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「いのち」―広島原爆 被爆体験記 現代語版 
近藤 慶水(こんどう よしみ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2025年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

「いのち」―広島原爆 被爆体験記 現代語版
≪まえがき≫

今から80年前の8月6日、今は亡き祖母・永石和子は広島で被爆しました。
疎開中に立ち寄った広島で被爆し、どこへ行くべきかもわからず炎に包まれる中、見知らぬ青年が祖母の手を引き助け、焼け野原を抜け、なんとか生き延びることができました。
しかし今でもその青年の名前はおろか、その後の安否すらわかっていません。その青年がいなければ祖母の存在も今の私もいなかったということです。

祖母は戦後20年が経つ頃、それまで思い返すことも辛かった当時の体験を、万年筆で書き損じることなく50枚の原稿にしたためました。
祖母の娘である母親は今から20年前、この原稿をパソコンで打ち込み、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ寄稿し、Web上に公開することができました。

この投稿は、祖母の孫である私が母親と共に、今の世代の方にも読みやすいように修正したものです。
また、祖母の紹介や体験記を受け継いできた記録を「あとがき」にまとめています。お時間がある時に読んでいただけると嬉しいです。
また、一部過酷な描写が含まれています。あらかじめご承知おきください。
                                                                                                       孫・近藤 慶水

1. ― 被 爆 ―

8月6日。

「降りるんですか、降りないんですか。」
私は一瞬、下車をためらい、大阪行きの車窓から広島駅のプラットホームを見下ろし、座席から腰を浮かせたままでいた。
中年の男の急かすような太い声に、思わず広島駅で下車してしまった。

前夜からの空襲で、汽車は午前4時に着くはずがもう午前8時を回ろうとしていた。広島発の東京行きは午前7時半だった。目まぐるしい思いに私はしばらくたたずんでしまった。

――――――――――

昭和20年(1945年)、23歳の私は東京で国民学校の理科教員をしていた。
この頃は男性教員の徴兵が増え教員不足が深刻だった。国の方針で、私も女子大を繰り上げての卒業をしていた。

元海軍の父は、疎開の話があっても「日本は負けるはずがない」と言うだけで頑として、東京を離れようとしてくれなかった。

男兄弟のいない私達姉妹は途方にくれ、それをみかねた九州の知人が「暖かいし、食べ物も不自由させないから」と、年老いて腎臓を患っている父にとっては耳よりな話を持ってきてくれた。
それを良い境に昭和20年3月末、近くに炭鉱のある、佐世保から12キロ程入った佐々という農村に家族はるばる疎開したのだった。

5月末、東京では最後になった空襲で家が焼けてしまい、長女の私が勢いその整理をかねて疎開先から単身上京することになった。

当時は遠距離の直通はなかったので、広島か大阪で乗り換えるしかない。連日空襲をうけている大阪より、広島の方が安全と思い、早朝の広島発・東京行きをつかまえるつもりでいたのだった。

――――――――――

一日2本位しか出ていない東京行きは、空襲でダイヤが狂ってしまい、一つ逃してしまったら、少なくともあと半日は待たなければならない。
 
急に大きな不安に包まれてしまった私は、ともかく今日中に東京行きの汽車に乗れなかったら大変だと思い、早く時間を調べようと改札を出た。

出札口にしがみつくようにして聞いたが、大きく乱れたダイヤに駅員もわからないらしく、一向にらちがあかなかった。
一晩中続いた空襲警報の為一睡もしてなかった私は、ひどく疲れていたので何処かで休みたくなった。

駅前の広場は、空襲警報の解除後であり、同時に出勤時間でもあったのでバスを待つ人たちが長い行列をつくっていた。

真夏の日差しを除けるように見回した私は、駅の右側にずらりと並ぶ旅館を見つけ、やれやれと、その中の一軒に入って行った。
「汽車が出るまで、休ませて下さい。」
ひとりで旅館など入った事のない私は、おそるおそる旅館の玄関に腰かけている女中さん達に聞いてみた。
「とても商売にならないから、もうやめよう、と言っていたとこなんですよ。」
無愛想な顔をして、ぽつりと言ったきりであった。

がっかりしてそこを出た私は何とかして休みたいと思い、もう一軒の旅館に入ろうとしたが、その気力も湧かず、結局やめてしまった。

駅に戻れば、何とかなるかもしれない。
そう思って軒先を離れた私は、夏の日差しを右半身に受けながら道路に立った時―――、
 
マグネシウムに似た閃光が、パッと私を包んだ。

火の海に、投げ込まれ骨まで焼けてしまうかと思う程の熱さだった。

「お母さん、熱い!」

悲鳴をあげた私は一瞬のうちに「ジリッ!」と焼かれて、
きりきり舞をして体を大きく反らすように道路に叩きつけられた。
 
――― 死ななかった。
 
 
どれ程たっただろうか、気がついた私は夢中になって立ちあがった。そして 一寸先も見えない土埃の中で、

「お母さん!」

思わず何回も叫んでしまった私は、涙をぼろぼろ流して、投げ出されたリュックにつかまって震えてしまった。

――大変な事になってしまった、どうしよう。

次第に薄れてゆく土埃の中から、長い列をつくっていた人達は消えたようになくなっていた。並んでいた旅館は、屋根だけが地面に刺さっているような潰れ方をしている。

恐怖の底から、焼けた痛みがよみがえり、慌てて右腕に目をやった。無惨にも半袖の白いブラウスは黒くちぎれるように焼け切れ、わずかに肩に布が残っていた。
そして肘から肩までの皮膚がすっかり剥げて、ただれた皮膚が縮れたようになっているのを見ていた私は、ふっと、黄燐弾の燐がついたのではないかと思ってしまった。

―― 早くとらないと大変だ...!

