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硫黄島、広島の原爆を生き抜いて~小田博の自分史~ 
小田 博(おだ ひろし) 
性別 男性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 中国軍管区歩兵第1補充隊(中国第104部隊)(広島市基町[現:広島市中区]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区歩兵第1補充隊(中国第104部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

父方: 小田家の先祖は高田郡小田村の出身、祖祖母は浅野家の乳人をしたとか
    曾祖母は山中家山中権八郎より嫁す。
母方: 三村家は浅野家の御伴で紀州(和歌山県)より移り、今の研屋町に居を
    かまえた。(研屋町の人は全部和歌山から来て色々の仕事をしたものらし
    い。職人の町であった。)
 
家族 父 : 小田 芳次郎 (胡町) 小田 政次郎 二男
              昭和40年7月9日死亡 食道癌
   母 : 小田 セイ  (研屋町)三村 藤吉 五女?…喜美子と共に
              昭和20年8月6日 鉄炮町の家(現在 東芝商事)で原爆死
   三男: 小田 博 大正9年9月6日生、広島市胡町(現カワイ楽器所在地)
   
   長兄: 小田 謹一 湘南積水 専務
   次兄: 小田 基二 小田政  社長
   妹 : 小田 喜美子 山中高女卒 挺身隊昭和20年8月6日原爆死
   妹 : 小田 晴子  角倉家に嫁す
 
学歴 : 幼稚園 廣島陸軍偕行社付属済美幼稚園(現YMCA)大きな藤棚、靴のままで(林先生、渡辺先生)(元来軍人の子弟の学校であったが、後日市内の商家の子弟も入った。 
     小学校 幟町小学校(1年~3年)
         済美学校 (4年~6年) 何故に幟町より済美に転校したのか不明。現代の所謂教育ママか‼
         昭和8年入学
   *  廣島陸軍偕行社付属済美学校 : 1872年創設の開成社を前身とする陸軍偕行社の経営する
        この学校(小学校、幼稚園)の歴史は、原爆投下によって幕を閉じる。ここに通って
        いたのは、高級軍人や官僚の子女。当日は給食の為、登校していた児童、職員、駐屯兵
        合わせて160名以上骨も残さず全滅した。
     中学校 広島県立第二中学校(昭和8年3月~13年3月)似島が見えた
         当時は畑の中で遠く観音の新開が望め、月一回新開を巡る校内マラソン
         入学の年にプール(50m)を作るモッコ担ぎ 
         4年、5年(陸士、海兵等に多く志願した。)
     高専 山口高等商業学校(昭和13年4月~16年3月)昭和16年3月卒業
*(京大の階段教室)京都で受験、合格通知に希望に胸をふくらせて山口に下車、山口駅
の(県庁所在地の駅としては)貧弱なのにびっくりしたが4年間住んでみると学生の
町としては良い環境であった。入学時校門の前、鳳陽寮前の櫻が満開で実に見事である。
1年生は全員寮生活、→2,3年は下宿。寮の舎監は海軍大佐!選抜された上級生が
各寮に残り生活指導した。一室4名宛。寮の一年間は全国から山口に集まった学友の
友情を育て(寮で育った者は、クラスが違っても未だに交際が続いている。)
又、山口高専の校風を叩き込む道場であった。
毎朝起床と共に先輩のリードで山口市内の旧跡巡りの駆足、大神宮、瑠璃光寺、
雪舟の庭、亀山公園、ザビエル記念碑等々。山口は大内氏の時代、京都を模して造られ
た町並みで町の名前も…小路、堅小路、小局小路…等
 
昭和16年12月8日大東亜戦争始まる。ハワイ突入、マレー沖海戦
     東亜経済研究科(昭和17年3月卒業) : 8月満鉄の指導で論文作成の為
                満州旅行準備中、ノモンハン事件が起こり中止となる。
                各人家で待機。
    神戸商大受験 不合格 同期 O君、K君、I君 等
 
就職(僅かの在社にも拘らず留守宅に慰問のスルメが来た由)
   王子製紙K.K.入社 (昭和17年3月)
   *辞令―樺太江別工場勤務なるも、第一乙合格、現役入隊の為、
本社(日比谷公園前三信ビル)に勤務、辞令通りだと樺太―ソ連のルート
となったかもしれぬ。それも運命だろうか?
