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私の戦争体験 戦争・原爆 平成7年中黒瀬小学校 3年生への話から 
木原 和行(きはら かずゆき) 
性別 男性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 東洋工業㈱(安芸郡府中町[現:安芸郡府中町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島工業専門学校  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

皆さん今日わ。私が校長先生から御紹介して頂きました木原です。

今日は、皆さんの先生方から、皆さんに、おじさんの戦争体験の話をしてあげて欲しいと頼まれて参りました。

おじさんは、黒瀬町の一番東にある、国近とゆう所に住んでおります。これから、おじさんが皆さんと同じ小学生の頃に出会った戦争時代のこと。中学生の頃の戦争のこと。専門学校の学生の時に広島でうけた原爆のこと。これらの1部をお話してみたいと思います。
 
小学生時代の戦争の思い出
 
皆さんの生まれた年は昭和何年ですか?

おじさんは昭和2年生れですから、皆さんとは60年ばかり昔に生まれたのです。たぶん皆さんの、おじいちゃん、おばあちゃんも、おじさんくらいだろうと思います。おじさんの所にも、皆さんのような、小学校2年生の女の子と、1年生の男の子と保育所の桃組の、三四郎とゆう男の子の3人の孫が居ります。ですから、皆さんのおじいちゃん、おばあちゃん達とおない年くらいでしょう。

おじさんが板城西尋常小学校、今の板城西小学校のことです、4年生のとき、日本と今の中国とが戦争を始めました。国と国との間の喧嘩です。 皆さん、兄弟喧嘩や友達と喧嘩をしたことのある人?喧嘩の原因は、お菓子を取られたとか、意地悪をされたとか、色々ありますね。日本と中国との間にも色々原因がありますが、この原因については、皆さんが5年生か6年生くらいになった時に、先生がお話して下さると思いますので、今はお話しません。戦争が始まりますと、たくさんの兵隊さんが要ります。そのために、若い男の人たちや、皆さん位の子供の居る家のお父さん達に、役場から手紙がくるのです。封筒の中には赤い紙に、何月、何日にどこどこの部隊に来るようにと書いてあります。これを召集令状といいます。この手紙がくると、嫌とゆうことはできません。行かなかったら警察のお巡りさんが来て連れて行きますから、皆んな自分から出て行かれました。これを出征と言います。

皆さん、国語で「ちいちゃんの、かげおくり」を習いましたか?ちいちゃんのお父さんも出征して行きましたね、肩に白いきれのたすきを掛け、その白いたすきには、出征兵士、だれだれと書いてあります。そして、その日の朝には、近所の人や小学生や役場の人たちが、村はずれまで見送って、万歳を唱えてお見送りおしたものです。戦争にいったら鉄砲の玉に当たって死んで、もう帰ってこられないかも分かりません。

ですから、家族の人たちや近所の人たちは、たいへん名残り惜しく、お別れをしておられました。皆さんも、皆さんのお父さんに、こんな手紙が若しきたら、どんな気持ちになるか考えてみて下さい。このことが、おじさんの頭に残っている、最も強い、小学生時代の戦争の思い出です。
 
次に中学生時代のお話ですが
 
おじさんの頃の中学校は、1年生から5年生までありました。今は中学校3年、高等学校3年ですね、だから中学校と高等学校を一緒にしたようなものです。
 
a 学徒動員について
おじさんが中学2年生のときに、日本は中国とまだ戦争をしていましたが、その上アメリカ、イギリス、フランスなど世界のたくさんの国とも戦争を始めました。そうすると、前にもお話しましたように、益々たくさんの兵隊さんが必要になり、若い男の人や、皆さんのような子供のお父さん達が、どんどん兵隊さんになってゆきました。すると、お米を作る人や、工場で飛行機や、軍艦や、鉄砲などを作る人が足りなくなりました。そこで、小学校の5年生、6年生はお米を作るお手伝いに農家に行き、おじさん達中学生や女学生や大学生は、工場に、飛行機や、軍艦や、鉄砲を作るお手伝いに行きました。これを学徒動員といいます。

おじさんは中学5年生の時には、皆さん、呉とゆう所を知っていますか。その呉に、海軍の軍艦や、大砲などを作る工場がありまして、そこで学徒動員で働いておりました。
 
b 呉海軍工厰空襲
今度は、その呉で、アメリカのB29とゆう大きな爆撃機、爆弾を落とす飛行機のことですが、今頃、新広島空港に降りるために、この上を時々回っているジェット旅客機がいますね、あんな大きな飛行機です。その爆撃機に爆弾を落とされた時のお話をしましょう。

日本は、アメリカと戦争を初めて、始めの内は勝って居ましたが、小さな日本と、大きなアメリカ等、たくさんの国を相手の戦争ですから、だんだん負け始めまして、とうとう呉まで、敵の飛行機が爆弾を持ってきて落とすようになりました。