リンに侵されるという話を聞いた怖さに、がむしゃらにその皮膚をむしり取ってしまった。
ぺたん、と地面に座って今にも泣き出しそうになっている私の前を、どんどん人が走って行く。
狂人のようになって走っていく人を見送っていると、私の手をぐっと誰かがつかんだ。

びっくりして見上げた私に、

「早く逃げましょう。」

そこには見知らぬ青年が立っていた。

「駅に爆弾が落ちたんですよ。」
説明するように言うと、落ちているリュックをとりあげて、再び私を急かした。

「僕の家が街の中央にあるから、そこで手当てをしましょう。」
そう、優しく言うのであった。

気がついたら、みんな駅と反対の方向にばたばたと駆けて行く。彼の言葉に、救われたようになった私は、あわてて彼にすがりつくように駆け出した。

そして、やっと歩けるような橋を渡りきったとき、全てがぺしゃんこになったおびただしいガラクタを目の前一杯に見て、

―― どう、どうなってしまったんだろう。

呆然となってしまった。
そして、東京で空襲の被害をたびたび見てきた私は、全市に無数の爆弾が落ちたのではないかと思っていた。

2. ― 炎 ―

行けども、行けども、壊滅のひどさは変わりなかった。むしろひどくさえ感じられた。

「助けて! 助け・・!」
彼を追う私の耳にはっきりと、女の人の声が潰された家の下から聞こえてきた。
その瞬間ぎくりとした私は、夢中になって潰れた家を動かそうとしている男の人を見た。助けなければと思いながら、先を急ぐ彼に付きながら足を早めてしまった。

私を自分の家に連れてゆこうとした彼は、この惨状にひどいショックだったのだろう、私の事を気にしながら次第に走り出すような歩き方になっていった。

助けを呼ぶ人の声が余りに悲しげだったのが頭にこびりつき、後ろを振りかえった。潰された家の端からわずかに炎が紅い舌を出していた。
頭を突きぬけるような恐怖が身体中を走った。

夢中になって彼を呼んだ私は、炎を指さして、
「川に逃げましょう。」

恐怖で声がうわずっていた。空襲の度に焼ける真っ赤な東京の空を思い出した私は、全市が火に包まれる事を直感したのだった。

そしてとっさに市中を流れる幾筋もの川があることを思い出していた。炎を見つめたまま私の恐怖に押されたように、
「火事だ、川に逃げよう。」

大きくうなずいた彼は、右に曲がり、川に行く道を急いだ。

まだ炎らしい炎は何処にも見えてない程だった。
壊れた水道からちょろちょろ出ている水をかけようとし始めた人達を見て、私は焦り叫びたくなるほどだった。
だが、そう思う方が無理だったのかもしれない。一度も空襲をうけていない広島の人に、火災の恐ろしさが分かるはずがないのだった。

その中、逃げる人の列が押しあうように出来ており、その中にはひどい火傷や、割られたような傷口から流れる血をそのままに目を覆いたくなるものばかりであった。
そのとき私の前を半裸の男の人が背中の皮をまるで着物の一部のように、腰の所に垂れ下げ背中いっぱい赤い肉をむき出して歩いていた。
「あっ!」っという叫び声を押さえた私は、痛みも感じぬままただ急ぐこの人を見て、近寄りがたい一途さを感じた。
そして彼を見上げただけで、むやみと足を急がせるのであった。

がれきの道が、青々と茂った竹やぶに入り、やっと河岸に着いた時は、濃い緑の草の土手は、まだ人影もまばらだった。
広々とした川の流れに、全ての恐怖が拭われるようであった。
深々とした色を湛える川の流れに、少し落ち着いた私は、かすり傷があるような顔が気になって、

「どうなっているでしょうか。」
そっと彼に聞いてみた。

「頬の所がちょっとむけていますよ。」
私の顔を痛々しそうに覗き込んで、何気ないように言ってくれた。

そっと見上げた私は、細っそりとした彼の額に、ほんの少しかすり傷があるだけで他は何ともない様子にちょっと安心した。
そして頭に手をやった私は、一握りの髪の毛がざっくり焼け切れているのに驚いて、あわてて右腕をまた確かめてみた。
そんなにひどいものとは思えなかったが・・・。しかし、あとになって肩の肉が剥がれたように焼けとれているのが解り、そして背中の防空頭巾は綿まで手の平大に黒く焼き切れていた。

後に、「この防空頭巾がなかったらとても助かりませんでしたよ。」と医者に言われ、しみじみこの防空頭巾を眺めたものだった。

メンソレータムしか持っていなかった私は気安めに塗ってみた。
彼にもすすめてみたが受けとろうともしないで、独り旅の私を心配して色々聞いてくれたのだった。
手短かに語った私に母のいない事を知り、
「この様子では僕の家も駄目かもしれません。そしたら母の里が、尾の道にあります。親戚に医者も居りますからそこで治療したら良いと思いますが・・・」
半ば命令的な口調で言うお世辞のない率直な申し出に、私は何も考える必要のない程、心を甘えさせてしまったようだった。

彼との語らいで、心の落ちつきをすっかり取り戻した私は、リュックの中から空襲警報のとき着る袖の長い上衣を出して、焼け切れた半袖の上に着た。
 
その時、続々と一団の兵士が逃げてきた。

川岸はたちまち、ごった返し私の周囲はびっしり人で埋まってしまった。
ピカッ!と光った瞬間、建物の中から外に投げ出されたとか・・・頭にひどい傷を受けて血を流している人が多かった。
側に居る彼とおびただしい兵隊の数に、なにか頼もしいものを感じ膝を抱えていた私は、対岸に火の手があがるのを見ても広い川幅を前にして何のおそれも感じなかった。
 
そして、一体どんな爆弾が落ちたんだろう、全くこんなひどい目に逢わせて何て憎らしいアメリカなんだろう・・・・・恨みごとを言って、うっ憤をはらす余裕もまだあった。

3. ― 絶 望 ―

背中の皮が、すっかり剥げてしまった若い男の人は、火傷の痛みに耐えられないのか、仰向けに蛙のように手足を伸ばして川の中に浮かんで冷やしていた。浮いている姿は余りにも痛々しかったが、目を離そうとするとかえって吸いよせられるように見てしまう自分に、やりきれなくなってしまった私は向う岸の火の手に目をやった。
対岸の火事がおさまればそれで全ての危険が去ってしまう、そんな気持ちで時が経つのを、じっと待った。
何時の間にか、空はどす黒い雲に覆われてしまった。急に周りは薄暗くなり、黒い雨がザーと降り出してきた。

むずかる子を、あやしていた父親の声が一段と高くなり、子供が烈しく泣き出した。

「お母さん痛いよう。」

火がつくような、泣き声は目に見えない恐怖が急に襲いかかって来るようであった。

子供の方を見るまもなく、対岸の炎が大きく揺れた。
静かだった群集が、「ああ!」とざわめき、一瞬のうちに炎が大きな火柱となって天に昇った。そして一陣の風と共にこちらの岸めがけて倒れてきた。

