●被爆前の生活
昭和二十年当時、私は母・ヒサヨと二人の姉と一緒に楠木町一丁目に住んでいました。私は三篠国民学校高等科一年生でしたが、当時は学生といっても工場などに動員されて作業に従事する毎日で、学校での授業はありませんでした。私は級友四十名と共に、三篠本町三丁目にあった日産自動車に動員されていました。二人の姉もそれぞれ、一枝は貯金支局、鶴江は被服支廠に勤めていました。
●八月六日
その日の朝も私は動員先である日産自動車にいました。一緒に動員された級友たちは、それぞれ分散して工場で作業をし、私は事務室で工場から注文があれば部品を運ぶなどの雑用をしていました。そのときも、工場から部品のビスを持ってくるように連絡があったため、二箱手に持ち事務室を出て、建物の奥にあった工場へ向かって歩き始めました。突然ぶわっとガスバーナーの炎のような青白い光に包まれると同時に視界が閉ざされ、体が空中に浮くのを感じました。警戒警報は解除中で、完全に無防備な状態でしたが、瞬間的に爆撃を受けたと思いました。私はとっさに「ああ、これで死ぬんだな」と思いました。
何分ぐらい過ぎたのか定かではありませんが、意識が戻り地面に横たわっていることに気づきました。しばらくすると、段々と霧が晴れるように視界が開けてきましたので、「生きている」とそのときに思いました。
私は、近くにあったガスボンベの上に落ちたらしく、手を擦りむいてけがをしていました。後から思えば、被爆時の私の姿は、坊主頭で丸首の半袖シャツに半ズボンを着用しているだけだったので、露出部分はすべてひどいやけどを負っていたはずなのですが、そのときすぐには自分の状況を把握できず、痛みさえ感じませんでした。一緒に動員されていた級友たちの姿も見えず、家族のことが心配になり帰宅することにしました。歩き始めると工場の大きな門が倒れて、三人くらいが下敷きになっているところに出くわしました。周囲にいた人と協力して引っぱり出すことができ、その後皆「逃げよう、逃げよう」と言って工場から外へ出ました。
●被爆後の様子
町は全て倒壊した建物や塀で覆われ、道も見えない状況でした。あちこちでボヤのような煙がくすぶり、道行く人は皆やけどを負い、子どもを抱えて逃げる人もいました。瓦礫や倒れて重なった木材の上を歩くと、飛び出たクギが靴底を貫いてぶつっと足に刺さりましたが、そのときは必死で痛いとも何とも感じません。足元のがれきの下からは、「助けてくれ」とうめき声がかすかに聞こえてきましたが、地獄絵図のような状況の下で、私自身が半狂乱になっており、助けを求める声に何もできずとにかく自宅へと向かいました。
自宅へたどり着くと、家は完全に倒壊していました。母と姉がいるはずでしたが姿が見えません。まだ十二歳だった私は「僕はもうこれで一人ぼっちになった」と急に不安感に覆われ、「もうだめだ」と呆然と立ち尽くしてしばらく崩れ落ちた自宅を眺めていました。すると周囲から「火が回るから逃げろ」と声を掛けられ、ようやく逃げる決心がつきました。あらかじめ家族で決めていた郊外の避難場所に向かって歩いていると、同じ工場に動員されていた級友の中村君と偶然出会いました。彼は三滝町にある親戚宅へ避難する途中で「一緒に行こう」と私を誘ってくれました。
三滝町は、山手にあり被害が少なかったようで、家の窓ガラスが割れている程度でした。親戚のおばさんが、「助かってよかった、よかった」と言って、おむすびを出してくれましたが、食欲が無く食べられませんでした。その頃から一息ついたせいか、体に痛みを感じるようになり、自分の異変に気づきました。衣服で覆われていない部分はすべてやけどをして、体のあちこちに大きな水膨れができて「ぽやん、ぽやん」と波打つほど大きくなっていました。帽子もかぶっていませんでしたので頭もやけどでズクズクと痛みました。体の三分の一のやけどを負うと命を落とすと言いますが、それ以上だったと思います。
昼前頃だったと思いますが、雨が降り始めました。火照った体に気持ちよく、しばらく雨に打たれていました。流れる雨水をよく見ると油のようにギラギラと輝いています。そのときは全く分かりませんでしたが、今思えばあれが放射能を含んだ「黒い雨」だったのです。
その後、避難場所である安佐郡安村(現在の広島市安佐南区)の学校へ向かうため、中村君に別れを告げ再び歩き始めました。体が熱くてたまらず、道中近くの畑になっているキュウリを絞り、汁をやけどに塗りながら歩き続けました。
