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懐古 
三浦 基農(みうら もとのう) 
性別 男性  被爆時年齢 38歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1976年 
被爆場所  
被爆時職業 教師 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

話を広島の原爆の悲惨と驚きに返えそう。

八月六日午前八時十五分は忘れることは出来ない。児童は、朝礼を済ませて、やっと授業にかかった時であった。突然大きな爆音がして校舎をゆるがした。いや、その前に稲妻の様な光が教室の中にいる私の目をかすめた。

何秒かの後、あの豪音、生徒のさわぐのを叱りながらも気になった。二階にいた子供は窓から見ながらさわいでいる。私の組は階下で様子が知れない。あまりさわぐので二階に上ることを許した。私も上った。

何とも形容のつかぬ気味悪い雲、クラゲの形をした雲が晴れた広島の上空に浮いていた。

ガスタンクが爆撃されたと考えようがない。それは窓から見ても、広島中が火焔に包まれていたからである。

午後になって広島から帰って来た人の姿、何と言うみじめな姿であったろう。手の皮がボロを下げたようにたれ、着物は半焼、地獄から抜け出た人としか見えない。

色々と様子を聞いたが、広島は全滅したと言う。二中も全焼して影も形もないとのことである。

気になるのは、浩志の安否である。しかし行こうにも船がない。いらいらしながら七日の日を迎えた。

丁度折よく廿日市へ行く船があると聞いた。

その人達も子供のことが気になるので船を出したのである。私はそれに便をもらって廿日市へ着いた。

広島まで行くのに電車は不通である。仕方がないので、廿日市在任時代隣にいた知人に訳を言って自転車を貸してもらって急いだ。

己斐まで来た時、空襲警報のサイレンが鳴りひびいた。私はそこにあった貨物自動車の下にもぐり込んだ。

敵機B29が上空を、それも極く低空を我物顔に飛んでいた。何の目的で再度やって来たのか。原爆の威力を写真に撮りに来たのであろう。

警報解除になって、浩志の学校二中に行った。校舎は影も姿もない。ただ瓦がせんべいを並べた様に落ちている。敷石は砂のようになっていた。

あちらこちらに救護所があって、焼けただれた体が列をつくって、白い薬を塗ってもらっている。そこへ行っては、浩志をさがすのであるが、どこにも見当らない。

途中、平良の枝松夫婦に出会った。吉本先生と一緒である。車に子供の死骸を載せて、涙ながらに帰って行かれた。私は何とも言葉が出ない。只合掌して見送った。

私は懸命に我が子をさがした。救護所のある所は、ほとんど行って見たが何処にもいない。焼けただれた、半腐の死体が道の両側にころんでいる。それを、これでもない、あれでもないと、あきらめられぬ気で、自転車をついてさがし歩いた。

遂に夕暮近くになったので、引き返したのであるが自転車は重かった。

運よく浜井さんの舟に便をもらって帰ったのであるが、同級生のやはり二中に入った一人息子をさがしに奥さんと二人で行ったのであるが、見つからないと言うことであった。

途中似の島の救護所に立ちより、さがしたがわからなかった。

お互に力なく帰るのであるが、唯黙々と言葉もない。

舟は高祖の沖に着いた。明日も亦さがしに行くから一緒に行こうと親切に言って下さった。

私は、波止場でしばらく立ちすくんだ。家に帰って報告するのがたまらないからである。
家の者は夕食もせずに私の帰りを待っていた。
「どうでした。」妻の問に対して、だまって首を振った。家中、しんとして言葉もない。
「明日もう一度さがしに行くことにする。浜井さんが便をやるといってくれた。」ただそれだけ言って、その晩は通夜のように、一晩中眠られなかった。

翌朝私は妻をさそった。
「わしだけでは気が済むまいから、お前も一緒にさがしに行かんか。」
妻も同意して、三男敬司(当時一才)を背負うて行くことになった。
美能から浜井さんの舟が来たので、それに便をもらい本川に入った。

川を上って行く途中、江波あたりで死んだ馬が流れて行く。舟にこつんとあたるものが人の死骸である。あちらにも、ここにも、頭が出たり沈んだり、皆被爆した人の姿である。

でも、子供をさがしに行く張切った私達には、あまり気味悪く感じなかった。

舟を住吉橋の西側に着けて上り、私達は舟入町から観音町まで隈なく救護所を訪ねた。どこにも見当らない。体も心も疲れ果て、遂に己斐の西岡さんの家で休ませてもらうことにして訪れた。西岡さんは、妻の妹の嫁ぎ先である。色々と当時の様子を聞いて、実相がどんなものであったかが解った。

それから、さがすことをあきらめ二中の焼跡へ行った。前にも言ったように校舎は全部焼けて跡かたもない。ただ礎石が残っているだけ、それも足で踏めば、ばらばら砂になる。

あの石まで爆死したのである。

浩志は病後なので学校で勉強していたので、丁度教室に入った時刻であり、一度父兄会の時彼の机に座っていたので大体位置が見当がついたので、恐る恐るそこへ行って見た。

白骨が見付かった。確かに浩志の骨である。

学校の南に二中の寄宿舎があり、そこに校長が生存しておられたので事情を話し確認してもらって、覚悟して持って来た骨箱に一つ残さず入れた。

浜井さん夫婦もぐったりして、
「大抵さがしたが何処にも居らん。さがす所はもうない、あきらめました。帰りましょう。あなたのは骨だけでも解ってよかったですの。」と残念そうに言われた。

帰宅したのが夕方、食事頃であった。

家中のものが骨箱を仏前に置いて泣いた。正信偈を誦み、灯明、線香を炊いて通夜をした。

長男を失った私の心境に大きな変化が起ったことは言うまでもない。今迄割合に朗らかであった日々が、暗い沈んだ自分に変ったような気がする。それは家中が暗くなった為でもあろうけれども。

昭和二十年は悲しみの中に暮れた。

元旦の日の出も何となく光が鈍い。目出度い正月も、何となく沈んだ気分で過した。

被爆した我が子の遺骨を抱き帰える

病後で学校に残り勉強していた浩志は白骨となって見つかった。用意して持って行った骨箱に一片残さずひろい持ち帰える。何とも言えぬ気持である。

 

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