それは、昭和20年の6月だったと思いますが、おじさんは、その日には、呉の海の上の小さな船に乗っておりました。すると敵の飛行機がくるぞ、との知らせの、サイレンが鳴り始めました、今でも火事の時に「ウ-、ウ-…」とサイレンが鳴りますね。あんな鳴りかたです。

しばらくすると、南の空一杯に大きなB29爆撃機が飛んできました。190機くらい居たそうです。そして工場の上にくると、どんどん爆弾を落し始めました。おじさんの乗っている小さな舟の近くにも爆弾が落ち始めました。爆弾が近くの海に落ちると、船は木の葉のように揺れます。今にもひっくり返るのではないかと思うほどでした、やっとのことで船を岸に着け、岸に作ってあった、鉄砲の玉や爆弾の破片を防ぐための、皆さんの教室くらいの大きさの鉄筋コンクリ-トづくりの部屋、これを防空壕と言いますが、この防空壕に逃げこみました。この中には先に沢山の人が入っておりました。

これで安心と思っていましたら、この防空壕の近くに爆弾が落ちると、先ほど乗っていた小さな船のように、ぐらぐら揺れます。これは危ないと思って、おじさんは友達と一緒に、飛行機が爆弾を落として、黒瀬の上から竹原の上の方を回って海の上に出て、また呉の上に来るために回っている間に、工場のうしろの山に掘ってあった防空壕に逃げました。

1時間くらい続いた空襲が終わって、先に入っていた防空壕の所に帰っみると、その防空壕のすぐ近くに爆弾が落ちて、防空壕は壊れ、その回りには爆弾のためにちぎれた人間の腕や足、お腹の裂けて死んだ人の死体等がたくさん散らばっておりました。全部で500人以上の人が死んだそうです。これが、おじさんの中学生時代の、最も怖かった戦争の思い出です。若しあのとき、おじさん達がその防空壕から逃げていなかったら、或いは爆弾のために死んで、今日このように皆さんの前で、お話ができなかったか分かりません。生きることと、死ぬることは、本当に紙一重の差とゆう事をしみじみ感じております。
 
c その頃の生活
次にその頃の生活のお話を少ししますと、先ほどもお話しましたように若い男の人が兵隊さんとなって戦争に行き、残った女の人や、年の多いい人や、学生で飛行機や船や鉄砲等を、主に作るのですから、食べ物や着るものなどが足りません。ですから、ご飯の中に麦やとうもろこしや大豆などを混ぜて食べました。又砂糖は外国から買うことが出来ないので、ほとんど食べることは出来ませんでした。又服や靴なども大変不足しました。
 
次に、原爆の話をしましょう
 
おじさんは中学校を卒業して、工業専門学校に入学しました。今は広島大学の工学部になっておりますが、その頃は工業専門学校といって居りました。自動車や、船や、機械など色んなものを作ることを勉強する学校です。その学校の1年生の時、まだ戦争が続ずいており、中学生のときと同じように、広島の、今は自動車を作っているマツダとゆう会社で、その頃は東洋工業といって、鉄砲を作っておりましたが、そこに学徒動員で働きにいっておりました。
 
a 被爆前後の状況
昭和20年の8月6日、この日は、去年の夏のように大変暑い夏でした。おじさん達は、その日には、朝の8時から、会社の、この体育館より少し小さいくらいの大きさの講堂で、会社の人のお話を聞いておりました。

すると、ピカっと何かが光りました。ちょうど少し暗い時に、皆さんのお父さん達が写真を撮るときに、写真機がピカっと光りますね、あれと同じようだったんです。ですから、誰かがおじさん達の写真をうつしたんだろうと思つていました。

それから10秒位したとき、突然、ド-ン、がらがらとゆう大きな音とともに、窓ガラスが割れ、部屋の中に飛んできて、中にいた沢山の人に当たりました。おじさんも、頭を何かで、が-ん、とたたかれたような気がしたと思ったら、顔にだらだらと血が流れ落ちてきました。何が何だか分からないまま、おじさんの友達が急いで会社の病院に連れていってくれました。でも、一度にたくさんの怪我をした人が病院に押しかけたので、今頃でしたら、怪我をしたら、注射をして痛さが分からないようにして針と糸で縫うのですが、注射もせずに縫うのですからとても痛かったです。そして包帯を頭にくるくる巻いてくれました。これがその傷の跡です。