 
 
軍歴 
昭和17年4月 西部第二部隊(歩兵第11連隊)歩兵砲中隊に入隊
                  (生野隊 陸士出身 バリバリの24歳の中隊長で
                   鹿児島の人)
          営門でO君に会う。又も一緒
     (歩兵砲中隊力班の長M伍長在隊中に唯一度点呼時〔熊本行きの前夜〕殴られた
      熊本では対抗ビンタもあったが・・・
     8月?  甲種幹部候補生合格
     10月? 熊本予備士官学校 入校(熊本の練兵場や、阿蘇、日出生台(大分県)
で訓練)日出生台(ひじゅうだい)大分県に有る広大な台地で陸上自衛隊の演習場  
       として知られている。
     18年        見習士官
           山口市西部第4部隊 転属
           陸軍歩兵学校(千葉市)派遣(47m/m速射砲習得)
          (日曜日に無断外泊した為大目玉、同期生より一か月位少尉任官が遅れた)
            陸軍少尉任官
          [歩兵学校在学中日曜日に他の部隊より派遣された見習士官と一緒に無断外泊
           した。原隊に帰って大目玉(見習士官は営内居住の原則)おかげで少尉任官
           が一か月程遅れ、恥ずかしい思いをした。]
           
19年 か号演習参加(宇品~四国)
19年6月16日 B29 北九州八幡空襲(か号演習終了山口帰隊直後)
帰隊した日の夕方大陸より初めてB29が九州八幡地区を空襲した)
ト部隊歩兵砲中隊小隊長命下。対空射撃部隊を指揮(練兵場に壕を掘り、土嚢を築いて)
    
6月17日 山口県秋吉演習場に赴く。次の日、6月18日部隊長の指導の
下に現地戦術中、原隊より帰還命令
 
6月18日  トラックで原隊に帰り、部隊長に申告。前命下取り消し、
独速第18大隊(重岡大尉)第1中隊第1小隊長を命ぜられる
      
◎6月16日~18日の3日間で自分の運命が大きく変わった。
 
6月18日 軍装検査後、直ちに山口の連隊を後に山口駅に向かう。(部隊長よりー『部隊は只今より広島県賀茂郡原村演習場に出張を命ず』(山口駅で乗車してみると窓のヨロイ戸は全部下さ れ駅の周囲は、着剣で警備されておった。)
山口→小郡→大道、四辻辺りで部隊長より将校集合の命下る(一車両に集まる)
部隊長より『部隊は只今よりサイパンに向かって前進する』
汽車は広島を通過して夜を徹して東進し、翌日横須賀田浦港
海軍軍需部(軍需部宿舎は後の横須賀メリヤスとなった)に到着する
到着時既に「サイパン」は米軍機動部隊に包囲されあり。
田浦港で山口高商時代の児玉君と会う。彼は熊本師団の野砲隊の
観測将校であった。後に彼は硫黄島で玉砕した。
暫く前進不能!『原村演習場に引き返すか』と冗談も出る程であった
約10日位の後に東京板橋の陸軍兵器廠に兵器受領に赴く。
部隊(独速第18大隊)の兵器、弾薬、車両、糧秣を受領
小生当時23歳であったが今にして思えば軍の組織の下とは言え
よくあれだけの仕事が出来たものと我ながら感心する。
受領した兵器その他は巡洋艦の甲板上に約一週間かけて積載
シートを掛けて山積みされた。積み込みが終わると兵員を乗せた
巡洋艦を中にして左右を駆逐艦が護衛して闇夜の中を出港した。
夜を徹して左右に大きくZ字運動(ジグザグ)し乍ら一路南下して
行った。軍艦の中での将校(海軍)の食事、其の他陸軍と比較して
余りに贅沢立派なのにビックリ。陸軍の兵食の余りに貧弱なことよ!
