被爆者、、、、、竹野内政男(たけのうちまさお)
明治四十三年五月十九日生
昭和二十年八月七日亡 享年三十五歳
広島赤十字病院外科副部長医学博士
執筆者、、、、、竹野内千鶴子(たけのうちちづこ)
広島市中区在住
大正五年十二月九日生 満八十五歳
被爆者の義妹(弟の嫁)
被爆場所、、、、市内電車(宇品行)の中
紙屋町、芸備銀行前(現広島銀行本店)
私の夫・正三(せいそう)(平成八年亡)の兄・竹野内政男は被爆時、満三十五歳でした。千田町の広島日本赤十字病院の外科副部長の職にありました。義兄は八月六日の原爆投下時、その日に限って看護婦の研修会の指導のため、いつもより早く西白島の自宅を出てしまいました。
通勤途中、八時十五分、紙屋町の芸備銀行(現:広島銀行本店)前、宇品行の市内電車の中で義兄は被爆いたしました。自力で電車を脱出し、相生橋の日本赤十字社広島支部に行くが、焼失しており介護は受けられず、次に千田町に向かいました。長時間をかけ、徒歩で日赤病院にたどりつきました。
当時、日赤病院の院長先生は竹内先生と云われる方でした。竹内先生から義兄について詳しく聞くことが出来ました。義兄は、竹内院長に「君は誰か?」と聴かれる程顔の皮膚は全てむけ、黒褐色で人相の判別不可能、全身火傷でただれていました。介護の甲斐なく翌朝の八月七日、義兄は医者らしく自分の症状を冷静に診断し、竹内院長に「吐く息はできますが、吸う息はもう出来なくなりましたので、お別れです。今までありがとうございました。家族の消息は分かりませんでしょうか?」と最後の言葉を残し息をひきとりました。
義兄・政男の妻・淑子(よしこ)(当時、二十七歳)と長男・正宏(まさひろ)(当時五歳)は西白島の自宅にいて助かりました。
長女・敏子は淑子のお腹の中にいました。淑子は夫亡き後、苦労に苦労を重ね、二人の子供を育てましたが、昭和二十七年十月二十四日、胃潰瘍を患い病没いたしました。
残された正宏・敏子は孤児となりましたが、親戚(父方・母方の兄弟等)の援助のもと、立派に大人に成長いたしました。残念なことに敏子は今年、胃癌で五十七歳の若さで亡くなりました。
妻子を残し、残酷にも被爆死せねばならなかった義兄の無念さは推し量るとも量りがたきものがあります。
原爆という惨劇さえなければ義兄の家族は末永く、家族仲良く暮らすことができたでありましょう。義兄の冥福を心から祈るとともに、核兵器が廃絶された恒久平和の世界の実現のため、この手記が子孫に託す記録となり、少しでもお役に立てばと思いペンをとりました。
義兄(おにい)さん、どうか安らかにお眠り下さい。合掌
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