人々は先を争って川の中に飛び込み、所々川の中で折れて水に洗われている木の枝に人の群れが殺到した。

後ろの街も燃え上がったようだった。激しい熱気が襲ってきた。私の防空頭巾を黙って水に浸してくれた彼は、

「これを被ってなさい。」

私の手に渡してくれた。それを被った私は暖かい心が、じーんと胸にしみ込むようであった。

突然、左横の額から血を流している兵隊が私にしがみついた。

「お嬢さん、大丈夫でしょうか。助かるでしょうか。」

泣かんばかりの必死の言葉だった。20歳を過ぎたばかりの私に、しがみついた兵隊はおののいていた。日本の兵隊の強さばかり聞いていた私は、あまりに驚いてしばらく声が出なかった。
その兵隊の顔を呆れて見ていた私はハッとなった。応召兵なのだ、応召されて間もないのだろうか、残してきた妻子の面影が彼の脳裏にこびりついているのだろう。善良そうなその兵隊がたまらなく可哀想になってしまった。

「大丈夫、ここに居れば助かると思います。」
彼が横に居るからだろうが、よくもまあ、こんな言葉が言えたと思う程すらすらと言ってしまった。

言った途端、私はハッとなった。
川の流れに枝を沈めている木まで、突然燃え出したではないか。その炎からパッと散るように逃げた人々は、速い流れに見る見る沈んでいった。
それとは対照的に、対岸の炎は低くなり火事がおさまってゆく様子が、手にとるように見えるのであった。

群集は必死に対岸を目指し始めた。そして溺れる事が解っていながら、次々と飛び込む人があとを絶たなかった。

わけのわからぬ叫び声があがり、女子勤労隊のおかっぱの髪の毛が藻のように浮かび、たちまち流されていった。
川の中にいる人たちは、流れてくるものは何でもわれ先にと取った。

何百メートルもあるだろうか、広い川幅の早い流れに加え、泳ぎを知らない私は、絶望の思いに凍りつくだけであった。

阿鼻叫喚に変わってしまった川面に、一つの小舟が漂い流れてきた。
先を争って取ったのは、兵隊と屈強な若者だった。

――もう駄目だ。

想像も出来なかった光景に死を真近かに感じた私は、

「若し駄目でしたら、ここに知らせて下さい。」

父のことをあわただしく思いながら、紙片に疎開先の住所を記して彼に渡した。そのまま二つに折って、胸のポケットにおさめた彼は怒っているような顔であった。彼の足手まといになるのを恐れた私は、黙っている彼の気持ちにはおかまいなく、

「泳げないんです、私にかまわないで向こう岸に行って下さい。」

これだけを精一杯言った私は、自分の死を見守ってくれる人がそばに居る安堵感なのだろうか、不思議に気持ちが落ちついて来るのだった。

そんな中、私は抱えた膝を抱きしめていたところ、

「負傷した人、女子供が先だ!」

突然、頭の上で怒鳴る声がした。
振り返った所に、青年将校が憤然と立っていた。苦しかった胸がやわらぐ思いだった。
声もなく立ちすくんでいた数人の赤十字看護婦さん達が、その声に救われたかのように、小舟をつかまえた。

―― その瞬間、パチパチ、竹の爆ぜる音がしたかと思ったら、

「わぁ!」
うしろの人達が雪崩のように押しよせ、

「危ない!」

叫び声をのみ込んだまま、川の中に転がり落ちてしまった。

川底に踏みつけられてしまった私は、たくさんの重い足を除けようとして夢中になってもがいた。
やたらに苦しかった。

―― お母さん、助けて!

うすれてゆきそうな脳裏に 母の顔を必死に探した。

―― もう、死ぬ。

そう思った時、私の手を、ぐっと掴んできた手があった。

―― 助けて、

必死になってその手にしがみついた私は、やっと川面に顔を出して息を吹き返した。そしてかすんだ目に、彼の顔が浮び上った時、助かった喜びより、その手が彼だと解った驚きの方が一層強かった。
 
―― もう死んではいけない。
 
そんな思いが強くなった私は、周囲を見るのも恐ろしくなった。
彼が側に居てくれる。
それだけが、私を辛うじて支えてくれたのだった。

そして石垣にしがみついた私は、ずるずると水の中に引き入れられてしまうような思いにも耐えることが出来た。
 
何時間たっただろうか・・・
「もう大丈夫でしょう、早くここを出ましょう。」
彼の急いだ声に、ハッと我に返った私は、急に焦るような気持ちになった。 川の中は誰も居ないような静けさであった。

4. ― 焼 土 ―

土手の上に引き上げられた私は、一歩ふみ出して「あっ!」と息を呑んだ。
信じられない光景だった。

1、2才の幼児が黒こげの畳の上に寝かされ、折り曲げた股の所から、まだ真っ赤な炎が出ている。
一畳の畳の上の幼い姿は、苦しみのあとがなかった。
釘づけにされたように動かない私を、彼がそっと促した。
青々と茂っていた竹は、一本も姿を留めていなかった。彼に寄り添うように、土手より少々低くなった焼土に足を踏み入れた私は、また息を呑んで棒立ちになってしまった。

まだ点々と、炎を残して燻り続けている焼土の中に、黒こげの男とも女ともつかない死体が無数に転がっていた。
苦しみ悶えた姿も、そのまま残っている。

――ああっ!
思わず叫ぼうとして私は、手を合わせた。
そして、自分だけ助かったような思いに苦しめられた。

過ぎ去ったものの恐ろしさを突き付けられ、追われるような思いで私達はやっと大通りに出た。

焼けて骨組みだけになった電車が、がらんと置いてあった。その電車を眺めるように回った私は、踏み台に片足を乗せたまま黒い骨ばかりになった人を見て、思わず目を背け横を向いた。
そして目を背けた先には、目ばかり異様に光った焼けただれた3人が、セメントの防火用水槽の中に収まっていた。
思わず、横に居る彼にしがみつくように見上げた。

「薬、、、く、す、りを下さい。」
生きているものとも思えない此の人達の声を聞いた時、何とかしてあげたいという気持ちより、水を浴びせられたような恐怖が襲った。

「何もないんです。」
やっと声を出した私は、小さなメンソレータムを出すことも出来なかった。彼は私のリュックの中からそれを見つけ渡してくれたが、何も言えないようだった。ただ、頭を下げた私達二人は黙々と足を早めた。

歩けば歩く程、凄惨さが加わって逃れられない惨めさに泣き出したい思いであった。

何も知らない私達は、被害の中心地に向かって歩き続けていた。
そしてこの頃になって、ようやく救護に駆けつけた人達に会うことが出来たが、ほっとした思いで彼らを見つめる私達は関係ないかのように、彼らは血相をかえて走り去ってしまった。
来る人来る人が、右往左往するだけである。声のない慌ただしい動きは不気味なものが伸しかかって来るようであった。

