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原爆医療に貢献した父のケロイド 
森 佳代子(もり かよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 3歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所 広島市草津浜町[現:広島市西区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時、私は三歳で、父・増村明一と母・米子、父方の祖母・ナイ、兄・明徳(五歳)の五人家族で草津浜町に住んでいました。

父は、日中戦争で右足の大腿部を負傷して戦傷病者となり帰国しました。次第に戦争が激しくなったため、草津国民学校で教練の教官を勤めていました。

●被爆の瞬間
父以外の四人は自宅におり、私は玄関先で遊んでいました。被爆の瞬間、私は倒れた戸の下敷きになり、腰を強打しました。けがは打撲程度でしたが、それが後に健康に大きく影響するとは、誰も想像できませんでした。私以外の三人は幸いけがをしませんでした。草津浜町の自宅は、爆心地から四・一キロメートル離れていたので、玄関の戸が倒れ、壁が少し崩れたくらいで、大きな被害はありませんでした。

父については、父が引率した当時草津国民学校高等科一年生だった木村秀男さんが詳しく記憶されています。木村さんによると次のとおりの状況だったそうです。

八月六日、父は、草津国民学校で朝礼後、高等科の男子生徒を引率して、建物疎開作業現場である小網町へ歩いて行く予定でした。しかし、その日に限って父が集合時間に遅れたのだそうです。女子生徒はすでに出発していました。そのため、父と男子生徒は己斐までは電車に乗り、そこから歩いて小網町へ向かっている途中、観音町で被爆しました。先頭にいた父は「伏せ―」と言って両手を広げました。生徒たちは土手から草むらにみんな転げ落ちました。その後、木村さんたちは天満橋辺りから来た大人の人から「あんたら何しよるん。もうここから先は行かれんからとにかく帰りんさい」と言われたので、みんなで歩いて学校に帰ったのだそうです。そのときには、父の姿は無く、どこかではぐれてしまいました。

母の話によると、父はやけどを負いながらも学校に戻り、生徒たちが無事なのを確認して、自宅に歩いて帰ったとのことでした。

●父の看病
父は、顔、首、両手をやけどしていました。草津国民学校が救護所になっており、父の治療をするために、母と兄が父を支えながら草津国民学校に連れていきました。私はたいしたけがではなかったので、自宅に祖母と一緒にいました。私は幼かったので覚えていないのですが、兄は父の傷にウジが湧いているのを目の当たりにしました。兄によると、やけどの傷がトマトを輪切りにしたときに種が見える切り口に似ていたのだそうです。このため、それ以後兄は絶対にトマトを食べないと言い、当時のことを語りません。母は泊まり込みで、父の看病をしました。父の看病で手がいっぱいで、兄はまだ小さかったので、草津南に住んでいた母方の祖母に預けられました。父は、奇跡的に一命を取り留めましたが、顔、首、胸元、両手に大きなケロイドが残りました。そのため、それ以降に父が半袖を着ているのを、私は見たことがありませんでした。

●被爆後の暮らし
被爆後、配給が止まり食べ物がだんだん無くなってきました。そのため、空き地に、小麦、サツマイモ、カボチャなどを作りました。そこは現在、庚午中学校が建っている場所で、種を植えて、野菜なども育てました。戦後少し落ち着いた頃には、母がパンや蒸しパンを、祖母がかしわ餅を作ってくれました。広島ではカシワの葉の代わりに山帰来(サルトリイバラの別名)という丸みのある葉を使います。山帰来は山にいくらでもあったので、採りに行きました。ちまきも笹の葉ではなくヨシの葉を使って巻くのですが、ヨシの葉も採れたので、私もちまきを作るのを手伝ったことを覚えています。また、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、フスマ(麦の糠)などの配給があり、フスマで団子を作りました。

終戦後、家では食べていくための商売は何が一番手っ取り早いかと相談し、身内で製麺業を始めました。会社名を増村生産として、小麦を製粉して、うどんを作りました。社長は一応父でしたが、実際には母と母の弟・妹が手伝って働いていました。

●原爆医療法の改正
父・増村明一は地域や町内会のために活動していました。昭和二十二年八月、草津壮年連盟が組織され、父は主に渉外部を担当し、混乱した戦後の再建のために活躍しました。周りの人に推薦され、市議会議員に立候補し、昭和二十六年、初当選を果たしました。以来、連続五期、十六年余り、市政発展のために力を注ぎました。市議会においては、副議長をはじめ各常任委員長や特別委員長など多くの要職を拝命しました。その間、地元に対しても、草津漁港の整備をはじめ地域の発展に尽力し、住民から深く支持を得ていました。