艦は小笠原群島父島二見港到着積み込みに一週間かかった甲板上の
兵器其の他積載品が海軍の手で「アッ」と云う間もなく揚陸されたの
には驚いた。海軍は揚陸作業が終わると忽ち将に脱兎の如く、父島
二見港を離れた。敵の潜水艦が島の周囲をウヨウヨしている状況下では
止むを得ぬ行動かもしれないがなにか置き去りにされた感があった。
同時に上陸した他の独速大隊(2ケ大隊)は間もなく硫黄島に向けて
南下したが、我が独速18大隊のみが父島に残留した。
当時47m/mの速射砲は最新鋭の火器であったので父島の守備隊長は
大変期待を掛けて居ったようである。或る晩(日時不詳)敵の夜間
爆撃に会い、揚陸場に集積した弾薬、糧秣が一夜にして灰塵に帰した
島の海岸道路に掘られたトンネル内片側には食糧が天井までも山積
されて居り、この島に限り食糧、水の心配は無いと感じた。
トンネルの両入り口には歩哨が立って居ったが、トンネル内通路の
トラックが米の上を走って居った。内地では国民が食糧に困って居る
のを知って居ったので何ともやり切れない気持ちとなる。
独速第18大隊のみ残り配置についた後、暫くして或る晩激しいスコ-
ルに会う。一人用の蚊帳の中でびしょぬれとなった。雨が止み、やや
まどろんだ頃突如として湾内の艦船機帆船から一斉に対空射撃が始まる
戦地に来て初めて見聞する対空砲火であった。一種の武者震いと共に
撃ち上げる曳光弾の美しいのに一驚した。戦争とはきれいなものだ!と
味方の零戦と敵機が相遇して一瞬の間に火を噴いて落ちて行く戦争の
苛烈な姿が益々身に迫ってくる。曳光弾も夜が明けて来ると南方の激し
い陽光に打ち消されその効力が落ちて行く。敵機を打ち落としたと拍手
した瞬間それは友軍機で簡単に火を噴くので零戦→ゼロライターと呼ば
れたとか!湾内の艦船の乗員(海軍の兵士)の勇敢な戦い振りが目に浮
かんで来る。全裸で(フンドシのみ)鉢巻き姿で対空射撃。内地との
物資補給の為に機帆船が動員され夫々に海軍の兵士が2名位乗船して
居ったようだ。父島在島中度々小規模の空襲を受けたが父島には航空部
隊が無い為敵機が思う存分に行動した。
敵機はアルミ箔のリボン状のものを空中散布して????(解読不能)
制空権の無い悲哀を感じた。空襲の度にガソリンを抜いた小型機を
滑車で引き出した。(父島須崎飛行場)(囮として)囮の飛行機に
急降下して機銃掃射するもガソリン抜きで炎上せず。
(暫くして父島沖で撃沈された友軍《西大佐指揮の重装備部隊
戦車、臼砲、等々》が油まみれで上陸してきた。哀れな姿であった。
その中に山口で教育した召集の老兵か漁師(完全装備で)上陸して
来たのに一驚した。
其の後暫くして独速第18大隊も前進命令が下り、再び大型上陸用舟艇
で南下。硫黄島に到着した。舟の甲板上より島を見ると平坦な台地で
島の南端に彼の有名な「摺鉢山」が望めた。甲板上より台地を見ると
台地の上に飛行機がズラーと列んで居るのにビックリすると同時に父島
で空軍力の無い悲哀を痛感して居ったので友軍機の数が多いだけに大喜
びした。然し、これも上陸して実情を知ってガッカリした。殆どが空襲
でやられた残骸で中にまともなのが混在する程度であった。
硫黄島に上陸して先ず困ったのは飲料水の無いことであった。
先遣部隊が、元村部落其の他の引揚住民の貯水槽を確保して歩哨
さえも立てて居る始末である。後に上陸した部隊ほど水に困った。
時々やって来るスコールの時は天幕を張ってあらゆる容器を動員して
水を貯えた。一升瓶、飯盒、樽、飛行機の補助タンク等々。
スコールの来ない季節はほんとに飲み水に苦労した。
東京より真南1000㎞台湾の台北と丁度同じ緯度。更に足元は地熱の
高い火山島という条件下では、陸地作業の苦しさ米軍との戦よりも
自然との戦斗と云ったほうが正しかろう。
後には上陸部隊の人員が増えたので、海岸(砂浜)に井戸を掘り