果てしない焼土の道に疲れきってしまった私は、真っ黒に焼け脹れ上がった馬のようなものを見て、もうどこでもよい、休みたかった。

5. ― 別れ ―

私を自分の家に連れてゆこうとしていた彼は、どうにもならない市中の様子に仕方がないと思ったのだろう。
次第に足が遅くなる私を見て、ある橋(相生橋と思われる)の手前で、

「この先に私の家があります。

行ってきますから、動かないで待ってて下さい。」

何回も念を押すように言った彼は、気遣わしげな視線を残し、足早に去っていった。
ひとり残る心細さに、泣き出しそうになって見送った。

私は、まだ名前も聞いていないことに気付いた。
逃げ歩いた市街の無惨なありさまの中で、彼は自身の家庭の安否さえ知り得なかった。

そして、それは絶望的であったろうに。

彼の胸中はどんなだったろう。

それを察しながら言葉に現すことも出来なかった自分自身へのもどかしさと、急に出た疲れに私は、へなへなと橋のたもとに腰を下ろしてしまった。
橋の上を行き交う人が、一段と多くなったようだった。そして誰もが一様に健康そうなのが、自分だけ取り残されたように思えて、心に刺さってきた。
ぼんやり過ぎ去る人々の足元を見ていた私は、橋が無事に掛かっているのが不思議であった。
彼のことを考え、いくら心配してもどうにもならない事に内心は気付きながらも、目は彼の去った見渡す限りの焼土の方を追い続けていた。

その時、私は異様な人影を見つけ、ぎくりとした。全身ただれた人が行き交う人の中に入って、定まらない目つきで何かを探している。
目を据えて見ていた私は、目もくれないで足早に去ってしまう人々を見て、憤りに似たものが込み上げてきた。

私自身、どうする事も出来ないでいる苦しみが、一層思いを強くした。

あの人達はどうなってしまうのだろう。
慌しい足音が、私の心をゆさぶるように去っていった。
言葉を失ったように肉親を捜し求めて去る人々のことが、急に哀しく思えてきた。

―― 今は誰しもが不幸なんだ

目を閉じた私は、幼いかすかな声に、ふっと目を開けた。

「お家につれてって。」
5、6歳の男の子が哀願するように、通りすがりの人を見上げていた。
全身ただれていた。手を持てば、そのまま腕の中で息を引き取ってしまうような儚さであった。

―― 早く誰か、助けてあげて
言葉になって出なかった私は、祈るように心の中で叫んだ。
丁度、死んだ私の弟の年令に近かった為か、その可哀想な様子はとても見ていられなかった。
幼い子は、大人のあとにつくように消え去ってしまった。

やりきれない思いに、戦争のむごさを呪った私は、何時しか考えに沈んでいた。 
そしてあたりの薄暗さに、ふっと気づいた私は慌てて立ち上がった。

―― 暗くなっても彼が帰って来なかったら
彼の立ち去った方を確かめるように見ていた私は、そう思った途端、黒い屍体が急に怖くなってきた。
数えるように屍体を目で追った私は、もう彼が念を押した言葉も、いたずらに宙を舞うばかりであった。

すっかりうろたえてしまった私は、まばらになって人影につられて、橋を渡り始めてしまった。
何回も、何回も振り返り長い橋を渡った私は、見渡す限りの焼土の彼方に貨車がひっくりかえっていたのをかすかに覚えているだけで、もう夢中だった。

人のあとに後れないよう、被害の次第に少なくなる様子に、駅まで行けば何とかなる、そんな思いに、傷の事も何も食べてない事も苦にならなかった。

まもなく、電車の線路に出た私は、傾いているあばら家からローソクの灯がほのかにもれているのを見てほっとした。これで戦争のむごさから逃れたと思った。

しかし幾らも行かないうちに、おかっぱの髪を散らして息絶えた少女が、ほのかな明りにうつし出されたのを見て愕然としてしまった。
そして、その少女が無傷のように見えるのもいっそう哀れを増すのだった。

とっぷり暮れた道は、いやに悲しかった。

重い足を引きずっていた私は、社の境内のような所に、ローソクが一つともり、救護所が出来ているのを見て、急に傷の事が気になって入って行った。

ほとんど全身火傷の人で埋まっていた。順番を待つのも気がひけるような傷のように思った私は、薬を少しもらって出た。
そしてそこに救護のトラックが止まっているのを見て、思わず駆けよって乗り込んだ。

その後、四日市(※注釈1)で降ろされた私は、まだ汽車が出てない事を知らされた。近くの小学校の救護所に案内され、一晩休むつもりで入っていった。

看護婦さんが、マーキュロをアルコールで薄めたものを塗ってくれた。飛び上がる程の痛さに、思わず顔をしかめたら
「マーキュロが足りないんです。これしか薬がなくて。」
申し訳なさそうに言うのだった。
「その傷では無理ですよ、暫くここで休みなさいね。」
看護婦さんの親切な言葉に抗うように
「明日、九州に帰りますから。」
と言う私の為に、布団を教室のござの上に敷いてくれた。
怪我人を収容する教室は、別に幾つかあるようだった。

一杯の水に、ほっとして横になった私は燃えるような熱に、不安がよぎってゆくのであった。
少女が、何時の間にか私の側に来て、何くれとなく看病してくれた。
思いがけない救いであった。何もあげるものがない私は、感謝のつもりで色々聞いてみたが、何処から来たのかさえ解らなかった。

ひどい疲れが出て、いつの間にか眠ってしまった。
※(注釈1)五日市か廿日市であると考えられる。「廿」と「四」を見間違えたか、廿日市が五日市の次の駅なので四日市と思ったのかもしれない。

6. ― 生と死 ―

8月7日。

白々と明ける頃には、もう学校は負傷者でごった返していた。
物憂い体の様子に、目が覚めた私は昨日とまるで違っている自分に気づき慌ててしまった。
顔は目が見えないほど腫れ、右腕は指先までふくれ上がり、とても歩ける状態ではなくなっていた。
「どんなことをしても無理ですよ、暫くここで治療しなさい。」看護婦さんは、当然のことのように私の床を負傷者の居る教室に移してしまった。