ようやく学校へ着くと救護所が開設されており、けが人がずらりと地面にマグロを並べたように横たわっていました。そこで初めて診察してもらいましたが、食用油を患部に塗る程度の治療でした。あふれるほど多数の被災者が学校にいたので、また新たに別の避難場所が割り当てられました。移動していると奇遇にも姉の鶴江と出会うことができました。自宅で被爆した姉は頭部にけがをしたらしく包帯を巻いていました。ようやく家族に会うことができたので私は「ああ、一人じゃなかったんだなあ」と安心しました。姉から母も無事と聞き、母の元へ向かいました。自宅縁側で被爆した母は、足にえぐられたような傷と顔面にやけどを負っていました。その後、貯金支局で勤務中に被爆した姉の一枝ともそこで合流することができました。
そのまま私たちは安村で終戦を迎えました。「もう戦争に行かなくていいんだ」という安堵感に包まれたことを覚えています。安村には二週間ほど滞在して、その後、父の故郷である高田郡郷野村(現在の安芸高田市)の親戚宅に転居することになりました。
私の体調は悪化の一途で、周囲では「もう長くはない」という話が出ていたようです。郷野村には医者が出張のような形で来ていたので、大八車で運ばれ治療を受けに行きました。そこで初めてやけど用の白い薬を付けてもらい、ようやく治療らしい治療を受けることができました。治療を受けるにも、やけどがひどいので衣服を脱ぐことができず、はさみで切るしかありませんでした。高熱にうなされ、トイレにも行けず人に抱えてもらい用を足していました。母は、自分のけがをおして、末っ子で唯一の息子だった私の看病をしてくれました。「暑いだろう、暑いだろう」と言って夜も寝ずにずっとうちわで、あおいでくれたのを覚えています。やけどが治りかけたころ、鼻血が頻繁に出ました。出血が治まらず医師に注射で止血してもらうこともありました。
私は徐々に回復し、地元の学校に通い始めました。その学校には同じように被爆後、広島市内の学校から転校してきた生徒が三人くらいいました。
九月頃、私はどうしても広島の様子が気になり一人でバスに乗って広島市内へと向かいました。自宅跡近くでは、近所の方がバラック小屋を建てて生活しており、話をすることもできました。ほかにも雨露をしのぐ程度の小屋があちこちに建っていました。私が被爆した日産自動車へ行くと、偶然工場長に出会い「元気だったか」と声を掛けられ、被爆時の話を聞くことができました。事務室で被爆したある女子事務員は目が飛び出ていたと聞き、被爆直前まで同じ事務所にいた私は改めて恐ろしく感じました。同じ工場に動員されていた四十名の級友とはその後会う機会もなく、今も消息を把握することができません。
●生活再建
二、三年後、地元では就職口が無いので広島市内へ再び生活の拠点を移しました。学歴が無いために、就職するまで本当に苦労しました。しかし食べていくために、新聞配達をしたり建築現場で働いたり、とにかく何でもやりました。
二十三歳のときに結婚することになり、妻には全部知っておいてほしいという気持ちで、被爆していることを打ち明けました。妻は承知の上で結婚を承諾してくれました。当時は、新聞などで被爆者の後遺症について盛んに報道されていましたが、一切気にしないように努めていました。二十七歳のときに長男が生まれ、同じ年、義兄の紹介で東洋工業(現在のマツダ)に就職しました。それまでは転職を繰り返していましたが、義兄からは辛抱してがんばるようにと励まされ、私も子どものためにがんばろうと決意を新たにして勤め始めました。
●健康面への不安
一緒に夜勤をする同僚と話していると、相生橋で被爆したという人がいました。ほぼ爆心直下ですし、話を聞いて驚きました。彼の所にはABCC(原爆傷害調査委員会)から身体調査を目的とした依頼が来ていました。彼とは同じ被爆者として、お互い気になることなどを話していました。しかし彼は体調を崩して入院し、一度職場に復帰しましたが五十歳で亡くなりました。私も、常に健康への不安を抱えていますので、今まで生きてこられたのが不思議なくらいに思います。私はその後、五十五歳まで勤め退職しました。
●平和への思い
私が今回被爆体験を語ろうと決意した理由は、年齢を重ねるにつれて、体力の衰えを感じ、今の間に私の体験を若い世代に伝えておきたいという気持ちが強くなってきたからです。今の若い人は、昔のように強制的に戦場に送られることもなく、自由奔放に好きなことができますが、今では考えられないことが六十四年前に現実に起きていたこと、若くして命を失った人たちの思いや、一世代前の苦労を少しでも理解してもらえればと思います。
そして、もう二度と私が体験したようなことが起きないように、核廃絶に向けて若い世代に平和運動を推し進めてほしいと思います。誰が同じような目に遭っても楽しいことなんてありません。私が生きている間にぜひ核廃絶の世界が訪れてほしいと思います。 |