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被爆体験について 
川上 サダ(かわかみ さだ) 
性別 女性  被爆時年齢 34歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

島根県代表の救護班(銀バス[木炭車]4台編成)
大社町医師会に1班割り当てあり、医師(宮浜、中島、芦沢、佐古、奥[皆故人])
注:奥医師老齢の為、私に代理に行けとの事、すぐ承知。(あの恐ろしい事とは知らず喜び勇んで参加)

昭和20年8月8日松江集合、出発。木炭車の事故、進行遅く飯石郡赤名峠手前の酒造会社で一泊。

明朝出発。広島に近づくにしたがい道路西側には焼けただれた人の山、川は人と馬と重なり合い、水は赤く(軍人将校の出勤時間)染まり、町に残っているのは押しポンプの金具だけ。

己斐小学校が救護本部、行けとの命令、到着。何とも申しようなき、学校の一、二階は死体でいっぱい。その間に生ある人、(阿鼻叫喚)何とも申しようなき状態。死体をふんだり、またいだりの救護。焼けただれて目の見えない体で看護衣のすそを引っ張り、看護婦さん水をおくれとさけばれ、実にかわいそう、辛かった事、甚だし。校庭は大葬場、臭気甚だし。

庭は周辺の庭師さん宅が宿舎、医師、看護婦一緒に蚊帳の中、しかし呼びに来る人の山。

私も親子三人の所に行き、親に注射しようとしたが■、自分はよいから「この子助けてよ」と大学生の男、しかし三人とも死亡。涙々、なんとも申しようなき有様、まだまだ数々の有様、今も目前から離れません。

実はくわしく数十枚の現状を認め広島に行きたいが私の一念でした。しかし出来得なく実に残念でした。

一生独身で看護婦で一生をとの決心が要りました。

昭和45年、広島鉄道局、経理主査、勤怠(当時はジャワに巡遣)妻子は広島で被爆、夫人死亡。大社に帰御、長男戦死、次男アルコール依存症、恩給が足りない程に。気の毒で世話していましたが、■4年3月31日死亡。

その後、もろもろの事情に苦しみました。私は現在、高血圧、緑内障で通院(入退院を繰り返し)今一度広島に行き、手を合わせたい一念から今はもう叶わず残念でなりません。

まだまだ書きたき事山々、今はこれにて失礼致します。

乱筆おゆるし下さいませ。


*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
  

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