教室の中は、ひどい火傷の人ばかりで足の踏み場もない程であった。
布団が足りなくて、ほとんどの人がむしろの上に直に横たわっているのは見るに忍びなかった。
近くの人に掛布団をそっとかけ、入り口近くの床に横になった私は、気が滅入るばかりであった。
看護の人が歩き回る度に、埃が舞い上がり傷はみるみる悪化してゆくようであった。薬は、アルコールで薄めたマーキュロと最期に使うカンフルだけであった。

やがて婦人会の人達が大きな木箱に、三角に握った大豆入りのおにぎりを配りにきた。
目の前に出されてとった一つを口にしてみたが、塩気のないおにぎりは、食欲を失うばかりであった。
そのうち私は40度を越す高熱になり、何も食べてないのに激しい腹痛と、水ばかりのひどい下痢が何回となく続くのであった。

やっと洗面所まで歩く私は、講堂の中に沢山の屍体が置いてあるのを、いやおうなく見なければならなかった。
そして、いつか自分もあそこに並べられるという恐怖感におののいて、逃げるように部屋まで帰るのであった。

担架で、そっと運び出される死体が一つ、二つと数を増し、講堂から聞こえる読経の声に、いやでも死を間近に感じた私は部屋の中をそっと見回した。
そして医師と看護婦がひとりひとり丹念に診ては、枕元に住所と名前を大きく紙片に書いて居るのを見た。
青ざめてしまった私は、生きて墓の中に入れられて命が悶えるような思いに苦しめられるのであった。

やがて私の枕元にきた医師は、
「大分弱っている。」
脈をとりながら看護婦に囁くのが敏感になった耳に入ってきた。
弱っている事が自分でも解っているだけにひどいショックだった。

―― どうせ死ぬのなら、家に帰ろう。それまでは死にたくない。
執念の炎が燃え上がって来るようであった。
枕元に置かれた紙の音がいやに大きく耳に残り、涙が一筋、頬をぬらしたとき、

「俺は、まだ若いんだ、したい事が沢山あるんだ! 死にたくない。」

不意の怒声に、ざわめいていた部屋が不気味に静まった。
火傷で、半裸のまま寝ている20歳ぐらいのその青年は、声も立てずに泣いているようだった。

―― みんな死にたくないんだ
張りつめた気持ちが、やり場のないものとなって私を苦しめた。

「呼吸が、苦しくありませんか。」
こともなげに言う医師の言葉に頭をあげた私は、部屋の中程に肌の白い女の人が座っているのを見て、あの人も駄目なのだろうかと暗然とする思いであった。

確かに朝の内は元気で、
「許婚(いいなづけ)が戦地に居るんです。いつ頃、治るでしょうか。」
点々と、大きな火傷を残す背中に、マーキュロを塗って貰っていたはずだった。

こんな所で、寝ている無意味さに急に腹が立ってきた私は、通りかかった看護婦をつかまえ、

「治るでしょうか?」
泣き出しそうになった私をなだめるように、
「そのうち、薬も来ると思いますし、病院にも入れると思いますから。」
と言うだけだった。
そして入れ替わり立ち替わり来る医師は、新型爆弾と称する爆弾の威力を調べに来るだけのようだった。

全ての音信が絶えてしまって、父に知らせるすべのない私は、一刻も早く家に帰らなければと心が急いてきた。

(どうやって家に帰ろうか・・・)

あまりに九州は遠かった。

窓辺に堤燈(ちょうちん)が吊るされた。いつの間に、日が暮れたのだろうか・・・
夜になるのが堪らなく恐ろしいものになってしまった私は、仰向いて寝ていると、窓辺の堤燈が谷底から見上げる星のように心細く、ひっそりとした学校が、墓場のような静もりを感じさせるのであった。

家に帰ることばかり考えていた私は、疲れ果て意識が次第に薄れてゆくようだった。そして、堤燈の灯が遠ざかりそれが母の顔に替わっていった。
絶えず、母に見守られているような、薄れてゆく意識を最後の所で繋ぎ止められているような、そんな安らぎを覚えるのであった。

突然、夜のしじまを破って空襲警報が鳴り響いた。
騒がしくなった教室が、しんとしたと思ったら、まだ看護に当たっていた人はひとり残らず防空壕に逃げてしまった。
昨日の新型爆弾と称する爆弾が、どんなに人の心を脅かしているか、私には解る気がする。
 
だが、置き忘れられたような心細さは、もう眠る事も、何とかなるのをじっと待つ事も出来ない気持になっていた。

夜も大分更けたようである。そして高熱の頭は、ともすると遠い九州に帰る事の不可能を感じさせ、思いは堂々巡りをくり返すばかりであった。

7. ― 家 路 ―

8月8日。

明方近くなって、私はやっと心に決める事が出来た。

一時は比較的近くの三重県にいる学校の友達の所に身を寄せようとも思ったし、そして九州より近い東京に行けば何とかなるとも思った。
しかし私はいったい助かるのだろうか・・・。そういう思いが、やはり遠くとも父や妹が居る九州にどんな事があっても帰ろうと決心させたのであった。

そう決心すると、看護婦に見つかる事が心配になり出した。
そう思った私は、早い夜明けが気になり出した。

―― 早朝なら誰にも見つからないで出られるかもしれない。

白々と夜が明ける頃、少女がまたやってきた。
天の助けとばかり私は、その子に今朝発つことを話し、傷の手当をどうすればよいか考えあぐねて居たので、薬と包帯を看護婦の詰め所で貰ってきてもらい、マーキュロを綿に含ませてどろどろになった腕にあて包帯をして腕を吊った。
はれ上がった右腕はもう自分のものではないような重さであった。顔は三角巾で結んだ。
少女は何処からか、氷のかけらを沢山持ってきて、
「傷を冷やすと、いいよ」
渡してくれた氷の冷たさが、かえってじーんと胸に迫るようであった。

家に帰りたい執念は、二日間何も食べていない高熱の私を立ち上がらせてくれたようだった。

5時頃であったろうか、罹災を受けてない町中はまだ森閑としていた。少女が、私のリュックを持って駅まで送ってきてくれた。履物のない私は裸足で歩いた。

四日市の駅(※注釈1)はごった返しており、
「罹災者のみ、罹災証明書で乗車を許可す」
と大きく掲示されているのを見た。
罹災証明書のない私はどうしたものかと改札口に近づくと、駅員は私の姿を見ただけで黙って通してくれた。
2、3時間も待って乗った汽車は満員だったが、やっと立っているような異様な姿の私に、近くの人が慌てて立ってくれた。
崩れるように座った私はもうお礼を言う気力もなく、通路でもどこでもよく、ただ横になりたかった。

