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悲しい体験 
村輿 文子(むらこし ふみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所 広島市鶴見町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子商業学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時、私は十二歳、広島女子商業学校の一年生で、父・重之助(五十六歳)、母・トミ(四十九歳)、姉・房子(二十三歳)、弟・勝義(国民学校一年生)、光憲(四歳)の六人で平塚町に住んでいました。

その他に兄・重富(二十歳)、妹・清子(国民学校四年生)がおり、兄は東洋製缶に勤めていましたが、志願して陸軍特別幹部候補生になり中国へ出征していました。終戦時には、中国の北部にいました。妹は母の姉がいる熊本へ縁故疎開していました。とても厳しい伯母で、淋しくてつらい日々を過ごし、その時の様子を思い出すと、かわいそうで今でも涙が出てきます。

一人で大阪に暮らしていた祖母(父の母)は、広島の方が、戦争被害が少ないだろうと、当時、我が家に疎開して来ていました。

●被爆の瞬間
8月は本来なら夏休みなのに、兵隊さんも戦っているからと、学校に行っていました。八月四日土曜日に先生から「八月六日月曜日から、家屋疎開(空襲があったとき、延焼を防ぐため、家を壊して空間を作ること)の後片付けの作業に出るから、空襲に備えて黒い服装で来ること、持っていない人は、冬のセーラー服でも良いから黒い服を着てくるように」と言われました。そのため、私は、木綿の紺色に白い小さなかすり模様の着物地で手作りした長袖のブラウスともんぺを着ていきました。作業現場は、鶴見町(爆心地から一・五キロメートル)で私の家から近くでした。スコップを持っていくのを忘れたので、家まで取りに帰りました。家には近所のおばさんが玉ネギを持ってきて、母と縁側に腰かけて話していました。腹痛で学校を休んだ弟(勝義)もいて、いつもと変わらぬ平凡で平和な風景でした。

私はスコップを持って、すぐに作業現場に行きましたが、警報のサイレンが鳴ったので、近くの大きな防空壕に入りました。間もなく解除になったので、作業を始めました。壊した家の瓦を、一か所に集めるために列を作り、私は先頭で下を向いて瓦を持ったとき、近くの誰かが「B29よ、二機飛びよるよ」と言っているのが聞こえました。私は持っている瓦を、次の人に渡したら見ようと思ったとたん、写真のフラッシュの何万倍もの光が走り、大きな爆発音がしました。そのまま、両手で顔を覆い伏せました。両親指で耳をふさぎ、残りの指で目を押さえました。学校でこのようにすることを教えられていたので、自然に行っていました。もうこれで母に会うこともできないのかと、瞬間に思いました。

どの位たったか、そっと横を見てああ生きていたと思い、立ち上がりました。良い天気できれいに晴れていたのが、大量の粉塵が舞い上がったらしく、薄暗くて見えにくくなっていました。何が起きたのか分かりませんでしたが、一瞬で別世界になっていました。広島は今まで空襲がほとんどありませんでしたが、東京や他の県では空襲が激しくて、毎日のように爆撃されていました。私の頭は混乱していましたが、広島もついに来るべきものが来たのだという気がしました。

薄暗くてどんよりした中をみんなの行く方向に付いて走っていきました。着ていたブラウスともんぺは、焼けてしまったのか溶けたのか、もんぺの裾に入れてあった白いゴムひもだけが残っていました。当時、靴が無くて下駄を履いていましたが、歩くのにぶらぶらしてじゃまになるので、下駄を脱いでゴムひもを外して捨て、また下駄を履いて逃げました。そのため、足の裏はけがをしませんでしたが、足の甲は鼻緒の痕が焼けずにくっきりと残っていました。腰から下の両足先までと、肩から手先までやけどをして、着ていた衣服は溶けたように無くなり、裸同然だったのですが、そのときは全く気が付きませんでした。後で思えば本当にみじめな格好をしていたことになります。白い下着だけが汚れて残っていたと、後に母から聞きました。