くみ上げた水をドラム缶に入れ、トラックで配給した。これが後に
下痢、栄養失調の原因となった。(塩分・硫黄分)下剤を飲むような
ものであった。伊藤一等兵(下関出身、山口時代に教育した兵士)も
烈しい栄養失調となって後々一緒に内地に帰った。海軍の航空隊は
内地から水を運んで居るとか!喫って居る煙草も当時は見ることも
なかったチェリーの缶入、大きなフライパンで目玉焼き等々、一本の
煙草を虫眼鏡の火で廻し喫いをする陸軍の兵とは雲泥の差なり。
独速18大隊は最初小高い丘に大型幕舎を張り設営。自分一人部隊の教育計画作製。
重岡隊全員地熱ヶ原に陣地作業中、空襲により第一小隊の軍曹1名、
兵長1名爆死。全員タコツボに入り居りたるも両名のみ穴より穴へ走り抜け中に
小型の人馬殺傷用でやられた。軍曹の両脚(下腿)が完全骨折で後ろ向き、兵長は鉄兜の
中に上顎以上がついて飛んで居った。爆弾の威力に驚くと共に両名共中国大陸で歴戦の
勇士だった為(…解読不能)共に大陸とのそれと米軍の物資を以てする戦の様相が違っ
ているとの認識不足を痛感した。
設営した幕舎が上空に曝露に居るので下方の谷間に移動。数日後、もとの幕舎の位置は
大型爆弾で爆砕されて居った。一瞬全員命拾いしたり。次第に形勢不利。
敵潜水艦島の周囲を巡航し航砲射撃、我方応射出来ず、射てば砲位置に敵の集中射撃
を受けるので(…解読不能)もくに敵のなすがままなり。敵の爆撃により貯蔵弾薬誘爆
飛散するので設営場所を更に下方のジャングル中に移し、各自が避難するための横穴を
掘る。
小生たまたま巡察将校として行動中、又も新たにジャングル中の設営場所爆撃され
生活用品、測遠機、砲隊鏡等、全破損、帯革(ゴボー剣の)もズタズタに寸断。
ジャングルは清野化され青天井となる。但し、人命損傷なし。
いよいよ敵の上陸気配濃厚陸地作業は夜を徹して行う。摺鉢山下の海岸のバラス(砂利)
コンクリート工事の為無くなる。人海戦術で拾い集めるとさしもの広い海岸の黒い砂利が
無くなった。そこで大型の石を海軍設営隊のクラッシャーで砕いて工事用のバラスを
作って使用した。(トラックの灯を消して夜間月明かりのもと飛行場の爆弾の跡を避け
ながら走る。)47m/m砲の掩体工事を昼夜兼行で行う。全員将校も兵士もセメント
袋を担いで炎天下に懸命に作業した。
空襲は日毎に苛烈さを増し、毎日10時より14時の間はサイパンよりの定期便の
爆撃が続けられた。夜間は一機~二機で照明弾(落下傘のついた)で照らして幕舎
或いは資材の集積場を目標にしての爆弾投下があった。
爆撃も段々慣れて来て弾を避けるコツを体得した。(飛行機の進行方向とは逆に
飛行機の来る方向に向かって走れば安全。真上の飛行機より投下した弾は飛行機の
進行方向と逆に走れば絶対命中しない)
19年10月9日陸地作業中空襲警報により部下を退避させ、自分は下士官2名と共に
掩体の中で空爆の終了を待つ。掩体の一方の口より空を見上げ敵機編隊の動きを見上げ
て居ると、反対側入口の下士官より「小隊長殿こちらからも来ます。」の声に反対側入口
に出た。突然爆発。左顔面と左掌人差し指及び中指を吹き飛ばされた。左掌は手拭で
止血せるも顔は手当出来ず土砂運搬の為の「モッコ」に板を渡し前後を下士官二人で
担いで貰い幕営地に帰った。直ちに横穴(担架がやっと入る幅の)の中でローソクと
懐中電灯の下で手術を受けた。名前を聞き漏らしたが、当時の階級は軍医見習士官で
あったが九州帝大医学部の助手とか云うことであった。あの設備の無い穴の中でよくぞ
手術出来たと今更乍ら感謝の気持ち一杯である。
(人差し指は完全に指のつけ根より取れて居ったが中指は粉砕されては居ったがまだ
手にブラリとついて居った)約一週間の野戦病院生活の後、父島に上陸用舟艇で移送
された。その間顔面一杯の繃帯で口も利けず食事も出来ず(口が開かない)蠅が血の