駅に着く度に、一目で解る罹災者の一団が窓から出入りした。
ごった返す乗り降りがひとしきり続き、そのうち車内は大分空いてきた。
ほっとして横になった私は、ようやく九州まで帰り切る望みが出てきたようだった。 
目を瞑(つむ)って、ひた走る汽車の音にわずかに慰められていた私は、けたたましい汽笛の音とともに、ダッダッ・・・・・ばらばらと降る、空からやってくる戦闘機の激しい機銃掃射の音に驚かされた。だが起き上る気力もなく、難を逃れるべくトンネルに首を突っ込んで止まった汽車から飛び降りて避難したり、座席の下に潜る人々を黙って見ているだけであった。

機銃掃射を逃れた汽車はやっと門司に着いた。
門司駅の待合室に入り、何時出るか解らぬ汽車を待つ間、どこからともなく蠅(ハエ)が集まってきた。
次第に多くなるおびただしい蠅に驚いた私は、それが私の周囲だけに集まっているのを見て、腕の激しい臭気に気がついた。
右腕は膿のような汁が、べとべとになって滲み出ている。蠅が止まらぬよう追うのは大変だった。
追う手が疲れてきた時、ふっと戦地に居る兵士の傷口に蛆(うじ)が涌く話を思い出し、おびただしい蠅にぞっとするのであった。
 
門司で乗り継いだ汽車は始発の為か割と空いていた。
私は知らなかったが、その時すでに長崎にも広島と同様の爆弾が落とされていた。(※注釈2)
その為か頻りに私の様子を気にする人が多くなり、口をきくのも億劫な私は、全く閉口して眠った振りをしながら、いつか深いまどろみの中におちていった。

(※注釈1)五日市か廿日市であると考えられる。
(※注釈2)長崎への原爆投下は 8 月 9 日午前 11 時 2 分。後に被爆者を診た医師の話からもこの記述は 8 月 10 日とも考えられる。高熱で記憶があいまいだった可能性がある。

8月9日。

佐世保が近づくにつれ、ふっと足に何も履いてない事が気になり、裸足で外を歩く恥しさが込み上げてきた。
当時靴などは配給だったので買う事も出来なかった私は、田舎などでよく脱ぎ捨てられた藁草履(わらぞうり)を思い出し、座席の下を何気なく覗いてみた。
そして捨てられた藁草履を偶然見つけた時の嬉しさは、たとえようもなかった。

佐世保で乗り換えた私は、広島から二日がかりで佐々という緑の畑に囲まれた駅にやっと下りる事が出来た。
肉親に逢える喜びは強烈であったが、朝の爽やかな空気の中に、戦争を知らぬ気な真夏の太陽をうけて、一すじ延びている村道を見た時、私は一種いいようのない不安に気がひるむのを覚えた。
顔見知りになった村人に逢うのが恥ずかしかった。恥ずかしいというより、私の姿をみて駆けよる村人の好奇な目が怖かったのかもしれない。 
 
村道をさけながら曲がりくねった畝に足をとられ、精一杯の早さで歩いた私は、肉親に会いたいという執念の塊であったかもしれない。

8. ― 再 会 ―

小高い畑の中にある我が家の前の石畳を音もなく登ろうとすると、丁度井戸端で末の妹が釣瓶を持ちあげようとしていた。

人の気配に、顔を向けた妹は私を見るなり
「あっ!」
と叫び声を残して、家の中に逃げ込んでしまった。
そして驚いて飛び出してきた父や妹に、
「濃い塩水を頂戴」
それだけ言うのが精一杯だった。
昨日から塩水が飲みたいと思っていた私は、家が近づくにつれ濃い塩水を飲むことばかり考えていたようだった。

妹が差し出す塩水をむさぼるように一気に飲み干した私は、やっと人心地がつき、呆然としている父や妹に、

「広島で・・・」

泣きそうな顔をして辛うじて言った。
長崎にも新型爆弾と称する爆弾が落ちているのを知っていた父はそれだけで解ったようだった。

顔を覆っている三角巾を取り除いた私の顔を見て、父は仰天して妹を医者に走らせた。
しかし長崎で被爆した人を見た医者は、手の施しようもなく息を引きとったのに懲りており、「手に負えないから・・・」と来てくれなかった。

困り果てた父を見ても、私は別にがっかりもしなかった。
ただ臭くて堪らない腕を早く何とかして、休みたかった。
そして我慢出来ない程の臭さと痛みが激しくなった腕は、自分で仕末するより他ないと考え、私は漂白粉が幾らか家にあるのを思い出した。
躊躇する父や妹をせかして、それを水に薄く溶かして貰った。
手伝って貰った私は腕を洗うように消毒を始めたが、その痛さは気が遠くなりそうであった。
ぽろぽろ涙を流しながら母のいない辛さが身に染みるようであった。

泣きながら、やっと消毒を終えた私は敷いてくれた布団に飢えたように横になると、もう遠い世界に引き入れられるように昏々と長い眠りに入ってしまった。

不思議な程、眠りは苦しくなかった。
遠い過去の世界に戻された私は、5歳位からの幼い思い出のフィルムを辿り始めたのであった。
そして、妹が庭の池に浮いているのも知らないで遊びに夢中になって、ひどく叱られた場面は特に鮮やかであった。

走馬燈のように走り去る、そんな夢の中は全てが懐かしかった。
母の幻が何回も囁きかけるように消え去る頃、ようやく目を開けた私は、二日間も続いた眠りから覚めた感懐よりも、身体中の力が地の底に吸い込まれたような無力感が気になった。

全快してから、妹とは何かで言い争うことがあると
「あの時、死んでしまうと思ったから一生懸命看病してあげたのに・・・」
と言われ苦笑したものだった。

生と死の間を二日間も彷徨って生きた私は、奇跡に近かったかもしれない。

9. ― 敗 戦 ―

眠りから覚めた私は、ひどい痛みと水の流れるような下痢に苦しまされ、一日一日と体中の力が抜けるようであった。

やっと医者にヤシの油と称する火傷の薬を貰った私は、付ける度に泣かなければ収まらない痛みに、畳の上をそっと歩かれても、その僅かな振動にも耐えられない痛みであった。

夜も日もうめき通した私は、その痛さに広島の傷を生々しく思い出し、父は最後まで「日本は竹槍ででも戦う」と言っていた。
いくら私が軍人の娘でもあの広島で起こった出来事は何を意味するのか、悪い情報は何一つ聞かされていなかっただけに、拭う事の出来ない不安が募るばかりであった。

