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被爆体験について 
松原 和子(まつばら かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市第二国民学校(広島市南観音町[現:広島市西区南観音三丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 


当時女学校2年生だった私は、学徒動員先の南観音町で被爆しました。家は鈄屋町(現在堀川町)にあり、母と妹は家で被爆。近くに伯母、伯母、叔母が住んでいて被爆。結果的に肉親の女性ばかり5人とも亡くなりました。

幸いにも父、叔父、従兄は兵隊で皮肉にも生きのびる事が出来ました。

私は動員先の印刷所に隣接する第二高等国民学校の裏庭で朝の訓示中でした。ピカもドンも具体的意識はありませんでしたが、本能的に校舎の側溝へ身を伏せたあと、皆が一斉に防空壕へ入りました。入りかけた時、黒い雨が降ってきました。先生が指先についた雨の匂いをかいで「ガソリンをまいて焼夷弾を落とし、まる焼けにするつもりだ。すぐ防空壕から出ろ」と叫ばれました。

その後全員で己斐の山へ逃げ、その夜は市内の燃えさかる火を茫然と眺め家族の無事を祈るのみでした。

3日後、大竹の海兵団に徴兵されていた父が、八木の梅林にある女学校の修練道場にいた私をさがしに来てくれて劇的な対面をしました。

妹と伯母、叔母は即死。母と一人の伯母は逃げておりましたが、伯母は全身やけどで牛田の知人の庭先でベッドに横たわっていました。

伯母の次男である従兄と私は松葉の先で伯母の膿をつぶしては膿より多く出るウジを取り除くことを精一杯しましたが8月14日早朝死亡。穴を掘って親戚のおじが持って来てくれた少しの油を衣服にしめらせて、おじと母とで火をつけましたが、母は従兄と私には見せませんでした。

母は無傷でしたが、その後髪は抜け斑点が出来、血便が出るようになり9月9日亡くなりました。

母の骨はうす黒い色をした骨でした。

妹の骨は父と私とで家の跡を必死にさがしましたが、とうとう見つかりませんでした。

辛く悲しい13才の夏の体験です。


*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。

  

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