己斐の山の中に三菱重工業は機械を疎開させて、そこで製品を作っていた。
学徒動員(昭和十九年六月から)で出ていた私達も一緒にその作業所に移った。
朝、八時作業開始ということで、皆実町から通う私は家を六時半に出て、電車で己斐駅に到着、そこから三十分余かけて、歩いてその作業所に行っていた。
「学生さん、今日は材料が無いけーの、仕事が出来んけー、遊んどきんさい」という現場の主任からのお話しがあり、友人と二・三人で山の上の方の建物に事務所があったので、そこへ行き、「女学生の友」とか、本が置いてあったので、(誰かが、古い本をもってきていた)それを見ながら、おしゃべりをしていた。
・・・と、その時(八時十五分)マグネシュームを焚いたような青白い光りがパーッと光った。谷をへだてて、小さい農作業小屋があり、その小屋が異様な光りに包まれた。しばらく間を置いて、ドーンという音と共にその事務所はガタガタと揺れて、ガラスも何も、吹っ飛んでいた。友人の一人が「末友さーん。早よう机の下へー」という声に下にしゃがんだが既に眉間にガラスの破片が突きささっていた。小さなものであったから、大した跡も残らなかったが・・・・。
ピカーっと光ってドーンという音がしたという事で、その後、原爆と云わないで、ピカドン、ピカドン、と通常言っていた。
県立第一中学校の二年生の男の子が旋盤の作業中、爆風で機械にたたきつけられ、内臓破裂を起こし、防空壕に横たわっておられたが、その日のうちに亡くなったと聞いた。男子中学生は、十時頃に帰宅してよいとの事で帰っていったが、女学生は十二時頃まで足止めをされ、やっと昼過ぎて帰宅の許可が降りた。
そこで、十人位の集団で山を降りたが、家はペシャンコにつぶれたり、瓦がとんだり――と、まともな家は無かった。行き交う人は両手を前に突き出して、手の先をだらーんと下へ、そしてひどい火傷の顔や、全身の皮膚の火傷、まるでユーレイが歩いているように見えた。
歩き始めて間もなく、友人の一人が、下駄の鼻緒が切れて、やむなく片足は、はだしで歩き始めた。今もって不思議なのは、彼女がはだしで歩いた道は、瓦がとび、ガラスが粉々に砕け散り、板には釘がささったままが落ちていたりしたのに、全くケガをしなかった事である。精神で彼女は歩いたとしか思えないのである。
さて、己斐橋まで辿りついたが、消防団の人が居て「女学生さん、この橋を渡って市内に入っても、火の海じゃけー、危ないけ、入らん方がええでー」との言葉に、山陽本線の汽車の線路沿いの道を横川に向けて歩いた。そして、横川から可部へ向けての道を歩いた。行けども行けども、手を前に垂れたユーレイの様な人ばかり、疎開作業に出ていたのか、女の子も裸同然でパンツのヒモと下が少し布が残っているような子もいた。
古市橋の駅まで着いたが、どこへ行くあてもない。「あ、そうだ。皆実町小学校区域は、一旦何かあった時は、安佐郡山本小学校へ避難するように云われていた・・・」と思い出したので、友人と山本小学校を目指した。古市橋から別れて、可部を目指した友もいた。
引き返して山本小学校に行き、泊めてもらう事にしたら、一階は、教室も廊下も、火傷や傷を負った人で満杯、どうしよう・・・と思っていたら、二階に糧抹支廠(兵隊さんの食料を調達する廠)の女工さん達が居られ「女学生さん、火傷も負傷も無いのなら、私達の処(二階)で寝なさい」と親切に云っていただきそこへ入れてもらった。
市内の中心地に家が有る友は、一晩中窓から離れず、燃えさかる焔が、まっ赤にうつる窓を眺めていた姿を今も忘れる事が出来ない。
夜が明けて、おむすびを一ついただいて、学校を後にした。
午前八時頃、学校の建物から出ようとした時、旧制高等学校二年生の男子学生が母親と共に、私達に尋ねられた。女高師附属の一年生の妹達はどうなっているのでしょうのお尋ねであったが、私達も、下級生の方の情報を全く知らなかったので「よくわかりません」と返事した。お父様が、広島文理大の教授であるという様な事も話しておられたが、その後の様子も何もわからない。
学校を出て祇園町の方で左に折れて牛田町を目指した。太田川の川岸まで出て船に乗った。私達の方に向かってくる船に大火傷をした女の子がいた。真正面から放射線を浴びたらしく、顔は、お仁王様のように真っ赤にふくれ上がり、顔をそむけたくなるような有様であった。何んで、そのようになるのか、全く見当もつかなかった。只、誰ともなく、特殊爆弾だと云われるのみで、はっきりつかめなかった。
