御幸橋から船に乗って、元安川に架かる南大橋の下をくぐって進み、現在の元安川に架かる万代橋(よろずよはし)をすぎ、新橋(現在の平和大橋)の手前に船を着け、川土手に上がったのは午前十一時頃であった。
ここにいる被爆者達は、原爆の熱線で衣類は全部焼け、生まれたときのような、丸裸になっている。そのうえ、全身は熱線で、皮膚は真っ赤に焼け、野菜の(ニンジン)の色を濃くしたようになっておる。この被爆者達は、座っている人もいるし、伏せっている人もいる。この人達は、真夏の太陽の照りつけるなかを、ジリジリと、皮膚を焼くようなもの、そのうえ地面も熱いので、さぞや熱いだろう、痛かろう。この被爆者達のなかには、顔の相が変わっている人もいて、見分けがつかない人もいる。あまりにも悲惨なできごとなので、一瞬立ち止まっていたが、目を覆いたくなる。
私は「宇品造船の人はどこにいるか、返事ができればよいが」と叫ぶと、少し離れたところから、小さな声で「ここにいる」と言うので、声がする方に近寄り「誰か」と言うと「土井」と言ったのですぐに土井君とわかった。
土井君は私の一年後輩で、職場は製缶工場であった。私と同じ寮にいる土井君でも、最初に見たときはわからなかった。土井君は裸で座っているが、爆風で両目の、上下のまぶたが裏返しになっている。しかも裏返しになった赤いまぶたに、全身は熱線で焼けて赤くなっているので、なおさら見分けはつかない。
長本君のお父さんは、熱線をうけたときの角度によるものか、建物のそばにいたものかわからないが、丸裸になっているのに、顔の相が変わっていないし、裸の色も少し赤くなっているくらいなので、長本君のお父さんだとわかった。長本君のお父さんを担架に乗せて船まで行き、寝かせてから「苦しいですか」と言ったが返事はない。声を出す気力はなかったのであろう。同じように、爆風や熱線をうけた人のうちでも、長本君のお父さんのようにあまり顔の相が変わっていない人もいた。後から思うのに、建物の陰にいた人は、建物が爆風や熱線を遮っていたので、土井君より多少被害が少なかったのであろうとおもえる。
長本君の弟も、お父さんと同じ第二鉄工所だったので、お父さんと一緒にいただろうとおもい、その辺りを探したがわからなかった。
私が「宇品造船の人はいないか」と呼ぶのだか、だれも声が出ないのか、みんな返事がない。顔だけ見たのではわからない人もいるので、一緒に救護に来ている人と、顔や、体つきなどを見ながら話し合って、見分けのつく人から担架に乗せていく。
担架に乗せるのに、一人が頭のほうを、もう一人は足のほうとで、一緒に二人で持つのだが、人によっては、持ち上げようとすると、皮膚がズルリとはがれる人もいた。これでは、皮膚がはがれ、手も滑るので、痛いだろうから、持ち上げられないので、担架に乗せるのが難しい。痛いだろう、かわいそうと思いながらも、担架に乗せねばならない。しかたがないので、担架をその人の体に沿って横に置き、裸の体に手をそえながら、体を横に回して担架に乗せて行き、船に寝かせたが、痛かったであろうと思う。
私と一年後輩の、佐伯勲君の職場は製缶工場だったので、この日は天神町に来ていた。佐伯君は私と同じ寮で、部屋も同じだったので、すぐわかると思いながら探したが、いくら探してもわからない。だが佐伯君と、土井君とは、職場が同じなので、土井君と一カ所にいたのだろうか、それとも土井君のように、顔の相が変わっているので、見分けがつかないのかもしれないので、顔の相が変わっていて、よくわからない人も、気を付けて探したが佐伯君は見つからなかった。土井君のように、名前を言ってくれたらすぐわかったのにと思う。一緒に来ている救護班のうち、他の人が佐伯君を船に乗せていればよいのだがと思いながら、会社の人とわかったなら、担架に乗せて運び、ゴザを敷いてある船に寝かせる。
船にはテントの屋根があるのでいくらか涼しいのだが、早く会社に連れて帰り、やけどの手当てをしてやればよいがと思うばかり。
午後から会社の人達が船に乗って救援に来た。その人達のうちから、土井君らの乗っている船に乗り換えて、会社に連れて帰ったので私は安堵した。
夕方になったので、会社に帰るようにと合図がある。私が乗っている船には、救助した被爆者は三十五人ぐらいであった。
そのうち船の中で、次々と亡くなっていく。会社に帰ったころには、息のある人は数人ぐらいであった。
私達が天神町方面に捜索に出ていたとき、その家族の人達は毎日、私達が帰る船に、自分の身内がいるだろうかと、船を待っておられた。
だが、私達がいくら探してもわからなかった家族の方には、船から降りるとき、わからなかったと部長は言わねばならない。
六日から十一日までの間は毎日、船から降りるとき、ただうつむいているよりしょうがなかった。そのようなわけで、早朝船で出るときはよいが、会社に帰ったとき、家族の人が私達が帰る船を待っておられる。それを思うと、会社に帰るのがとても辛かった。部長は家族の方にわかりませんでしたと言わねばならない、これも役目とはいえ、辛かったであろう。
(この被爆体験記は、一部を抜粋しています。)
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