。隣のお巡りさんに「立とうか」と相談している間に、ドクタージュノーがさっと立たれて席をゆずられました。感じ入るやら恐縮するやらで二人共立ち上がりましたが、座っていなさいと肩を押されました。参りました。ドクタージュノーは質問魔で、いつも何かを質問されました。広島とはどういう意味だ、宮島の神社に何が祭ってあるのかということまで聞かれ、それを先程書きました左のポケットの白い紙に、銀色の太いシャープペンシルを使って、丁寧な字で記入されるのです。太い芯でした。思わずみとれて見入ったことが度々ありましたが、これを整理なさるのは大変だなあと思いました。
この日は古田小学校に行きました。ドクタージュノーの来広の目的の一つは広島の医療の状態を調査されることです。県病院耳鼻科の大野木敏子先生に会いました。大野木先生が「のどがネクローゼになって、ぽっかあと大きな穴になってるんだが、どうしたものであろうか」と言われました。ドクタージュノーは「それは明後日届くノーマルヒューマンプラスマを使えばよくなる」と言われました。ノーマルヒューマンプラスマは日本で製造されていませんので、大野木先生も私も初耳でした。救護所の中に入られました。アメリカ人が来たと思ったのでしょう、広い講堂がシーンと静まりかえりました。ただならぬ空気でした。私は「この方は赤十字国際委員会の方で、原爆の影響を調べられると同時に、実に貴重な医療品を持ってきて下さって、やがてここにも届くでしょう」と説明しました。ドクタージュノーは人を引きつけるような人柄の持ち主ですから、見る見るうちになごやかな空気に変わりました。
三日目、ドクター松永は休みなさいと言われました。広島赤十字病院を訪ねられ、そして、宇品の大和人絹内に設けられた東大都築正男教授の診療所に行かれました。都築教授は世界で最初に、大量のレントゲン線をウサギに放射して、レントゲン線の生体に及ぼす影響を調べられた方です。原爆直後広島に来られ、診療所を開いて被爆患者さんをずっと診察してこられ、八月二十三日「原子爆弾症」と新しい病名を発表されたのです。
ドクタージュノーは宮島に泊まられた最初の夜、都築教授に放射線が人体に及ぼす影響及び原子爆弾症についてくわしく話を聞かれていたのです。そしてこの三日目に、都築教授の診療所で原子爆弾症の患者さんの診察に当たられ、原子爆弾症の詳しい知識を得られたのです。ドクタージュノーは大変な勉強家で、一九四八年イギリスに留学され、一九五一年ジュネーブ大学初代麻酔部長になられた程の学者なのです。ドクタージュノーは他の救護所では、一名の患者さんの口腔以外は診察をなさいませんでした。ですから、ドクタージュノーの聴診器を見たことはありません。
四日目、宮島口の連絡船の発着場にお迎えにいきました。すると、係の人が「あなたは毎日ジュノーさんを送り迎えされとりますが、ジュノーさんいう人はどういう人ですか」と聞かれました。「ジュノーさん?」と思わず言い返しました。そしてドクタージュノーの説明をしましたら「ジュノーさんがそんなに偉い人とは思いませんでした。威張っとられんですけえのう。宮島じゃあ、子供までジュノーさん、ジュノーさん言うとりますで」。これを聞いた時、マルセル・ジュノーと言われる方を、ジュノーさんとお呼びするのが一番ふさわしいと思いました。
待望の医療品が十五トンも届きました。リストにはペニシリンがありましたが現物はありませんでした。保存する冷蔵庫がなかったためかも分かりません。ガーゼ一枚、包帯一本でも貴重な時代に、日本では見たこともない医療品がありました。その代表はノーマルヒューマンプラスマです。血漿を乾燥し、粉末化したものを蒸留水で溶かして点滴静注するのです。
これは凄かった。嘉屋文子先生も驚いておられましたが、私は十八歳の昏睡状態の消防士に点滴し、点滴が終わったら、ポカッと眼を開いて「先生有り難う」といわれたのは「こりゃどしたん」と思わず声を挙げました。点滴といえば、ぶどう糖加リンゲル液がありましたが、点滴静注という方法は当時日本にはありませんでしたから、日本医学史上、日本で最初に点滴をしたのは広島の医師ということになります。
十五トンの医療品の量は壮大なもので、広島銀行銀山支店の二階と三階のロビーを埋めつくしました。それを各救護所の人が大八車、リヤカーなどで取りに来られ、各救護所は潤い、どれだけの人が助かったのか分りません。しかし、広島県はジュノーさんの救援物資だという説明をしませんでしたから、アメリカの放出物質だと誤解を受けるようになるのです。
五日目、ジュノーさんのお帰りになられる日です。最もひどい救護所として袋町小学校と被爆資料を求めて宇品の暁部隊に行かれるのです。己斐でヒッチハイクしたトラックの上で、天満町で大夕立にあい、びしょぬれのまま市役所でおろされました。歩いて雨もりのする袋町小学校に行きました。或る患者さんの歯肉の血管の拡張を見て、これは警戒すべき兆候であると申されました。三年後、脈管学の泰斗西丸和義教授にこの話をしましたら、「ジュノーさんはただものではないね」と感心されました。
暁部隊でたくさんの写真の中で、これとこれとと二十枚くらいの写真を所望されました。相手していました若い陸軍大尉が「これは軍の機密でして」と断りました。するとジュノーさんはどんと机を叩かれました。びっくりしました。この温和な方がと思いました。ジュノーさんはゆっくりと丁寧に「軍はもう無いではないですか。この貴重な写真はここにおいておくより、私がジュネーブに持って帰って、全世界の人々に原爆の残忍性を訴える資料にした方がいいではないですか」と言われました。「分かりました」と言って大尉は写真をジュノーさんにお渡しました。ジュノーさんの大きな目的は反核兵器にあったのです。これを皆さん忘れてはなりません。ジュノーさんは貴重な本当に貴重な医薬品を持ってきて下さったので、どれだけの人が助かったかわかりませんが、これだけを取り上げてはいけません。数年後ジュノーアピールを出され、又、自伝の単行本に強く反核兵器を訴えておられます。広島県医師会速報に載った「広島の残虐」という手記には「原子爆弾症」という正式病名があるにかかわらず「広島症候群」という病名を作っておられます。ジュノーさんの広島に寄せられる思いの強さが感じられます。又、結語にIPPNW〔核兵器廃絶国際医師会議〕の発想と同じ発想を書いておられます。IPPNWの日本支部長は広島県医師会長であります。
最初の日にジュノーさんは「この原爆のために世界の人々の考え方が必ず変わる。ドクター松永は社会の変化を見るように」とおっしゃいました。二十年経過した昭和四十年、やっと次のような事ではないかと気付いたのです。ジュノーさんが亡くなられた後のことで、もう少し早ければと悔やみました。
「広島に落とされた一発の原子爆弾は、全世界の人々の考え方を全く変えてしまった。それは自分の目的を遂げるためには、どんな手段を取ってもいいのだという考え方を、知らず知らずのうちに、全世界の人々の心の底に染み込ませたことである」ということです。
足手まといになったであろう私を、四日間もお伴させて下さったジュノーさんのことを思うと胸が一杯になります。このジュノーさんを利用して、お金をもうけるというようなことはあってはならぬと考えています。
また広島でのジュノーさんのことが、正しく伝わっていないのは残念でなりません。
出典『広島県医師速報』広島県医師会 平成11年(1999年)7月5日
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