臭いで集まり、白い繃帯が真っ黒になった。当番兵に扇いで追っ払ってもらった。
父島では谷間の野戦病院に入る。水が豊富で硫黄島のことを思えば将に天地の差なり。
指の股より何時までも膿が出るので切開手術を受け掻破すると中より脱脂綿が出て来た。
暗闇の中での手術で綿が血を吸い肉と同色に思え一緒に縫い込んだものと思う、無理から
ぬところと思う。
父島在島中、神風特攻隊が次々と台湾沖の米艦艇に突入した。内地では提灯行列を
したとかの話も伝わって来た。10月末頃?東京汽船(日本郵船の子会社)の船で夜の
闇に紛れて父島二見港を後にする。舟はジグザグ運動をし乍ら全速力で内地を目指した。
兎に角太陽の上がるまでに米軍機のサイパンよりの行動半径外に脱出する必要があった。
船内では白衣を着ず軍服で通した。白衣を着ると自分を病人にしてしまう。
船内で開かぬ口(歯と歯の間、人差し指が横にやっと入る位)で食事を始めると
繃帯の下からポタポタと唾液が洩れた。(傷の下の唾液の腺が切れて居る為と思う。)
頬に当てたタオルがビシャビシャになり絞る程であった。何とか敵機行動半径外に
脱出して横須賀に帰り着いたが、南の温かい島から北へ上る毎に11月ともなれば
寒さが身に沁みた。
内地上陸後直ちに東京世田谷大蔵の東京第二陸軍病院に入院した。丁度木谷(父芳次郎
の妹の嫁家)と同じ区内なので上京して来た母と訪問した。雨の日であったが垂れ流し
の雨水を見るにつけ、この水が島で戦う人々に送ることが出来たら!もったいない!
の気持ちが先ず走った。
ふかしたサツマ薯を出されたが口が開かぬので、せんべいの様に薄く輪切りにして貰った
が、その何と甘いことよ!将に上等の羊羹のような味であった。
第二陸軍病院の生活は比較的短く、次いで相模原陸軍病院に転送された。(この病院は
現在の国立相模原病院である)この病院は切断患者専門に収容して居り。手、足の無い
傷病兵で一杯であった。傷病兵は義足、義手を着ける訓練、歩行訓練、作業訓練等。
入浴治療、物理療法等々行って居った。
入院しても食事毎の唾液の流失が止まらず、軍医より自分の唾液で孔が開くとのこと
いささかショックであった。
開かぬ口はベッドの上で一生懸命動かして開ける練習をし、一本指(横くわえ)→
(縦)→ 二本 → 三本 → 四本 → 全開となったところでレントゲン検査の
結果、顔(左顔面)傷の中に爆弾の破片が発見され、傷口を切開摘出、掻破す。
又も口が開かなくなった。但し、前の経験から口が開く確信があったので気分は楽で
あったが、開口訓練する毎にバリバリと筋肉の伸びる音が耳に響いた。
20年4月6日東京第二陸軍病院を後にして広島へ
4月7日広島西練兵場仮設の陸軍病院に転送
4月8日退院 西部第二部隊に原隊復帰、部隊長(須藤少佐)に申告する。
部隊長より本来なれば除隊なるも、将校が不足して居るので、休暇後勤務して欲しい
とのこと。約一ヶ月の休暇の後、5月11日より西部第2部隊歩兵砲中隊(井上隊-
中隊長井上中尉)に勤務する。帰隊して見ると小生初年兵入隊時の谷岡准尉が待ち兼ねた
様に「小田少尉よく帰って呉れた。将校は中隊長のみで君の帰るのを待っていた。」との
こと。中隊事務室の業務分担表を見れば
        初年兵教育係  - 小田少尉
        既教育兵教育係 - 小田少尉
        兵器係     - 小田少尉
        被服係     - 小田少尉 等々
全部小生の名前が書いてあるのには驚いた。中隊長以外は見習士官のみの陣容である。
7ヶ月程経過して中隊長教育を受けることになる。
南方のジャングル戦、切込機戦闘を想定してか東練兵場(現在駅裏の光町)射撃濠の中を
泥まみれで匍匐状前進する等の訓練をする。今度は中隊長で出陣することになるらしいと
覚悟!
