ピカッと青白く光った瞬間、ショートしたと思って機械のスイッチを急いできった。だけど他の機械は変わりなくゴーゴーと動いている。人々の手はみんな遊んでたけど…。
その中、一中の生徒が四、五人「火事だ」と海岸の出口の方へ走って行く。Yさん、Sさんと、「どこかしら?照明弾にしては真昼からおかしいわね。ショートしたのかと思った」と話してた時だった。「ドーン」とにぶく、しかし大きな轟音、無意識に地に伏せた。とっさに工場に直撃を受けたと思い、工場に爆弾一個という事は考えられないから第二弾が必ずくる、背中の真上かなと少し余裕をもった考えになってくすぐられてるような気持ちになってた時、誰かが頭をたたいて「早く出るのだ」と言い残して走り去る。機械の下を這って行く工員さんについて走ろうとしても前が見えない。ひどい爆風で鉄屑が茶色のもやの中でゆっくりとまたは早く宙を回転するのがはっきりみられた。息をすれば鼻に口にその屑が入り込む。手で顔を覆ったまま出口に向かう。土壕の上の防火頭巾と非常かばんを取ってやっと明るい外に出た。先生に「早く壕に入って」と言われ飛び込んでみたら頭巾を持ち出してる人はみられなかった。
先生の声で外に出てみてびっくり!!本館のむこうにムクムクとわく入道雲。無限かと思われる程次々に盛り上がっては広がる。ちょうど松たけのお化けのように。入道雲と異なって虹のような色彩を抱くように昇る雲また雲。
「まあ、きれいね。どの辺かしら?」と思わず話し合う。母や姉の上にこの光が大きな災いして、あの雲の下でお母さん、お姉さんそして何万の人々が苦しみそして昇天されたことも知らないで…。
何してるの、早く山へ待避、人員点呼しながらかけ足で早く早く、先生の声に追われるように山へ急ぐ。今日帰ったら一大ニュース、早く帰って話したいなと思いながら、横穴を出たり入ったりしてる中に「広島市は空襲の為全市目下延焼中」と聞く。初めて不安に包まれる。でも一つしか落ちなかったようだったのに。
「女子学徒報国隊はただちに救援に行く準備」緊張して大洲橋に向かった時「広島市空襲に用いられた爆弾は新型のもので立入りは不可能。詳細は目下調査中」との連絡に不安は増す。
その頃学校で授業をしてた看護組の方が二人、頭の髪はまっすぐにつっ立ち、もんぺは浦島さんのように房になっている。学校が直撃を…と先生に言って倒れてしまわれたとか。翌朝亡くなられたと後で聞く。一緒だったはずのⅯさんの事が気にかかる。丹那のお家へ逃げ帰って亡くなられた。京橋町のWさんのお母さんがリュックを背に走ってこられる。「八丁堀の方が第一弾らしいよ。でもあなたの家の方は全滅よ。何しろ橋の向こうから逃げて来る人は少ないからね。家も焼けはじめたからね」との事。返事も出来なかった。
「女子学徒は本館において直ちに救護に従事する」次々にトラックで運ばれてくる患者さん。私の受け持ったのは赤ちゃんと母親、そしてお姑さん。「どちらで?」と伺ってみる。「駅前で切符を買う列に並んでいてピカッと光ったので思わず子供の上に伏せました」とおっしゃるお母さんは手の甲と背中の一面が火傷。でも白いレースとズボンの絣(かすり)が残っていた。赤ちゃんは傷なし。強い母性愛を感じる。空腹を訴えるのか元気に泣く赤ちゃん。「袋の中に粉乳と量を書いた紙が入ってますからお願いします」と言われ看護婦さんにお湯をもらって飲ませる。
患者さんの間を廻られる軍医さんが所々で水を飲ませて上げなさいとの声が聞こえハッとする。火傷の時水はいけないときいていたので、お姑さんにも脱脂綿に水を含ませ顔一面ホウタイに包まれて開かない口元にしぼってあげる。
交替で食事と連絡。でもⅯさんの事が気になって食欲も全然ない。ごめんなさい、まだお母さん、お姉さんの事はなぜか気にならなかった。
また例の調子で空襲を知らせるサイレン、待避。「一緒に連れて行って下さい」「逃がして下さい」との患者さんの声を背に聞きながら山へ向かう。
夕方山から下りて帰れる人(白島九軒町、府中、己斐、宇品)とその他の帰れない人に別れる。Ⅿさんと町内の避難場所になっている桜土手か深川へ一緒に行ってみたらと話し合ってたらⅯさんは親せきの方に会われて心細くなる。Hさんの御好意に甘え、Sさん、Yさん、Sさんと泊めて頂く事にする。海田まで歩く途中、イタイヨイタイヨと泣く子供、オロオロする素足の母親の姿を見て、母姉の事が気になる。
安芸中野の駅には広島へ家族を出してる人がたくさん出ておられた。「Hさんよかったですね」、ホッとされるお母さんの顔。何だか自分達がひどくみじめに思われ慰められたら急に涙があふれ四人とも黙って下を向いて歩く。小高い所に建つ立派なお宅につき、すすめられたお風呂もいただく気になれず非常袋の下着を出して取替え、だまって座ってた。「あっちが広島よ」と指さされたその空、夕焼けとは違ってはっきりと楕円形を描いた真赤なお盆が不気味にユラリユラリしていた。又サイレンの音。お母さんとお姉さん会えたかしら?