牛田町から、すぐそこに電信隊(軍隊)があり、近くの橋の下(太田川)は、兵隊さん達の死体が雑魚を並べた様に死んでおられた。頭は帽子をかぶっていた下から、上半身全部火傷であった。おそらく、朝の体操の時間であったのであろう。五体満足で、歩いている我が身にひきくらべて、何んという事!と歩いていた十人ばかりの私達は、手で顔を掩う事もせず、只、わあわあと泣いて泣いて泣いて歩いた。(恐らく、百人以上の死体であった。)
牛田町から、白島町へ出て、電車通り(旧)をまっすぐ福屋の方へ歩いた。途中、大きな防火水槽があり、(横幅一三〇センチメートル縦幅三〇〇センチメートル位)その水の中に、中学校の男の子や、大人の人や、十人位、頭をつっこんで息絶えておられる姿に、涙を禁じ得なかった。
電車道も、まともに歩けなかった。電信柱は倒れ、電線は、からんだ糸の様に道路をふさぎ、まともに歩けなかった。
福屋の西側を、まっすぐ下って鶴見橋まで行き、そこから比治山下へ。皆実町二丁目の友人と別れて一人になり、自宅へ帰った。誰ーれもいなかった。もう十二時近かった。
屋根も天井も落ちた我が家で待っていたら母が帰ってきた。母は顔に少し、負傷をしただけで無事であった。弟は疎開作業に出ていた。
半身大火傷をして、今、大河(おおこう)町の知人の家を借りて、そこに居るとの事。
その翌日から、母と二人で、弟の介抱に明け暮れた。薬もない。ぬり薬の軟膏もない。只、布団のシーツを裂いて作った包帯を、くる日もくる日も巻いて、膿の着いたのを、洗い替え、洗い替えして介抱した。その包帯洗いが、私の仕事であった。大河町の道路の真ん中に、水道管が破裂して、水が吹き出ている処があり、その水で包帯を洗った。
食べる物も無かった。たまに配給で魚をもらったのを覚えている。今思うと、どうして命をつないだのだろう・・・と不思議で仕方がない。
或る日、ジャガイモの腐った様なものが、一つあった。家の裏の畠のへりで、石を二つ並べて、カマドの様にして、その下で火を焚きジャガイモを焼いた。そして、それを食べた。
八月十五日、母は大河町の賑やかな町の中の或るお店で、ラヂオから流れる天皇さんの終戦を告げられる声を聞いたと云って帰ってきた。それまで、夜は燈火管制で、外に光りが洩れない様に洩れない様にとひたすら、まっ暗な中で過ごした。
一番嬉しかったのは、十五日の夜から、明かるい電燈のもとで、一杯一杯おしゃべりし何んでも出来る事であった。
それと、サイレンの音は、空襲警報の知らせであり、こわいものという観念しか無かったから、十五日以降十二時のサイレンが鳴ると、「あ!又空襲」という恐い思いは、一年位、抜けなかった。
弟は当時、旧制中学一年生であったが、闘病生活一年半後、やっと歩ける様になり、昭和二十三年に、新制中学校に復帰した。
癌闘病 記
その後、私は二回も癌を患った。
最初は昭和四十四年二月、咽喉部に出来た悪性腫瘍である。いつの間にか、親指大のコブが前面に突出してきた。
人が、「あんたは今から男になるんかいのー」と云われる。「え!」というと、「あんたののどにコブがあるがのー」という事、それが腫瘍であった。
二度目は、昭和五十五年三月に、右乳癌を自分で見つけた。「乳癌の見つけ方」をテレビでやっていた。小さな小さなシコリであったがその当時の医者は、インフォームドコンセントなるものは何もしない。ばっさりと全摘手術であった。
私のご先祖様には、癌など患らった人などいない。
多分、原爆のせいだと思う。
八月六日の翌日、まだくすぶり続ける火の中をかいくぐって家に帰った時、多分の放射線を浴び続けたのだろう。
その年の十一月、やっと広島市内から離れて廿日市に移って行った。
附記
「黒い雨」
山を降りる時、八幡(はちまん)川は、真っ黒い、コールタール様(よう)の水が、ごうごうと流れ、それは堤(どて)の上まで溢れていた。その水の中を、じゃぶじゃぶ音をさせながら歩いて己斐の駅(市内電車)へ向かった。
まさに、黒い雨は、私達の頭から、全身に降りそそいだのである。
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