広島第一県女4年生だった私達はその日、広島市高須町の航空機工場で厚さ20cm程の大きな木の台に取り付けた万力に挟んだ小さな部品のヤスリ掛けの作業をしていた。
突然開け放していた窓の方から経験した事のない閃光(一瞬電気のショートかと思った)と同時に建物がグシャという感じで潰れ、万力台が倒れ下半身がその下敷きになった。
どうやってその場から逃げ出したのか覚えていないが、みんなで助け合って建物から飛び出し裏山へ走った。
その時、真っ黒なちょうど汚れた雑巾をすすいだバケツの水をぶっかけるような雨が降ってきて、友人達と、敵が焼夷弾を降らせる前に油をまいたのでは…などと話し合った。
夕方、疎開先の広島郊外の家へ帰り、頭に突きささっていた小さなガラス片をピンセットやペンチで一つずつ抜き取り赤チンを塗ってもらった。
朝一緒に家を出た1年生だった妹が翌日になっても帰って来ないので広島市内へ探しに出かけ、今では想像も出来ないような惨状の中をただただ歩いて材木町(爆心地)の建物疎開作業に出かけたところまで行き、集めて置いていた荷物の中から妹の弁当箱を見付けた。当時皆持っていた松竹梅の模様が浮き出したアルミの弁当箱に私が針で名前を彫っていたので確認できた。遺骨もない妹の唯一の遺品として仏壇に供えて祀っていたが、のちに原爆資料館に寄贈、度々写真誌などにも紹介されている。
翌日も再び広島市内の学校、病院等建物の残っている所へ収容されている、ほとんど見分けもつかないような人々の間を手がかりを求めて探し歩いたが結局‶行方不明〟という形で帰ってくる事はなかった。 |