現在、ヒロシマの「平和公園」となっている元安川河畔に、只一軒「レストハウス」(旧大正屋呉服店―現燃料会館)があります。その道路の向い側に私の少年時代(昭和十―昭和二十)を過ごした家がありました。川向いは今や世界的遺跡として有名な原爆ドーム。
昭和二十年七月軍港都市「呉」も夜間、焼夷弾攻撃を受けて壊滅しました。「京都」「広島」が空襲を受けないのは不思議とされ、アメリカが意識的に避けたのではないかと云われていましたが、ようやく広島市内も建物疎開が始まりました。
私の家も、道路に面した店舗・工事が対象となり、八月四日から町内総員で、大ハンマーで壊し、ロープをかけて引き倒しました。その手伝いのため、疎開先から祖母(五十五歳)は末の妹(六歳)をつれて、中島の家に帰って来ていました。
昭和二十年の春には、軍国少年の私も中学四年で、憧れの海兵を受験しましたが不合格となり、官立広島工業専門学校(現・広島大学工学部)に入学が決定していました。当時は、全校動員体制で初登校は八月一日でした。そして校内残留中の一年生を中心に授業が組まれていました。
私は八月六日、朝七時過ぎに家を出て、歩いて学校に行きました。八時十五分・・私達は教室でドイツ語の授業を受けていました。千田町の校舎は二階建てだったと思いますが、私は窓から二列目のまん中ぐらいにいました。瞬間、窓外に強烈な閃光、と校舎は大きな音と共に潰れました。多くの級友達は階段を駆け降りたと記憶しますが、私は窓に近かったからでしょうか、瞬間「大変なことが起った!」と思って窓の外に飛び降りました。どの位の時間か分かりませんが腰をひどく打って気絶したようです。気が付いて起き上がった時、靴はどこかへ飛んでしまい裸足でした。身体のあちこちが痛い。見ると腕が切れている。校舎にはまだ火災は発生していませんでした。そのあと“ブーン”という爆音、そしてあのもくもくと噴き上がる不気味な原子雲?、それは目と耳とに焼き付いています。フラフラと外へ出て、初めは鷹野橋の方へ歩いたようです。
私も血がダラダラ流れているので、声を掛けた兵隊に頼んだら「じゃ、乗れ!」ということでトラックに乗せてもらいました。トラックは御幸橋を経由して宇品に着き、そこから舟で似の島(陸軍船舶隊)に運ばれました。負傷者の多くは、火傷のようでしたが白い亜鉛華か何かを、ハケで身体中に塗ってもらって、真っ白になっている人々がうめいているんです。あとから運ばれてくる負傷者は、もう治療なんてものではありません。運ばれてきて横にされたままです。「灯火管制」の下の収容所の一夜は言語を絶しました。「ムシロ」に転がされた、全身火傷の重傷者の目には「うじ」が、音をたててうごめき、多くの人が次々と息を引き取っていきました。
負傷者の火傷の様子は、みんな無惨としか云い様のないひどさで、火傷の人はバタバタ死んで行きました。まさか原子爆弾なんて思っていませんから、家に帰ればなんとかなるだろうと、翌朝一番の舟に乗せてもらい、宇品へ上がって、御幸橋を渡って、市役所の前を通って、という道順だったと思いますが市内へ入りました。
何にもない道をすんなり歩くのと違って、倒壊、焼失、壊滅の街の跡に、焼死体がゴロゴロしているんです。夢中で家に向かって歩きました。元安橋を渡って、ようやく帰り着いた時は、ぼう然自失・・・。それでもまだ家族はどこかへ逃げていると思っていました。誰か知合いの者がおらんかと探し、何時間か過ぎたとき、伯父にばったり出会いました。母芳子の兄です。
この日、伯父は徴用先の工場から、急いで自分の家へ帰って見たら、自宅は壊滅、妹(芳子)のところはどうかと思って探しに来たそうでした。伯父は三人家族でした。二人は直爆死です。伯父に遭遇したことで、ここにいてもどうしようもないから、伯父の奥さんの里、祇園の近くなんですが、そこへ当分行こうということになり一緒に行きました。祇園にいたのは一週間でしたが、その一週間はまだ家族が何処かに逃げていて、生きているという希望があったので、あちこち探しました。もちろん爆心地へも行きました。探し続けたけどわからない。「じゃ掘ってみよう!」土が一メートル位積もって、瓦は吹き飛んで山になっているんです。家の跡はわかるから、とにかく台所の辺りを掘りましたら、ジメジメした油がにじんでいて、骨みたいなものが土に混じって細かな粒みたいな白いものがだいぶ出てきました。「これだよ!」ということで、仕分けも出来ないから、とも角、そこにあるものを缶に入れて、祇園まで抱いて持ち帰りました。そこで初めて「死んだんだなー!」とやっと実感が湧いてきました。
何というむごたらしさ!。母、弟妹、祖母の五名全員爆死。おそらく圧迫死、即死でしょう。それに熱波でついた火で蒸焼きみたいになったんでしょうか!。
私の祖先の墓(祖父吾一の)は土橋近くの寺にありますので、そこへ行きました。己斐に行く電車が走っているところです。寺は浄国寺といい、全壊全焼で住職も死んでいました。娘さん一人だけ疎開していて助かったようです。
壊滅している寺の墓地に行ったら、墓石が倒壊していたので、相当な爆風圧が加わったものと思われます。私の家から一キロ位ありましょうか!。伯父と二人で墓石を起こして、幕を開けて、骨粒の入った缶をいれ納骨したような状況です。
浄国寺の墓石は黒く変色しているんです。驚くほどの高熱でやられたんでしょう。
昭和二十二年、満州牡丹江で仕事をしていた父は、現地召集を受け、シベリヤに抑留され、やっと着のみ、着のまま帰ってきましたが、家族が皆やられて・・・。もう広島にいるのが嫌になったんですね。まもなく、友人を頼って単身上京しました。
私だけは助かったけど、焼け跡に建てた廃材利用のバラックの家での生活は淋しいものでした。元安川に回遊する、放射能をあびた白いウロコの「ボラ」を焼いて喰べたり、ドラム缶に風呂をわかして月を眺めれば、河は映えて正に「国破れて山河あり」の境地でした。それであっち、こっちと知合いを訪ねて渡り歩いた時もありました。下痢や血便で苦しむ日もありました。二十年の十一月頃、庄原の病院での診断は「アメーバー赤痢だろうか?」との診立てでした。何の病気だか医者にも分からないようでした。しかし、温かく迎えていただいた庄原の息子さん(家の職人さんだった)達のおかげで、心身共に落ち着いたのでしょうか、身体の方も治ってきました。
昭和二十四年四月、学校卒業と同時に上京、父と共に生活の再建に努力しました。
東京の生活も四十数年、お陰様 孫達にも恵まれ、何とか平和な生活をさせて頂いて居ります。
戦禍に散った三百万人の尊い犠牲は、人類史上無差別、残虐非道に於て例をみない原爆投下と共に忘れてはなりません。
爆死した私の家族
母 芳子(三十七歳)、長女 美智子(十四歳)、弟 統(おさむ 十二歳)、
二女 弥恵子(六歳)、祖母 ヒナヨ(五十五歳)
灼熱の焦土に埋もれし母と子の若きいのちを永久に悲しむ
合掌
出典 『私達の被爆体験集』 八王子市原爆被爆者の会(八六九会) 平成7年(1995年)
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