見舞いにきた村人がこの事を耳にはさみ、私を非国民呼ばわりしてどうしても解って貰えなかった。
これが3ヶ月も前だったら憲兵に拉致されただろうが、数日後に敗戦を迎えた日本はもうその力もなかったようだった。
終戦により日本人は生命の尊さを教えられ、戦争のむなしさを知らされた。
秋風のたちそめる頃、私はそれでも献身的な妹の看病と、往診してくれるようになった医師によって化膿していた一ヶ所を除いて次第に元気になっていった。

しかし不思議な程身体に異状が認められなかった私は火傷の跡が、ざらざらした舌のような皮膚から赤紫の痣(あざ)に変わっていた。
やっと医者に通うことが出来るようになった体も、顔半分かくして人目を歩くのは若い娘にとって死にたい程の悲しみだった。
なまじ助かったのが恨めしくさえなってくるのであった。

それでも、毎日薄くなったのではないかと祈るように鏡を見る私に、父は口にこそ出さなかったが、外出しては火傷に効く薬を聞いてきて、よいと言われる事は何でもしてくれた。
柿の渋を搾ってつけてくれた事もあった。しかし顔半分の痣(あざ)は、どんなに濃い白粉を塗っても駄目だよと嘲笑(あざわら)っているようであった。

随分心を痛めていた父は何を思ってか、アメリカ軍が上陸したという佐世保港に行き、若いアメリカ兵を連れてきた。

飛び上る程驚いた私は、押入れの中に隠れてしまった。
敗戦後の日本はアメリカを鬼畜と云って必要以上にアメリカ兵を恐れ、婦女子は何をされるか解らないと言って山に逃げる人もいた。
父は幸い海軍時代に広く海外を回り、「海ゆかば、祖国に殉ずる」精神に徹していたが、一部軍人のように不必要な偏見はなかった。

そして日本軍人の面目は捨て切れなかったらしく、
「私の娘が原爆にやられ、ひどい火傷をしたから来てくれ。」
片言で喋れる会話に物言わせ、赤十字の兵隊を探し、当然の事のように威張って連れてきたらしかった。
アメリカ兵を嫌がる私をやっと診せた父は、明日、薬を持ってくると言う兵隊に日本酒を振舞って帰したのだった。
翌日アメリカ兵は約束通り薬を持ってきてくれた。
そして私の手をとって気味が悪いくらい丁寧に塗ってくれた。
片言の日本語と手真似で1日3回程マッサージしながら塗ることを教えてくれ、3週間もすればきれいな色になるからと言い、毎日きてあげるという。
チューブに入った薬は医者に見せても解らなかったが、日に3回塗る私は真剣だった。

アメリカ兵は当時手に入らないもの等も持って毎日通ってくれ、自分で塗るからと言っても承知してくれなかった。
有難かったがそのうち父の目を盗んでは、私の体に触ろうとしたり手を握ろうとしたりした。

日毎、肌の上の忌まわしい色が、嘘のように拭い去るように薄れていった。
その驚きと感謝の思いは強かったが、父も黙っていられなくなって、敗戦国と云う劣等感が多少遠慮めいていたが、来る事をやめて貰った。

どうして私が嫌がるか不審な顔をして帰ったこの若者に何の罪もないかもしれないが、原爆を落とした自国を知らぬ気なこの兵士に我慢できない憤りを、私は感じるのであった。

終章 ― 愛と云うもの ―

青年の愛と、肉親の愛によって奇跡的に助かった私の生命を思うとき、誰ひとり助ける事をしなかった私は、大きな犠牲の上に生きたという責を負い目のように感じ10年間というものは、毎晩あの恐怖の思い出と共に、うなされ続けたのであった。

そして20年たった今も、助けをよぶ人の声が阿鼻叫喚の中で死んだ何十万人の悲しみと一緒に私の心を苛むのである。
多くの犠牲の上にしか生きられない生きとし生けるもの全ての宿命なのだろうか。

自分の生命を守るのが精一杯のあの差し迫った中で終始見知らぬ私を守ってくれた、彼の心に思い触れるとき、利己のない愛だけがこの宿命を救ってくれるように思えるのである。
彼の名前も聞かずに別れてしまった私は、22〜23歳の青年の細っそりとした横顔だけしか覚えていない。
死が迫ってきたあの時、私の住所を記して渡した安堵感が遂に「命の恩人」としての彼の安否を知る機会を失ってしまったようである。
その悔いは人を愛する事によって消え去るかも知れない。
だが広島に残った彼はとても生きている筈がないと思うと、辛い思い出と共に悲しみが深まるのである。

ようやく原爆の悲しさが伝わった昭和28年頃、私は新聞記者に訪ねられた事があった。
何も喋れない私に、
「社会の為ですから話してください。」
子供に恵まれた私を見て、新聞記者は離さなかった。
だが、あの日を思う事は耐えられない苦痛であり、全てを語ろうとしても涙がことばを途切らせてしまうのであった。

20年後の今日、やっとそれ等を書き留めておきたいと思うのは、広島の惨劇が、まだ終わっていないと云う思いがするからかもしれない。

そして青年の横顔が私の心に生きているからかもしれない。

そして私は今、いつか大人になった己(おの)れの子供達にこれを読ませたいと思うのである。
 
≪「いのち」―広島原爆 被爆体験記(あとがき)≫

このあとがきは、祖母の娘である母から、祖母の生前の様子・体験記を伝える活動の道のりと、私自身がこの現代語訳をまとめるにあたって辿ってきた思いについて載せています。

<被爆から平和の語り部へ 母-永石和子の紹介>

いつも人の幸せを願う母。書画を楽しみ、料理上手でおしゃれで笑顔が素敵な母。
そんな母は2000年春に旅立ちました。
戦いの20世紀を見届け、21世紀の平和のために生まれ変わるように。

母は爆心から1.8キロ・JR広島駅前付近で被爆し、生き地獄をさまよいました。

爆心2キロ以内での生存者は極めて少ないため、普通の被爆者ではなく国から「特別被爆者」の認定を受けました。(制度適用は昭和35年~昭和49年。後に区分廃止)
戦後、母は結婚し2人の兄と私を産み慈しみ育てました。しかし白血病や全身のだるさなどの原爆症、癌・死への恐怖、子や孫への影響の不安と戦っていました。