そのピカっと光って、ど-ん、といったのが、後で原子爆弾だったことを知りました。それで原子爆弾のことを、ピカドンと呼んでいます。

傷の手当てをしてもらった後、皆で工場の後ろの山に逃げておりましたが、その後何も起こらないので、お昼頃工場に帰っておりましたら、工場の前の道路を、着ている服が破れたり焼けたりした、沢山の怪我や焼けどをした人が歩いて来ました。手や顔の皮がはげてこのように垂れ下がっていました。そして広島が大火事だと教えてくれました。
 
b 家族状況
その頃おじさんの家族は、広島の昭和町に住んでおりました。おじさんと、おじさんのお父さんと、お姉さんと、弟の4人で住んでいました。おじさんのお父さんは、広島の真ん中の八丁堀にあった、ビルの7階にある会社に勤めていました。お姉さんは女子挺進隊として、広島の陸軍の兵器廠に動員されていました。弟は中学3年生で広島の船を造る、三菱造船所に動員で行っておりました。

おじさんのお母さんと、もう一人の小さい弟は、黒瀬に学童疎開で疎開をしておりました。学童疎開とは、敵の飛行機がきて、爆弾を落とし始めたので、危ないから町の小学校の生徒は全部、田舎の家や、お寺に避難をしたのです。黒瀬のどのお寺にも、広島や呉から沢山の小学生が疎開して来て、黒瀬の各学校に通学をしていました。
 
c 被爆直後の家族と家の状況
午後三時頃になって、広島市内に入っても良いことになって、歩いて家に帰ってみると、おじさんの家の回りは、すっかり焼け野原になって、何もありません。家族の人を待っても誰も帰ってきません。やっと6時頃、お姉さんが1人帰ってきました。それから暗くなるまで待ちましたが、おじさんのお父さんも弟も帰りません。朝から何も食べず、水も飲まず、へとへとになって、仕方なく、お姉さんが出ていた兵器廠に行き、おむすびをもらって食べ、その晩は近くの山に作ってあった防空壕のなかで過ごしました。夜中にも空襲警報のサイレンが鳴り、一睡もできませんでした。

夜が明け、2人で焼けた家の跡に帰ってお昼まで待ちました。その間に近所の人に2~3人会いました。1人の人の話では、おじさんの家は2階建でしたが、爆風で見る見る内に押しつぶされたそうです。このように強い爆弾ですから、爆発の中心から半径2㎞くらいの中にある家は全部押しつぶされたのでしょう。               
 
d 爆発地点と温度、距離
原子爆弾は広島の、今の平和公園近くの上空800mの所で爆発したのですが、その爆発したところは火の玉となり摂氏8000度位の高い温度だそうです。例えば皆さんが入るお風呂の温度が40度くらいで、鉄が1500度でどろどろに溶けるんです。ですから押しつぶされた家のあっちこっちから燃え始め、あっとゆうまに、広島の町じゅうが焼けてしまったのです。おじさんのいた会社は、爆発の中心から4㎞の所でした。

その当時、広島市の人口は、おおよそ42万人といわれておりますが、原子爆弾が落ちたときに、すぐ死んだり、焼け死んだ人が6万人くらいといわれております。黒瀬町の今の人口が約2万3千人ですから、大方その3倍近い人が死にました。その上、この爆弾は後から原爆症とゆう病気が出て、その年の内に全部で16万人くらいの人が死にました。

押しつぶされた家の中にいた人は、家の柱に押えつけられ、逃げることができず、生きたまま家と一緒に焼け死んだ人も沢山いました。「助けてくれ、助けてくれ」とゆう声がしても、火事の火がどんどん近づいて来て、どうする事も出来なかったそうです。
 
e 明くる日 弟帰る
お話を元に戻しますが、10時頃弟が帰ってきました。きのう家に帰ってみると、家が全部焼けてしまっていたので、広島市の郊外の府中にある叔母さんの家に行っていたそうです。1つ安心をして、弟は小さいので又おばさんの家に行かせ、おじさんと、おじさんのお姉さんは、おじさん達のお父さんの会社に、お父さんを捜しに行くことにしました。
 
f 父を捜す
おじさんの家から、おじさんのお父さんの会社までやく1㎞、爆心地まで約2㎞ありますが、その間全部家は焼けており、まだ煙が出ている所も有り、道には家の焼けた残りや屋根瓦が散らばって、道らしい道はありませんでした。その上、焼けた死体が散らばって、ちょうど地獄を歩いているようでした。

それでもやっと会社にたどり着き、今の福屋百貨店の隣でしたが、ビルの中は焼けてしまって、所々に死んだ人の死体が転がっておりました。そんな中を恐る恐る、今にも壊れそうな階段を歩いて7階まで上がりました。そして捜しましたが、お父さんらしい姿は見えません。そこはあきらめて、それから2日間、2人で広島じゅうを歩いて捜しました。