翌七日、水とおむすびまでたくさんいただいて、はげまされながら広島へ向かう。中野駅で事情を話して切符を求めようとしたが「お天気がいいから四人で遠足のつもりで歩きなさい」と言われつらかった。途中東洋工業に寄って、家族からの連絡のない事をたしかめ、罹災証明を貰って又広島へ。
東大橋へかかると憲兵さんが銃剣を持って立っていた。「どこへ何をしに行くか?」「第一県女四学年東洋工業報国隊、家族の安否を確めに帰ります」「よし、元気を出して行け」
次々と傷をした人に出会い不安が増すのをのをまぎらわせるように、何だか傷なしで帰るのきまりが悪いから、三角巾を出して頭に巻きましょうかなどと無理におしゃべりしながら歩く私達でも土手町へさしかかってそれどころではなくなった。塀が倒れ、柱だけで菱形になった家々。残った柱、壁に家族の安否、避難先を書いた大きな文字。柳橋が通れなくて京橋へ廻る。橋を渡った所で若い女性の死体が水面に浮かぶのを見た。申し訳ないけどとてもきれいに感じた。それまでにあまりにひどい患者さんに出会ったからだろうか。お姉さんの顔がちらつき胸が押さえつけられたように痛む。
続いて海田県女の生徒が石によりかかるようにして…所々電柱から思い出したように火を吹くし、アスファルトは焼けてるし、防火頭巾でそのあつさをよけながら山口町電停まで来る。炊き出しの人、はだしの人にわらぞうりの配給、放心したように石段に腰かけてる人々。
家の庭にあった松が石どうろうがそこにある。でもあつくて近よれない。松からはまだ煙が出ていた。足を止めてボヤッとしてた時、足にふれた黒こげの電柱。何気なくけろうとして足を動かしかけてびっくり。死体だったのだ。声も出ず飛びのいて、背すじをゾーッとさせながら目の前に母の顔とダブルのを拭いながら防火頭巾を手で広げて視野をせまくして電車道よりに歩いた。
勧銀の所で町内の方に会い、お母さんの消息はつかめないまま紙屋町の方へ向かう。住友銀行の所で知り合いの下士官さんに会い石段に座り込む。電車道の向こう側に硬直した死体を戸板で運びカタカタと音を立てるように滑り下りて山になる。途中電鉄の辺がもえ出し、あつい風の吹く中を宇品の船練まで行き二晩お世話になった。
十日、お母さんとの悲しい再会。元気だったのね、とも言ってくれない。私のおしゃべりも聞いてくれない。中村屋のかりんとうの大きい缶に入ってしまったお母さん。取り乱す事がおそろしくお骨を拾いに行かなかった私。冷静ぶったその事が一生後悔する事になってしまって。取り乱してもどうしてもなぜ私の手で抱いて帰らなかったのかと…。
お母さんに抱かれる事ばかり考えてた甘えん坊だった。本当に最後まで…。
お姉さんも市の水道課で残った遺体のバンドからこれらしいという事ではっきりしないまま。終戦までの毎日待避する気にもなれず、叔母さんに叱られて二つのお骨を抱いて壕に入った。
十五日終戦と知らされた時の腹立たしさ、今から仇を討つつもりなのにと泣いた。一カ月も経ってグレーに紺の水玉もようのワンピースが目につき、夢中で広陵前から専売局まで追いかけた。このワンピースはそかい先から今は私の手元にある姉のワンピースなのに…。
焼跡へ行って
今、当時の日記から書き抜いていても生々しく思い出されて字がにじんで見えてくる所もあるけど、自分で書いたものなのに誰かに聞いた話のようで、もう一度たしかめたいような所もあって不安になる。忘れてはならない?事が二十数年経つとこんなにうすれてる事を恐ろしく感じる。
毎日出来事をおしゃべりしてた私は一人ぼっちになってからも何か皆で笑って話しながら、今日帰ったら…と思っては、つとつき落とされるような淋しい思いを何度も味わい、お母さんに話すつもりで書き続けた日記。
今年息子が、私が原爆を体験した年令になった。娘は親から離れて進学した。
あの年令の私を一人残して逝った母の気持ちをあれこれ思ってみた。■■■考える間もない苦しまないで即死だったと思いたい。あの時の母に対する私の気持ちを思い出そうとした。そして文章も上手に書けないのに今まであまり話したくなかったこの経験をやっぱり話しておこうと思った。
広島に在りながら八月六日の慰霊祭にお参りした事のない私。静かになった頃そっと手を合わせる私。観光客の笑顔の記念写真の為にへりの方へおしやられ遠慮がちに手を合わせる被爆者。平常忘れようと努めながら、子供の原因の判らぬ発熱に二十数年も経った今もつと不安になる母親。
原爆一カ月前、学徒出陣でレイテで玉砕した兄の冥福を祈りながら、戦争はいやだと大声で叫びたい。
昭和四十七年八月
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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