広島市立高等女学校 一年二組 田村久美子 享年十二歳 昭和八年一月十九日生
原爆が投下されて、二十一時間になろうとしていた午前四時半過ぎ、東の空がややうす明るくなった中を、父とあちこちを歩き回った。一睡もしていなかったが全く眠気はなかった。市女一、二生の集合場所と思われた、木挽町辺の焼け跡で、三米×四米の大型防火水槽に出会った。水は一米位に減っていたが中に、十五人、十六人が折り重なっていた。うち一人がどうも息をしているように思えたので、上に引き上げたが間もなく五時前に息絶えた。名札の縫い取りから「川上美都瑠」さんと判った。後に市女二年二組の生徒と判る。
川上さんの下になっていた子をのぞき込み、妹ではないかと一瞬思ったが、父も私も妹とは思えぬ位容貌が変り果てていたので、この場を去った。夜明けと共に深夜には気付かなかった元安川沿いを探して歩く。新橋(木の橋で真中が壊れて渡れなくなっていた)の右岸の下流(現在の市女慰霊碑)にあるガンギをのぞく。幅一間余り、長さ二間余の狭い場所に、殆ど裸体の人が重なって倒れて居り、川に下りるのに難渋した。多くの人の足首にはゲートル、脚胖の切れ端が残っていたのが印象深かった。川は引き汐で、新橋の下の右岸は川幅の三分の二は砂地が出ており、そこは無慮数百の死体で埋められていた。何とも悲惨な光景だったのに、当時は怒り、悲しみを越えた茫然自失の状態だったように思う。
探すのはもう無理と諦めかけたが、もう一度と歩き回るうちに再び川上さんを引き上げた水槽の所に戻っていた。父にも、私にも、判らなかった子供を上に引き上げてみる。モンペのベルトの下に父の書いた、木綿布の右書きの姓名が縫い付けられていた。顔、手足は紫黒色に変り果てた吾が子を抱いて気丈な父が男泣きした。更に妹の下になっていたのは、毎日一緒に行動していた同じ組の「徳田郁子」さんだった。
焼け野が原になった、木挽町、天神町、目印のない所で同じ場所に戻れたのは、親子、兄妹の目に見えない縁に引かれたとしか、言いようがない。
天満宮の外れで放置自転車を拾い、遺体をバスタオルでくるんで我が家に戻ったのは、二十四時間経った八時十五分過ぎだった。
変り果てた妹を囲んで、母、姉、弟、皆、息をのんでみつめるだけだった。
六日朝、警戒警報が解除になると家を飛び出した妹が言い残したのは集合時間に遅れんように行ってきますだった。せめてもの救いは、被災地で、恐らく一番早く遺体を収容できた事と思う。
八時過ぎ、B29特有の爆音を耳にする。物干し場から東の方を見ると、黄金山の遥か上空を西へ進む二機がキラキラ光り乍らはっきり見える。どちらから落とされたか、判然としなかったが、高空で白いパラシュートらしいものが落ちていく。ずっと見守っていると山の陰になった。其の瞬間、物凄い閃光、白、青白丁度紅の七色のような光が半円状に上に昇ると、今度は豪音、爆風で二米位すっ飛ばされる。其の時は噴煙のような黒煙がもくもくと上がっていく。何処に爆弾が落ちたんか、の問いに、多分皆実町のガスタンクに命中したんだろう位の返事をした。
後にピカドンという名が付いたが、これは相当遠くの人が光を感じ暫くおいてドーンと聞こえたので名付けられたのだろう。
私には耳をつんざくようなターンという鋭い高音に聞えた。ドーンというような生易しい音ではなかった。
今になって思えば、B29をみつけ~白いパラシュートを見~爆裂の光は目に焼きついたように記憶~キノコ雲になる前の黒煙を見~父と広島市内を四時過ぎまで妹を探して歩き~夜九時過ぎ電車通り~白神社~大手町通り~万代橋~新橋の西畔で夜明けを待つ。夜半は晴天、放射冷却で焚火で暖をとらないと寒かった。誰も経験しなかった世紀の大事件の貴重な体験は、筆舌に尽くし難い。
断片的に話したり、ごく一部を書いたりしたことはあるが、一部の方の話しは余りに誇張されたり、私の体験とかけ離れていたので、話しをすることは止めました。
九月二十七日
田村 昭二 記
父 田村信一 昭和三十四年四月三十日没 六十七歳
母 田村サワノ 昭和四十九年六月二十六日没 七十六歳
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