学校の指示で、紺色の服を着ていたのが逆効果になり、やけどが酷かったと思います。

●被爆後
人の流れについて走っていると鶴見橋のたもとで、同級生十人くらいに会いました。何を話したかは覚えていませんが、中の一人の顔が真っ白だったので、お互いに「私の顔はどう」と言い合いながら、顔を見合わせて確かめ合いました。何年もたって聞いたのは、真っ白だったのはやけどだったらしく、その人は早く亡くなられたそうです。そのとき私は、自分が大やけどをしていたのが分かりませんでした。同級生はみんな鶴見橋を渡って逃げていきましたが、私の家は京橋川の西側土手筋にあったので、一人別れて家に向かいました。逃げていく人たちの反対方向に向かって走りました。家までわずか二、三百メートルの間に、赤ちゃんを抱いて血を流しながら走る人や、家の下敷きになり助けを求める人などを見ました。

家の少し手前にある町内会の大きな防空壕の入り口の所で、下の弟に会ったので「お母ちゃんは」と聞くと「家に何か取りに行っとってよ」と言いました。そのときは、まだ私の家は燃えていませんでした。それで防空壕の中に一緒に入りました。しかし、町全体に火の手が回り、そこも火が近くて、危なくなったので防空壕を出ました。立ち退きになって壊された家がすでに整理されており、その裏の一段低くなった川べりの所まで、やっとの思いで歩きました。

両親は、土間を掘って埋めてあった水や僅かな食料品、布団等を持ってきたように思います。その頃には、両手、両足のやけどのため、もう身動きが全くできなくなっていました。立ち退きにならず残っていた近くの家にも、火が付いて一晩中燃えて火の粉が飛んで来るので、父が川の水で布をぬらし、寝ている私にかけてくれました。広島駅が一晩中、赤々と燃えているのを見ながら、不安な夜を過ごしました。

姉は広島陸軍被服支廠に勤めており、八月六日も佐伯郡五日市町楽々園の勤務先に出勤していました。その日は、火災等のため、自宅に帰ることができませんでした。翌日姉は、被災者におにぎりを配る手伝いで、兵隊さんとトラックで市内を回っていて、近くに来たときに兵隊さんにお願いして、やけどをしている私と下の弟と母を、向宇品(元宇品町)にある軍隊の防空壕に運んでもらいました。そこは山に掘ったトンネルで、何本かが中で交わってかなり長いトンネルのようでした。明かりがなく一日中真っ暗で不安さが増しました。

当時はやけどをしている人に水を飲ませると死ぬと言われており、喉がとても乾いても、全く飲ませてもらえませんでした。母が乾いた唇を脱脂綿でぬらしてくれ、それを夢中で吸ったのを覚えています。

●向宇品から楽々園へ
真っ暗な防空壕の中で一週間位過ごし、宇品港から屋根の無い軍隊の上陸用舟艇で、楽々園に運ばれました。やけどの体に真夏の太陽が直接当たって、とても暑くて辛かったです。楽々園はもともと遊園地だった所ですが、戦争が進み、被服廠として軍人さんの軍服の修理等に使っていました。遊園地の宿泊用の畳の部屋があり、そこにたくさんのやけどやけがをした人たちが、マグロを並べたように寝かされていました。無傷の人も、毎日のように次々と死んでいきました。痩せてけいれんをおこしていた私は「妹さんも、もうすぐ死ぬだろう」と人に言われていたと、かなり後になって姉から聞きました。

やけどの治療といっても薬は無く、キュウリやジャガイモをすりおろして、汁を塗ることもありました。やけどが化膿してハエがとまり、ウジがわいた人もたくさんいたと聞きました。誰かから、人骨を粉にして塗ると良く効くし、傷痕も残らないと聞き、焼け跡から拾ってきて、姉の知り合いの軍人さんが粉にしてくれました。それを付けると、とてもしみて痛いのです。私があまり痛がるので、母が、私が眠っている間にそっと粉を振りかけましたが、あまりの痛さにすぐに気が付きました。しかし、やけどが治ったあとは、足も腕も酷いケロイドになって、肉をくっ付けたように固く盛り上がって無残でした。痛い思いをして付けた骨の粉も効き目がなかったようです。その後、人に見られるのが恥ずかしくて、夏の暑いときも長袖、長ズボンを着て過ごしました。引きつって曲がった指もあって、冬にはそこがひび割れて、血が出てとても痛かったです。その後、その指には爪がまともに生えなくなってしまいました。