さらに、自分の足下に苦しむ人達を助けることができずに、自分が生き延びたことを責め続けていたそうです。がれきに埋もれた人々が「助けてください!助けてください!」と足首にしがみつく。破壊された重いがれきの山、一人も助け出すことが出来ない。「ごめんなさい」と言いながらその人達を踏み越えて逃げるしかない苦しさ。毎晩広島の夢を見て、朝起きると足首にしがみつく手の感触がそのまま残っている、とよく話していました。

1965年ごろ被爆から20年後に、母は原稿用紙約50枚の被爆体験記「いのち」をまとめ上げました。万年筆の手書きで清書した原稿はほとんど書き損じがなく、全魂込めて必死に書いたことが痛い程分かります。
壊滅的な駅前の写真を見ると、母は半分日陰に立っていたとは言え、生き残れたのは本当に奇跡としか言いようがありません。また、広島駅の列車の乗客はほとんどが即死だったとのこと。偶然下車したことも生死を分けることになりました。

体験記をまとめた数年後に母は自らの宿命を使命に変えようとの強い思いに至り、平和のために我が子やいろいろな世代に体験を語り継いでいこうと決心し、亡くなる直前まで戦争の悲惨さと平和の大切さを語り続けました。

主な足跡
・神奈川県文化体育館での高校生の平和の集いで被爆体験を語る。
・新聞に「生命の尊厳について」の小論文を投稿。
・地元のコミュニティー誌や母校の同窓会報に体験記連載を頼まれる。
・地域の様々なセミナーで体験を語る。等々。

また、私が高校時代に広島平和資料館の原爆記録映画の上映活動をしたり、様々な草の根の平和活動を見守り続けてくれました。

2004年に母の体験記をパソコンで打ち直しました。
活字になった体験記は使命を広げていきました。地元中学の平和学習の授業で3年間、体験記を基に母と被爆二世の私の平和への思いを語り、体験記を教室に置かせて頂きました。また、公民館の講座からの依頼で『戦争体験のない』私が『戦争を体験した』方達に話をさせていただき、体験記を多くの参加者に差し上げたこともありました。地域の平和セミナーに参加された方々、子どもの学校の校長先生始め先生方・子ども達・親御さん達・若い世代のみなさん、様々な年代の方々に体験記の贈呈を続けています。
母の思いを受け継ぎ、この体験記を語り継ぎ、地道ですが平和の砦が広がることを願っています。

・2005年、被爆60年。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に母の体験記を寄稿し登録・公開。祈念館に来られた方達が読んでくださいました。
・2018年、体験記のインターネット公開。世界中からアクセスできるようになりました。また広島祈念館に係る事業での活用・公開と公的機関などが行う事業に使うことに同意。
・2019年、友人達のご尽力で英語版が完成。祈念館に寄稿、ネット公開。
・2025年、被爆80年。要約版(和英語)とこの現代語版を発信。

 「平和のために、たくさんの人に、若い人達に、体験を伝えたい」との母の願いが大空に羽ばたいた気がします。

母に聞いておきたかったことがたくさんあると、亡くなってから気がつきました。
でも健在の時であっても母の気持ちを思うと聞けなかったかもしれません。
改めて、体験記に書き残した「母の強さ」は本当に尊いと思います。

(母と被爆されたすべての方に合掌)

2025年8月 永石和子・長女 近藤 泉
母の草の根の平和活動を継いだ私のメッセージ(追悼文)を祈念館同サイトに 以下寄稿しています。

「体験記を読む」「近藤泉」で検索

被爆から平和の語り部へ ―母から娘へ
被爆75周年に思う ― 永石和子被爆体験記「いのち」英訳への感謝 ― 
G7広島サミットに思う「被爆地は広島ではなく≪地球≫」 
原爆投下80年を前にして、被爆体験記の新たな一歩 ― 三淵嘉子さんと原爆裁判 ― 


<あとがき 祖母の体験記の公開にあたって>

高校生の頃、初めてこの被爆体験記を母から渡された時、私はすぐに読み始めることができませんでした。

平和な現代の安全と安心に包まれた青春期には、あえて辛い過去の記録を深く知ろうとは思えなかったためです。
それでも自分に関係することだと思い少しずつ読み始めましたが、文章の表現がやや古いこともあって、深く読み込むことができませんでした。

それから時は過ぎ、日々忙しく働くようになる頃、ふと思い立ち一人で広島を旅することにしました。そして、広島の資料館に行くことに決めました。幼い頃、母に付いて入った当時の資料館とはまるで異なり、より広くより綺麗な展示室に生まれ変わっていましたが、ケースの中に一つ一つ展示されている遺品は鮮明に記憶にありました。
当時の幼心には単体のおそろしい物品として写っていた遺品は、大人になり歴史や出来事を知った後に眺めると、当時の物語背景が幾つも繋がるような思いをしました。

また、祖母の体験記を読みたい―。そう考え資料館のすぐそばにあった国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に立ち寄りました。ここでは、寄稿された被爆体験記を読むことができました。
この体験記を読むのは2度目でしたが、同じ文章なのに自分自身の受け止め方が大きく変わっていました。1つ1つの情景が頭に浮かび、祖母の生きることに対するひたむきさと、青年の勇気と優しさが心に沁みました。
また、自分が今生きていることも奇跡だと思わずにはいられなくなりました。

自分はこの青年のような行いが出来るだろうか―。
また、祖母やこの青年が生きた人生の延長線で、自分自身に対して恥じない日々を送っているだろうか。

この被爆体験記を通して、これまで無意識に始まり今日まで続いていた自分の人生が、過去とつながり、そしてこれからの日々について考えるようになりました。

そして、祖母と母が繋いできたこの体験記を共有できればと思い、今回の投稿をさせていただきました。
自分自身が読むことが難しかった体験を踏まえ、表現を出来るだけ今の世代でも読めるようにやさしく直し、母と共に文章校正を進めてきました。

もし原文の体験記を読んでみたいという方がいましたら、ぜひ下部に載せたリンクからご覧ください。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
2025年8月 永石和子・孫 近藤 慶水

 
 
原文
国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク

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【原文】
「いのち」広島被爆体験記 永石和子

【要約版】
「いのち」―広島被爆体験記 愛と死の記録 永石和子
 
 
The National Peace Memorial Halls for the Atomic Bomb Victims in Hiroshima and Nagasaki Global Network
The original text can be read by searching for “Kazuko Nagaishi” in the “Read Testimonials” section of this site.

【英語版/English version】

LIFE NAGAISHI Kazuko
  

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