広島駅の北側の、東照宮とゆうお宮にも行きました。そこには運び込まれた人が、地面に足の踏み場もないほど並べられておりました。怪我や火傷で顔や手足ははれあがり、髪はばさばさ、着物は破れたり、焼けたり、ほとんど丸裸の人も沢山居られました。もう息の切れた人、今にも切れそうな人、どうしてあげることも出来ません。それらの人を1人1人見て父を捜しましたが、ここにも居ませんでした。
 
g 市内で見たもの
その間に見た光景は、外側だけ残ったビルの中には、市外から助けにきてくれた人たちによって運び込まれた怪我人で一杯で、「苦しいとか、水をくれとか、うん、うん」と唸る声で一杯でした。道には電車が焼けその中にも死体がごろごろ転がっておりました。今の平和公園の北側の相生橋も、爆心地に近かったため、被害が大きく、両側の欄干は全部倒れており、橋も片側が跳ね上がっておりました。相生橋の西側には馬に乗っていた兵隊さんが、そのまま横倒しになり、死んで、馬も兵隊も夏の暑さで顔のほうには蛆虫がうじゃうじゃと這っており、馬の腹は内蔵が腐って、はち切れる様に大きくなっていた様子が今でも忘れられません。

明治橋とゆう橋の付近では、その頃、沢山の中学校の2年生が、火事になった時に、火が広がらないようにする為、家を前もって壊す手伝いをしていて、ほとんどの生徒が死にました。その死体がずら-と並べてあり、その死体はもう腐り始め、何ともいえぬ匂いと、はいと蛆虫が死体にいっぱいたかっていました。そんな中を父を捜して歩きました。

この間の食料は、郊外から炊き出してくれたおむすびや、乾パン等を所々でもらって食べました。水は焼けた家の水道水を所々で口飲みしながら喉の乾きを押さえて過ごしました。
 
i あきらめて黒瀬に帰る
もうこれ以上捜すことは出来ないとあきらめて、9日の夕方、3人で黒瀬に帰ることにしましたが汽車は広島は不通で、広島の2駅こちらの海田市駅まで歩いて、やっと汽車に乗り西条からバスで黒瀬まで帰りました。
 
j 父の生存の知らせ
ところが家に帰ってみると良い知らせが届いておりました。それは父がいたとゆう知らせです。おじさんのお父さんは、以前小学校の先生をしておりました。その時に教えた生徒の1人が大人になり、広島の郊外に住んで居て、その人も、自分の娘を捜していた時に、たまたま、おじさんのお父さんを見つけ、自分の家に連れて帰り、おじさんの黒瀬の家まで知らせてくれたのです。
 
k 父を連れに広島へ
おじさんは、すぐその日に1人で西条に出て、海田市まで汽車に乗り、海田市に着いたのは夜の11時頃でしたが、それから府中の叔母さんの家まで歩き、その晩はその家に泊めてもらい、朝3時頃おきて、広島に出ました。出る途中、広島市内では、死んだ人を焼く火があちこちに見え、丁度人魂を見るようでした。そして、その焼く匂いや死体の腐った匂い、それに火事の後の匂い等が混じって、この世とは思えない何ともいえない感じでした。夜があける頃、広島の西の郊外の古江とゆう処に着き、そこで父と会いました。
 
l 父の被爆状況
父は事務所の有る7階で、爆風で吹き飛ばされ、机に体を叩き付けられ、気を失ったそうです。しばらくの時間がたって、ふと気がついた時には、回りが燃え始めていたそうです、幸いビルの壁の影にいたため、火傷はしませんでしたが、片方の肩の骨が折れ、片方の目が見えなくなっておりましたが、足が大丈夫だったので、なんとか7階から階段を下り、町が焼けている煙の中を広島駅の近くの栄橋まで逃げて、その橋の上で動けなくなりその晩は橋の上で、近くに落ちていたトタン板を拾って、それをかぶって過ごしたそうです。

あくる朝、助けに来てくれた人に、広島駅の北側にあった、東練兵場に連れていってもらったそうです。そこで、先ほどの教え子に会い、その人の家に連れていってもらったそうです。
 
m 黒瀬に帰る
次の11日に、おじさんは父を、おぶって広島駅から汽車に乗って黒瀬まで連れて帰りました。

これが、おじさんの、原爆が落ちた8月6日から11日までの、原爆体験の大体のお話です。
 
最後に
今までお話、しましたように、戦争がありますと、子供を始め皆んなが大変悲しい目や、苦しい目に会います。絶対に喧嘩や戦争があってはなりません。喧嘩や戦争を無くするのには、相手の方と十分話合い、相手の言うことを良く聞き、相手の身になって物事を考え、絶対に暴力をふるはない事です。皆さんも此のことを良く覚えておいてください。

今日はおじさんのお話を良く聞いてくれました、有り難う。

  

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