●家族の被爆状況
疎開をしなかった低学年の児童は、近くのお寺が代用教室となって勉強をしていましたが、国民学校一年生の上の弟(勝義)は腹痛のため休んでいました。勝義は兄弟姉妹の中で一番体が弱かったのですが、被爆のとき、母が覆いかぶさったので、やけどもけがもしませんでした。

当時、こうもり傘は貴重品で、修理する人が各家を巡回して修理してもらっており、母が修理を頼んでいました。向かいの家の門の所で、弟は修理するおじさんの横に座り見ていました。そのとき被爆して、弟は頭の横半分を含む上半身にやけどをしました。おじさんもやけどをして、その日の夕方頃に亡くなられたそうです。家の土間に穴を掘って埋めてあった一升瓶の水を、父がおじさんに飲ませてあげたと弟が話してくれました。

疎開していた従姉が市役所に用事があり、六日の朝来て子ども(一歳位)を預けていきました。祖母はその子をおんぶして外に出ていましたが、帰ってこないので父が捜しに行きました。二人は比治山の陸橋の下辺りに倒れていましたが、子どもはすでに亡くなり、祖母も大やけどをして倒れていました。父がおんぶして連れて帰りましたが、祖母も八月八日に亡くなりました。大阪の家は、祖母の家も貸家も戦災に遭わず、そのまま残ったので、もし広島に来ていなかったら、祖母は元気で生きていたと思います。

●戦後の広島での暮らし
父と姉と上の弟は、爆心地から一・五キロメートルの所に、焼け跡から拾ってきたトタンなどで建てたバラックの家で生活していました。放射能でいっぱいの中で、生活していたことになります。今では、放射能の恐ろしさについて周知されていますが、当時は何も分からず、原子爆弾も新型爆弾と言われていました。広島にはウラン爆弾、長崎にはプルトニウム爆弾が使われ、戦災に遭っていない都市を狙って、実験されたと聞きました。例え、放射能があること、それが体に悪いことが分かっていたとしても、やはり行く所がないので、仕方なくそこで暮らしていたのではないかと思います。

母と弟と私は、十月頃にそのバラックの家に帰りました。乗り物がないので荷馬車の荷台に寝かされて、ゴトゴトと揺れる度に、やけどをした足のかかとの所から出血し、激しく痛みました。原爆と九月の枕崎台風の影響で、焼けたり流されたりして橋がなく、残っている相生橋を渡るのに、己斐川(山手川)を遡り大回りして、相生橋を渡って電車道をずっと東に向かい、平塚町まで帰りました。トタン屋根で板張りの小さな家に、兄と妹を除く六人が暮らしました。食べる物も不自由で、植えていたカボチャのつるの芽や、草の芽も食べました。

出征していた兄は、広島に新型爆弾が落とされて広島は全滅したと聞き、妹のいる熊本に向かいました。そこで私たちが生きていることを知り、十一月頃に広島に帰ってきました。

●熊本での生活
当時広島は、放射能のため七十年位草も木も生えず住めないと言われていたので、十一月か十二月頃、伯母を頼って、家族全員で熊本へ引っ越しました。知らない土地だったため、生活するのはいろいろと大変でした。当時ヤミでお米を買いに行っても、農家の人はお金では分けてくれませんでした。わずかに疎開させていた、姉の嫁入りのための着物や布団などと、お米を交換してもらい、八人が餓えをしのぎました。

