昭和二〇年四月、新入生を迎えた学園では職員四〇名を二班に分け、私たちB班が新入生の授業をしていた。新米の教師としては戦時下の大切な日々を生徒と楽しく過ごせたのは若さのゆえだと思っている。
B班は四、五、六月と学校での勤務を終えると上級生の動員されている工場勤務となった。このことはあとで思えば職員の運命を大きく分けたことになる。
八月六日、学校で勤務の先生方は一、二年生を引率して疎開の建物の片附作業に当っていた。あの日、市内の各中学校、女学校の一、二年生は県庁の近くの作業場で全滅した。安田学園の女子職員の消息が工場の工員に助けを求めたことで、六日の夕方亡くなったことがあとで判明した。ただ一人の消息のわかった事実であった。工場に動員の職員生徒はそれぞれ倒壊した建物の下敷きになったけれど、とにかく這い出してけがはしたもののほとんどが助かっている。ただ、遅刻して出勤途中の生徒が亡くなった。
倒壊してさほど時間が経たないうちに火の手が上って、倒壊物の上をやっと踏みこたえて逃げている私たちを音立てて追ってきた。やっと太田川べりの公園まで逃げて市内をふり返ってみると火の海で太陽の光を包む猛煙が上っていた。祇園という町まで避難するようとのことで大けがの人、息の絶えた人を目をつぶって見捨て、しだいに大群衆となる道を北へ北へと逃げた。
途中、「黒い雨」が大粒のまま降ってきたのを籔の中に避けたりしたけれど、その時はそれが恐ろしい雨とも知らずけがをした生徒を軽傷の五,六人の生徒が力を貸し歩きに歩いた。少しでも立止るとわあっと人々が寄ってきて「助けて」「薬ください」と囲まれてしまう。まるで足蹴にするように逃げるように急いだ。その夜の野宿の様はとてもこの世のものとは思えない悲惨な生と死の境目をさまよった。
|