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勤労奉仕・学徒動員に関するアンケート 
坂本 美枝子(さかもと みえこ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所 東洋工業㈱(安芸郡府中町[現:安芸郡府中町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一高等女学校4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

1. 県女1年生から従事された勤労奉仕と、3年生途中からの学徒動員についてお教えくだ
さい。どこで、どのような仕事を、どのくらいの期間なさっておられたでしょうか。学年ごとの勤労奉仕・学徒動員の一覧表を同封しております。参考になさってください。
 
・この一覧表の中、東洋工業は爆心地から5.3㎞とありますが、私の持つ原爆手帳には4.1㎞と記載されています。参考までに。

 (1)1年生時(昭和17年4月~18年3月)の勤労奉仕の場所、仕事内容、その他

・遠足は砂袋を背負って、伴村から己斐峠を越す行軍でした。
・二、三級上位の市内の学生達が勤労奉仕に出て出来たとかの観音町の総合グランドに私達はさつま芋を植える奉仕でした。
・牛田山へ松根掘りに。
・府中町の農家へ麦刈りの奉仕に。
・竹屋町の学校農園の奉仕に。

 (2)2年生時(昭和18年4月~19年3月)の勤労奉仕の場所、仕事内容、その他

 (上記と多少前後するかも知れません)
 昭和18年は学徒出陣の年ですから、私達も追い詰められた感じでした。
・被服廠=戦地から戻ったのでしょうか、血痕のある軍服など分別しました。
・専売局=煙草の巻き上げ切断して出たものを受ける。
・糧秣廠=缶詰工場(煙草も、缶詰も臭いに閉口)
・兵器廠=小さい物の整理だったように思います。

 (3)3年生時(昭和19年4月~19年9月)の勤労奉仕の場所、仕事内容、その他

 上記の頃、学校では
・体育の時間に薙刀(なぎなた)の稽古
・割烹の時間に野草の食べ方、また愛国百人一首のペン習字
・国語の副読本として、平家物語、駿台雑話など教わりました。
・英語は津田リーダーの3年生まで買いましたが、敵国語だったからですか敬遠されたように思います。
ともあれ、その頃はまだ、登校してからの勤労奉仕でしたが、3年生では動員令が下り、私達3年生は直接被服廠へ奉仕となりました。
 
2.昭和19年10月から被服支廠(出汐町)に通年学徒動員でしたが、次の事柄をお教えください。
①どこで作業をしておられたか、配置図(橋本秀夫氏作成)にご記入ください。作業部屋
の設備の配置を覚えておられましたら、空きスペースに図示してください。
②仕事内容、その他もお願いいたします。
 
昭和19年 3年生
いよいよ、動員令が下ってからはもう登校せず、3年生は自宅から被服廠へ通うことになりました。私の家から広島駅までは3~4㎞くらいあるのですが、徒歩で出て確か6時38分かの宇品線に乗り大河駅で降り毎日毎日通いました。私は軍服の金口の穴かがりでした。反延べの人、型入れの人、裁断の人、それを梱包する人、いろいろに別れて皆よく働きました。煉瓦作りの倉庫の中はうす暗く、私はここで視力が低下してしまいました。作業場がどの位置だったのかあまり思い出せません…。一度空襲を受けたことがあります。防空壕に逃げ込んだのですが、比治山から高射砲の音が聞こえて来て初めてのことゆえ、恐ろしく思いました。また、お昼に出される大鍋の〝おじや〟のまずかったこと。将校の指揮による竹槍の訓練が行われたりしました。
 
3.昭和20年5月から東洋工業に動員となりましたが、①工場内の大まかな配置図、
②作業の部署、③仕事内容などをお書きください。
 
昭和20年 4年生
東洋工業内、第11工場というのが私達の配属された場所でした。沢山の旋盤機の中の一台が私一人の作業場所でした。見たこともない油まみれの真っ黒な機械は私達女学生にはとても大きく見えました。その日から、私は旋盤工です。三八式歩兵銃の銃身の内部を削るのです。大体空けられている銃身の内側で回転している主軸の先に、リーマという刃物(長さは、ほぼ10㎝位でしょうか。周囲に縦状の刃が刻んであるボールペンの軸みたい)を素早く取り付けるのです。そしてまたまた回転させながら削っていくのです。滑りの良いように、多量の重油が流されています。素手でそのような作業をするのですから左手の親指、人差し指は傷ついて皮が剥け、血の出ることも度々です。終日立ったまま腰か胸の位置でそのような作業を続けるのは本当に辛かった。作業服は油、油だらけで滲み込んでパカパカ。洗ったとて落ちるようなものではないし。もちろん、充分な洗剤なども無い時代ですから。私の記憶では、その同じ機械を高等師範学校の男子生徒が夜勤で動かしていたように思います。昼夜分かたずの作業です。そんな中でも私達は、頭に白い鉢巻をしめ、背には非常袋、防空頭巾を持って毎日毎日通ったものです。今でもあの油まみれの足元、工場内の全て全て、油まみれの内部が目に浮かびます。そんな中でも不平、不満はもっての外、軍国少女は真面目に、それなりに女学生らしく、楽しく、誇り高く、生きたと思います。          
 
