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私の八月六日 
森 斌(もり さかり) 
性別 男性  被爆時年齢 32歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1971年 
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 中国配電㈱ 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二十年八月六日の原爆投下の当時、私は中国電力(株)の職員で部下三名と共に佐伯郡五日市町の現在の造幣局(当時は呉海軍疎開工場)の変電所建設工事に泊り込みで従事しておりました。

原爆投下と共に広島方面に大きな火の手が上り、数分して爆風が襲来して来ました。広島市内からの者が三名も居るので心配だったのですがガスタンクの爆発ではないかと話し合いました。

九時過ぎに広島に行っていた外部の人から広島は全市大火事でとても入れないとの事で夫々家族の者の心配をして昼食をすませたら帰る事に決めました。昼食後、宮島線の電車に乗る為に国道二号線に出て見ると、トラックに被爆者が乗せられて、大竹方面に走っていくのを見て、ひどい災害を受けたものだと直感しました。

電車は草津までなので草津―西広島(当時は己斐)まで二号線己斐―電車道と未だ燃えている所もあるので広ーい道を歩きました。

電車の鉄橋の枕木がくすぶっているのもありましたが注意して渡りました。

福島町付近で死者をぼつぼつ見るようになりました。

私は土橋付近で百米道路に出ました。未だ橋はありませんでしたが兵隊さんが渡し舟を出して呉れていました。四十才位の男の人と中学生の男子三人で大手町側に渡して貰いました。

中学生は被爆して居たので河原から土手に上る道が瓦礫でふさがれていたので二回も転んで土手に上る事も出来ないので男の人と二人で土手に上げてやり、何処に帰るのかと問うと牛田に帰るのだとの事で用心して帰るように云って、私は小町の中国電力(株)の様子を見によりました。会社内は一階から五階までキレイに灰になっていました。

小町―御幸橋―広陵前と電車道を通って桜土手(現在の県病院前)丹那橋―家に帰りました。

家はかなり傷んでいましたが家族は無事でした。

夕食を早目にすませ帰途に出合った会社の者二名の安否を気付かって、段原大畑町の親類の家を見に行った後に鶴見橋―白神社―鷹野橋―御幸橋と廻りましたが会社の者は二人共軍隊活動によって収容されていました。

大分後になって聞いた話ですが二人共助からなかったとの事でした。

八月六日の夜父が帰宅していないとの事で七日から九日まで鶴見橋―現在のユニードの裏(当時海軍監督官詰所に父は鉄道を停年後守衛として勤務)―御幸橋の間を自転車で色々とコースを替えて探しましたが見当たりませんでした。

八月十日から十五日迄五日市の工事現場に責任上、又泊り込みで作業を続け工事を完了させました。

十五日の午前中に検査も終了しほっとしていた所、昼食時にラジオを聞いた者から日本は戦争に負けたんだと聞かされ信じられない気持ちでした。

その後暫くの間は敗戦ショックの茫然自失と云うのか記憶がはっきりしないのですが八月十六日には広島に帰り父が似島に収容されているとの連絡がありましたので大八車を準備して二十日前に似島に父を引取りに行きましたが、その父も八月二十九日になくなりました。

 

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