他方、被爆者援護のために寝食を忘れて活動しました。原爆医療法(原子爆弾被爆者の医療に関する法律)は昭和三十二年四月に施行され、被爆者健康手帳の交付もされました。しかし、医療の給付を受けるには、その医療が原子爆弾の障害作用の起因した疾病であるかあらかじめ厚生大臣の認定を受けなければならないとされており、被爆者にとって大変な手続きが必要でした。当時副議長だった父は、議長及び議会主要メンバーと共に繰り返し上京し、広島市及び長崎市の関係者とともに陳情活動を行いました。この活動は治療の枠を拡大し、早期発見、早期治療を求めるもので、昭和三十四年十二月には、厚生省で原爆の悲惨さを伝えるために、自身のケロイドを実際に見せながら訴えることもしたそうです。この努力が実って、昭和三十五年一月、三十五年度政府予算大蔵省原案で原爆医療法改正を前提とした厚生省の予算要求が認められ、政府として同法を改正することが確定し、現在のような一般疾病に給付される第一歩となりました。同法の施行は同年八月一日でした。私は、父が体を張って予算を取ったことを非常に誇らしく思っています。

昭和四十二年に父は五期目の市議会議員に当選し、西部開発事業促進連絡協議会の会長に就任しました。西部開発事業とは、現在の商工センター一帯を鈴が峯の山を削って埋め立てをするという壮大な事業で、昭和四十一年に事業着手され、昭和五十七年に完成されたものです。父は会長に就任しこれからという矢先、十一月二十三日に発病し検査入院しました。結果は胆管癌であり、一度開腹手術をしましたが、手の施しようがありませんでした。父の入院中、西部開発事業の件での交渉について、鈴が峯の地主など、様々な方々が病室を訪れました。また、市議会に出掛けることもあり、父は入院中も仕事のことで頭がいっぱいでした。昭和四十三年一月三日から、父は吐血、下血し始め、同月十日、亡くなりました。私は父の死を受け入れることができず、父の後追いをしようとまで思いました。父は私にとってとても大事な人だったからです。

●母の支え
母は非常に頑張り屋さんで、自分さえ我慢すればという人生を八十三年生きました。議員の妻は非常に大変であり、父が活動できたのは、母の支えがあったからです。父が亡くなる前日に、父は母に、「おまえに世話掛けたのう」と言いました。後に、母はそれを聞いてすべてが洗い流されたと言っていました。母の苦労に比べれば自分らの苦労なんてたいしたことないと、私は妹とよく話をします。

●被爆による影響と差別
私が三十五歳のとき、肺炎により入院し、レントゲンを撮りました。そのときに腰が曲がっていることが分かりました。交通事故に遭ったり、高い所から落ちたりした経験がなかったため、被爆時に腰を打ったことが原因ではないかと医師に言われました。年を重ねるごとに腰痛がひどくなり、椎間板ヘルニア、脊柱管狭窄症と診断され、平成二十二年以降に腰の手術を二回行いました。

夫の転勤で大阪に住んでいる頃、大阪の病院での検診で、私が被爆者であることが周りに知られると異様な空気になり、とても不快な思いをしました。広島で生活するのには特に意識したことはありません。大阪でたまたま広島の学生時代の先輩に出会いました。その人によると、大阪では、親が被爆者であることが結婚に影響するという考えを持っている人がいるとのことでした。

私は約九年前から、甲状腺の機能低下症を患っています。医師によると、被爆の影響によるものであることを否定はできないとのことでした。また、子どもが五体満足で産まれるか心配でした。被爆二世、三世が被爆の影響によるなんらかの病気を患わないかが心配です。これは、今後ずっと続いていく問題です。

叔母(母の妹)は、古田国民学校(現在の古田小学校)の教師で、原爆により同僚を亡くしており、それを目の当たりにしています。自分だけが生き残った負い目を感じ、申し訳ないという思いから、被爆者健康手帳を取得していません。私は役所に行き、手帳を取得するための書類を一式そろえて、叔母に渡しました。しかし、叔母の意志は固く、拒否されました。被爆七十周年にあたる平成二十七年に、私はNHKラジオで被爆証言する機会が与えられました。「大きな役割を果たした父のケロイド」の放送を聞いた叔母は、被爆者健康手帳の申請を申し出ました。

●伝えたいこと
一番伝えたいことは、父が市議会議員として、自身の被爆状況や痕跡を、体を張って証言し、国による被爆者援護の充実に貢献したことです。そんな父に対して、後悔していることがあります。私が小学生の頃、父はケロイド姿のままで、私を抱っこしようとしました。しかし、当時の私は父のケロイドが気持ち悪く拒んでしまったのです。私にも子どもができ、親になってみると、そのことを思い出すと父に非常に悪いことをしてしまったと後悔でいっぱいです。

戦争はどのような状況であっても絶対にしてはいけません。ましてや、核兵器の使用は決してあってはならないことです。正義のための戦争なんてありません。体験しないと分かりませんが、経験をするのは広島、長崎だけで十分です。証言者は少なくなっており、伝えていく大切さを感じます。被爆者が平和のために活動することは、勇気がいるし、大変なことだと思います。広島に来て講話を聴くなど、次世代を担う人々に行動してもらうために、私たちが行動しなければなりません。

 

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