4.昭和20年8月6日、原爆投下時に、どこで、どのようなことをなさっておられましたか。被爆時の状況、東洋工業で帰宅が許されるまでの状況など、お教えください。
 
工業内作業開始という時、ピカ、ドンの落下です。強い爆風、何が起きたのかわからず一瞬両手で目と耳を押さえて、油まみれの床に俯せていました。恐る恐る頭を上げて見れば体の周囲は、天井窓のガラスが皆落下、粉々に割れて飛び散り、私の体を取り巻いていました。幸い大きな怪我もなく、先生の指揮の下、鹿篭山の横穴防空壕まで走りました。立って歩ける程の高さの大きな濠ですが、何百人もの人が入り込み、壁の土はざらざら落ちるやら、立錐(りっすい)の余地もない人々の詰め込みでとても息苦しかった。どれだけ居たのでしょうか。時間の感覚はありませんが、先生の指示で壕を出ました。もう、その頃は2号線(昔の)道路は、ぞろぞろ、のろのろと被災者の行列です。
 
5.次世代に伝えたい、勤労奉仕・学徒動員、被爆などについての思いを、ご自由にお書きください。
 
ただ呆けたような焼けただれた人々の群。力尽きたように路傍(ろぼう)の石に腰かけた少年は自失の態で、焼け残った袖先から出た自分の手をじっと見つめていました……。
それから、東洋工業本館ロビーに行きました。一面に敷きつめられた荒筵(あらむしろ)の上に、足の踏み場もなく寝かされた黒焦げの人、人、人、絶え絶えにあえぐ人、水を欲しがる人…。早くも憎い蝿がやって来て、病人の上を群れていく、もう動かない人。看護せよと言われても、私達は只々うちわで蝿を追い、風を送るだけ。薬はない、水は駄目。見るだに辛い悲しい時間でした。私が生涯忘れられないのは、本館ロビーはいっぱいで収容出来ず、工場内の油まみれの作業台の上に只一人寝かされた女性。全身は黒焦げて面ざしはわからないけれど、私達より少し年上か。残る意識の中から、「お母さん、お母さん」の連呼。身をもんで、のた打ち回る姿の悲しいこと。息を呑むばかり……。
あの一人の女性のことは、一生私の脳裡を離れません。私達は夕方まで介護らしきことをして過ごし、先生の指示のまま帰宅しました。(私はずっと長い間、油の出る鯖、秋刀魚などの焼き魚は嫌。発火も見せず中まで焼ける電子レンジにも抵抗がありました。)
 
そして敗戦。8月15日の詔勅(しょうちょく)は家で聞きました。
三日三晩燃え続け、廃墟となった広島市、誰も無気力なような変なムード。追い打ちをかけるように台風の襲来。そんな中、友人間で連絡を取り合って、校舎の焼け跡の整理に出かけました。瓦礫の中、人が通っただけの細い道、焼けたまま残っている八丁堀の市内電車。私は鍬(くわ)を担いだまま電車の通れない稲荷町の鉄橋を這いながら渡りました。校庭の一部、溶けてぐにゃぐにゃの理科実験室跡のガラスの流れ。防空壕に焼け残った絣(かすり)のモンペの切れ端…。皆で泣きました。
その内、授業再開の話が流れて来て八木修練道場と草津さくら寮(母子寮)と、どちらでも都合の良い所へとのことで、私は始め八木を選び矢賀駅から深川まで(その頃、芸備線電車の天井は蝿で真っ黒)、そして深川の渡し船に乗り、八木の土手を歩いて通いましたが、とても疲れて辛い。草津に替えてみましたがデッキにぶら下がるような満員列車も恐ろしく、山陽本線も宮島線の郊外電車も溢れるとばかりの満員で毎日大変でした。
このあと、被服廠跡が払い下げになることとなり、皆ほっとしました。
大竹潜水学校の机が払い下げとなりました。またまた勤労奉仕です。
草津の浜まで運ばれて来た机(木製で机と椅子が続いたもの)を何と女の子4人くらいで一つを持って、隊列をとって皆実町まで運びました。
ベニヤで仕切られた一隅を教室に授業となりました。しかし煉瓦作りの中、反響は大きく毎日毎日大変な授業でした。そんな中、私達の時から4年生の繰り上げ卒業が許可されて、女専、女高師等、上級学校進学の人、家庭に入る人、5年生に進む人というように。
私達は入学以来組替えのない学校を、それぞれに別れることとなりました。
 
 昭和21年 春 卒業
 
昭和6年  満州事変勃発(記憶にはありませんが昭和4年生まれには戦時色幕開けか)
昭和11年 小学校入学
私は小3まで音戸町渡子小に居ましたので南京陥落、病院船の入港時の提灯行列、また江田島、呉港出入りの戦艦、駆逐艦や水兵さんの厳しいカッター訓練なども目近に見て育ちました。
昭和12年  2年生 支那事変勃発  
昭和13年  3年生         
昭和14年 4年生         
昭和15年 5年生
昭和16年 6年生 太平洋戦争開戦 
昭和17年 県女1 別頁記載のとおりです
昭和18年 県女2 
昭和19年 県女3 動員令発令(被服廠)
昭和20年 県女4 敗戦(東洋工業)
昭和21年 卒業
以上のように、まるで戦争の申し子のごとき、学校生活を送りました。
思えば86歳の現在まで、よくもまあ、生き延びさせていただいたと感謝いたしております。それなりに、懸命に生きた人生に悔いはありませんが、これからの世代には、このような時間は来ないようにと祈ります。でも私達の世代を知らぬ子供達よ。“平和”に嬌(おご)ることのなきように。ついこの前まであったこの事実。この日本の歴史を本気で学んでみて欲しいと思います。
 
乱筆にて読みづらいことと思います。どうぞ御判読下さい。
私の記憶に誤りがあれば、どうぞおゆるしください。
 
 
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
  

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