S.20.8/1 新編成部隊(歩兵砲中隊)の中隊長を命ぜられ保育隊の兵舎を宿舎として編成
に取り掛かる。既教育兵が入隊。
S.20.8.6  未教育兵、召集兵が入隊。その中数名の特業兵(縫兵、製兵)の命下及び申告を
石廊下入口で行い、特業兵が工場に出発するのを見送り、自分は2階南端の中隊
 長室に入り、部隊本部より借用の編成関係の書類の筆写に取り掛かる。
空襲警報発令-暫くして解除(当時唯一機のみ滞空中であった。)
紫色の閃光が眼の前を走ると同時に兵舎が東側に倒壊した。(爆弾の破裂音は
全然聞いてないが)ほんの数歩歩くと地面に着いた。(革の将校長靴を沓いて
居ったので兵舎の残骸の上を足を負傷することなく着地出来た。)
兵舎の前に立つと暗闇でもうもうたる土煙、何も見えず。あたかも硫黄島で
直撃を受けた時の如き感じである。しかし、地表を透かして見ても全然爆弾の
弾痕もなく。てっきり大型爆弾の空中爆破と直感した。
地面に下りるともとの歩兵砲中隊(井上隊)の衛生兵(名前を忘れたが)が
近寄って来て「小田少尉殿、頭から血が出ていますよ」と云って、小生の
持っていた手拭を出させて頭に巻き応急処置をして呉れた(右前頭部と
右後頭部に負傷)(背面に首から上半身にガラスによる傷多数)(血で緑色の
シャツと褌は真黒になった)兵舎を一周すると南側の下士官室のあたりから
「助けて呉れ!」の声。倒壊した建物の中にもぐり込む。下士官が一名兵舎の
大きな梁に両足を挟まれて身動き出来ぬ状況である。小生も既に負傷した手を
再度負傷したので手拭でぐるぐる巻いて応急処置をして居ったのが下士官を
助けるべく工夫したが身体をかがめた姿勢で然も棒の類が見当たらず
何ともすることが出来ず、そのうちに建物に火が付いたのか煙が入って来たので
已む無く離脱した。結果として見殺ししたことになったが、この事が何時までも
脳裏に沁み込んでいる。一生忘れることが出来ないだろう。
市内電車の白島線が泉邸の所でカーブしたところにあった東門から脱出した。(門の内側にある立哨所前のタコツボに軍馬が頭から落ち込み死んで居った)
線路に沿って終点まで行き川土手に上る。常盤橋のたもとにあった醸造試験場横の石段を
川べりの雁木に下りる。雁木の上を通り、常盤橋の下を潜り山陽本線の鉄橋の下をくぐって
川原に避難する。沢山の一般市民も難をのがれて居った。避難場所として指定されておった
のだと思う。朝の食事を川原で全部吐き出した。上空は黒煙に覆われ、上る朝の太陽が
真っ赤な巨大な火の玉のように見えたので、市民から一斉に悲鳴の声が上がった。
ふと見ると常盤橋の上手に上手にかかった鉄橋の枕木が一本づつぶすぶす煙を出して
燃えているのに驚いた。後から考えれば瓦が熔けるほどの高熱が一瞬にして火源となった
ものと思われる。(瓦や墓石の表面が熔ける程の熱線だから、当然か)
(後日見ると柳橋の上流にあった電車橋の水中に打ち込まれた杭も水際から上は完全に
消失して居った)
川原に避難した東練兵場北側東照宮の隣の寺で応急治療を求めたが「貴方は血が止まって
居るから我慢して呉れ」と断られた。一般市民の治療が大変であったが薬も赤チンと油位
だった。
後に牛田神田橋を経て、その晩(8月6日)は倒壊した牛田国民学校で一晩明かした。