母は広島にいる時から体の具合が悪いと言っていたのですが、広島では診察をしてもらうことができませんでした。熊本に行って診察を受けると胃癌と診断され、「死の宣告を受けたような気がする」と言ってがっくりしていた様子を今でもはっきり覚えています。本当にショックでした。一番下の弟は、まだ国民学校にも入っていませんでした。母は「手術をしても、良くなる可能性はない」と言われましたが、小さい子どものことが気になったのか、頼んで手術をしてもらいました。でも、やはり良くなることはなく、ずっと「痛いよ、痛いよ」と無意識の中で言いながら、被爆して亡くなった祖母と同じ日で、一年後の昭和二十一年八月八日に亡くなりました。まだ四十九歳でした。本当に痛かったのだと思うと、かわいそうで、とてもつらいです。今なら良い薬や、医療が進んで、痛みがもう少し楽だったのではと思います。また、母の一生は報われることなく、苦労ばかりだったように思います。

●広島での苦しい生活
母の死後、広島にも住めると分かり、広島に帰ることになりました。父は、初めての土地で誰一人知り合いもなく、少しでも早く広島に帰りたかったのか、早速、リヤカーで少しずつ荷物を熊本の水前寺駅に運びました。半分位運んだ頃、患っていた訳でもないのに、十月十八日に急に亡くなってしまいました。そのとき、兄は広島に家を探しに行っており、亡くなった知らせの電報を見ることなく、熊本に帰ってきました。二か月の間に両親が亡くなって、兄弟姉妹六人で広島の焼け跡に一年ぶりに帰り、宝町で暮らすことになりました。今思えば両親は、放射能の影響で早く亡くなったのだと思います。

お金がなく本当に貧乏でヤミの物も買えず、食うや食わずのひもじくて、つらい日々が続きました。私は、とても学校に行きたかったけど、わずか二十二歳の兄一人の収入で、六人が生活をするので、学校へ行きたいと言うことはできませんでした。弟たちはいつもお腹をすかせていてかわいそうでした。

現在とは違い、どこからの援助もないまま、生きていくためにいろいろなことをしました。焼け跡をスコップで深く掘り、できた穴の中に瓦礫を埋めて、掘って出た土で畑を作りました。田舎に親戚もなく、農業など見たこともなかったのですが、近所の人に教わりながら、見よう見まねでお米以外、いろいろな野菜や小麦も作りました。小麦は粉にして団子汁や、蒸しパンにして食べました。当時、十五歳の私一人で全てやりました。

●伝えたいこと
今も残念なのは、学校に行くことができなかったことです。もし、原爆が落とされなくて、両親が生きていたら、学校に行くことができただろうにと、何度も思いました。今まで私は小学校しか出ていないことを、恥ずかしくて人に話していませんでした。十一歳違いの姉が結婚してからは、私が家事一切をしました。兄が結婚してからは、妹と私は、兄に生活の負担をかけないために、住み込みで働きました。私は就職する時、履歴書に広島女子商業学校卒業と嘘を書いて経理事務で働いたこともあります。

両親は、六人も子どもがいたのに、一人の子の結婚も、また、孫の顔も見ることもなく、亡くなってしまったのは、本当にかわいそうだと思います。母は料理が上手で編み物も縫い物もできて、何でも器用にこなしていました。その母から教えてもらえなかったのは、本当に心残りでなりません。

親代わりの兄は、自分の青春時代の楽しみもなく、私たち兄弟姉妹のために一生懸命働いてくれました。つらいこと、悲しいこと、苦しいこと、人には言えないことなどたくさんありました。

原爆を投下したことにより百万人の命が救われたと、アメリカ人が主張する内容のニュースを最近見て、腹が立ちました。たった一発の原爆により、一瞬でたくさんの人が死に、たくさんの人が私のように大やけどをしました。また、けがもやけどもしなかった人が、放射線のためにたくさん死んでしまいました。一瞬できれいな晴天が、空中に灰をまいたように薄暗くなって、火の手が上がり、すべて焼きつくされました。当時の状況を詳しく話しても、どんなに大変であったかということは、実際にそこにいた人でないと、あの悲惨さの真実は分からないと思います。原爆を使わなくても、日本は最悪の状態で、金属でできた物は、すべて供出することになり、私の家でも床の間の置物や手あぶり火鉢まで、供出していました。日本が敗戦になるのも時間の問題だったと言われています。だから急いで使って実験したのだと思います。

原爆が使われなかったら、たくさんの人たちも、我が家の人生も随分、違っていたと思います。

 

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