(その晩にソ連が日本に宣戦布告したとの報道が伝わった。
一瞬眼の前が黒くなった感じであった)
(食糧が無いので兵隊は民家の畠から野菜を取って食べた)
8月7日夜が明けて鉄炮町の我が家の状況を確かめる為に神田橋を渡って居ると女の方
から声がかかった。「小田さんでしょう」眼鏡を飛ばされて居るので一瞬とまどったが
鉄炮町の隣組であった三谷酒店の奥さんであった。「お父さんは昨夜はこの橋の上で
寝ちゃったんよ!!」と云われ、父が一応生存して居ることを知った。三谷さんと別れ
鉄炮町筋を経て、京橋筋の家の様子を見るために南下する。鉄炮町筋は建物疎開作業で
道幅を拡げてあったが、それでも焼け瓦で歩行が大変であった。
原爆の熱線で全市街は一望の焼け野原となる。所々に焼け残ったコンクリート造りの
建物が残り、市内をさまよう人の目標となった。
8月7日は火災の跡のほてりと全然影の無い灰塵と化した街中は耐え切れない熱さで
あった。
鉄炮町125番地の家は跡片もなく、台所とおぼしき当たりに母の服の残片が焼け残って
居り、流し台にもたれ掛かった遺体と服の柄で母の死亡を確認した。妹の喜美子については
当日(8/6)が日本製鋼所の電休日で(彼女は挺身隊員として工場に通って居った)
たまたま家に居って母と共に家屋の下敷きとなり被爆死した。
母と同じく本当に真面目人間であった。彼女の姿が今でも目に浮かんで来る。
我が家の焼け跡を確認して流川通りを北上すると広島放送局(JOFK)の焼け跡の前に
赤ん坊を胸の下に抱きしめた母親らしい黒焦げの死体があった。体を宙に浮かして子供を
圧迫せぬようにしたままの姿は母性愛そのままの姿であった。(足の先は焼け落ちて
居った)
其の晩(8/7)は温品まで足を延ばして三村の親類になるK家に泊まった。
そこで三村の伯母、本家の伯母、広子さんに会いお互いの元気を喜び合った。
K家には可成りの衣類が疎開してあったが、後に返却を求めたが、中味が相当量抜き取
られて居った。問うても知らぬ存ぜぬで、以来親類付き合いは解消してしまった。当日
着て居った緑色のシャツやズボンは血とホコリで真黒になって居った。
8/8東練兵場にボツボツ隊の兵士が集結を始めた。
殆どが火傷や負傷者でまともな姿は全く無かった。
呉から海軍が食糧の運搬をして呉れたので助かった。
練兵場で天幕もなく青天井で隊員の集結を待つ。
8/?母が八本松に疎開して居った「東」さん(小田政社員であった長浜さんのお世話で
東さんの家に二部屋程に疎開)の家まで歩いてたどり着く。
夕方だった。父と晴子に会う。小生が死んで居るものと思って居ったので幽霊かと思ったと
云い乍ら父と晴子は喜んで呉れた。その夜一泊して、又隊に引き帰した。
8/13部隊をまとめて山口に行くこととなる。
8/14集結負傷兵を連れて焼け落ちた広島駅で臨時列車を待つ。
<広島駅より宇品港の海面がキラキラ輝いて見える一望焼け野原>
昼過ぎ頭上をB29の大編隊が西の方向に飛ぶ(岩国=麻里布)山陽線と岩徳線の分岐点を
爆撃して鉄道輸送を分断する作戦であろう。兵士の食事をなるべく晩にするようにとの
命令が出る。山口進の直行不可能となりたるため汽車は大竹駅止まりとなる。
火傷した兵士やボロボロの服の兵士等兵器らしきものは何もない。正に敗残兵其の儘の姿!
(石炭を運ぶ無蓋車で運ばれる)
大竹より徒歩で左手に岩国の陸燃や燃える岩国の街を見乍ら岩徳線の西岩国へ!
駅近くの専業学校の廊下にゴロ寝の一夜(8/14夜)を明かす。
8/15早朝西岩国仕立ての臨時列車で山口市へ。山口市内に入ると電柱に「本日重大発表
あり」の張り紙があった。恐らく「陛下の激励放送だろう」と思い乍ら、隊員は杖をつき
乍ら山口の連隊に入った。
編成担任部隊(山口連隊-西部第4部隊)の兵舎に収容される。
ラジオ放送により敗戦米軍に降伏したことを知る。
西部第4部隊の部隊本部将校は涙を流し乍ら忙しく軍旗を焼くとか話していたが、
山口連隊の将校が米軍が土佐湾に上陸したとか話す。原爆で身を焼かれて山口までたどり
着いた我々は無感動な表情で、唯放送を聞くのみであった!
数日(4~5日位)後、部下の兵士が「中隊長殿、髪が抜けますが」と隊長室に来る。
「馬鹿なことが!」と云うと、その兵士は自分で髪を引っ張って見せた。成程つまんだ
だけの髪がスーッと抜けた。それでは俺の髪も抜けるのかとつまんで引くと何の痛みも
なく20~30本が一挙に抜けてしまった。見ると抜けた髪は理髪店が刈った髪と同じく
毛根が無く前後共に断ち切られたような髪であった。鏡も見ずに手あたり次第に引き抜く
ので、頭がまだらになったので、思い切って短く刈り込んで貰った。
その内に一人二人と兵士が倒れ山口陸軍病院に収容した。使役兵が居らなくなり、飯上げ
の為に炊事場に行く兵が居らぬ。死んだ兵を焼き場(山口市のは山の上)に担ぐ兵なし、
病院裏の練兵場で焼いた。
遂に小生も山口陸軍病院に入院!治療方法が判明せず、唯ビタミン注射を多用した位で
あった。
入院前に一度広島に帰り、父の其の後の安否を確認したいと軍医に申し出たところ
「お前は汽車の中で死んでしまうぞ‼」と叱らる。
細長い病室の両側に櫛の歯型に列んだ鉄の寝台ワラベッドに病んだ兵士が毎日一人二人と
ベッドと共に外に運ばれて行った。
たまたま入口の個室に収容されて居った自分が室の机の上に自分の名が記載されて
病症日誌(カルテ)を発見。開いて見ると 〇/〇第一報発す と記入してあった。
(三途の川を渡りかけたのだなと悟る)
外傷のある兵が割合助かり、無傷の兵がむしろ次々と死んで行った。(無傷の兵程、原爆後
市内を色々と歩いたのではないかと思う。)
病名の決まらぬ儘、唯ビタミン注射のみ、或いは外傷の治療のみが行われた。
高専学生時代に利用した古本屋の奥さんから「ビタミンC」の注射液と「お薬」の差し入れ
を受ける。(奥さんは広島市東胡町の出身)
後に「カルシューム」注射を打ちだした途端に死亡者が急減したようだ。(ただそれ迄に
重症者は死亡したのかも知らぬが)
20年の秋は激しい台風で山陽本線は寸断された。
宮島対岸の急傾斜地(現在の宮浜温泉)に有った陸軍病院は山津波により全部海に流れ出て
入院中の陸軍の傷病患者が多数死亡した。
S.20年12月復員召集解除となり自宅(南段原)に帰る。
   
 
  

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