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更科 清子(さらしな きよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1997年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一高等女学校3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

一九四五年八月六日広島に原爆が投下された時、私は満十四才、女学校の三年生でした。

戦局の切迫とともに、学業に専念することは許されなくなり引率の先生方とともに、軍需工場に動員され働いていたのです。

私の通っていた学校は爆心地に近い広島市下中町の広島県立広島第一高等女学校でしたので、もし動員されないでいたら、私も学校で爆死された校長先生、その他職員の方々、生徒達と運命をともにしていたと思います。

その日の朝早く疎開先の安佐郡可部町の家を出て可部線電車、市内電車と乗り継いで南観音町の広島印刷(動員先)に仕事に行きました。

仕事に入る前近くにあった学校(名前は失念)に行き木銃の訓練を受けていました。

その時上空で爆音が聞こえ晴れ上った青空に銀色に輝くB29の機影をはるかに見たのを覚えています。

木銃を指導されていた坪井先生が「もう警戒警報も解除になったのに敵機が見えるのはおかしいな。」と小手をかざして空を振り仰がれた途端に物凄い閃光がピカッときたのです。

気がついた時、閃光と爆風に吹っとばされた私達は運動場のあちこちにうずくまっていました。とっさの事ながら両手で耳と目を押さえ、口を開けて、うつぶせになったのですが、(当時教えられていた)爆風のすさまじさは筆舌につくせません。今までの青天はどこにいったのやら、空はどんよりと灰色に閉ざされ、日中というのに夕暮れ時のような模様になっていました。

今まで練習の時、手に持っていた木銃が血だらけで散乱しており、私達はみるも無残な傷だらけ血だらけの姿になり、お互いに顔面蒼白、歯はガクガク手足もふるえながら校庭の先生のおられる場所に集まりました。

立っていた角度の関係か、顔中焼けて火ぶくれになり、汁がしたたっていたり、また校舎の窓ガラスを受けて、ガラス傷、切り傷で皆血だらけになっていました。「これはアメリカの作った新型爆弾だと思う。」と坪井先生が皆に説明されましたが、新型爆弾の威力がどんなものか、知る由もなく、ただ天地もひっくり返る出来事に遭遇したことの恐しさ、そして、こんな理不尽な目にあったことに対するどこにも持っていきようのない怒り、怨みという気持で身肉(みしし)がフツフツとたぎった事を覚えています。

重傷で歩けない人のため担架を探すことになり、皆で手わけして学校の中を走り回り救護室の壁に立てかけてあった担架を探すことが出来ました。その時突然暗い空から重い雨が降り出しました。私達は重傷の人を担架にのせ頭から肩に黒い雨を受け工場に向かいました。

工場は半壊の状態で残っていましたが、まわりは何かきなくさく、いつ火の手が回ってくるかわからず安全な場所ではありません。割合元気だった私と山田昌子さん(現在アメリカ在住)は様子を調べる事になり、つぶれかけた工場の中で散乱しているぞうりをみつけ、足元をしっかりして出かける事になりました。その時私達は皆ハダシに近い状態で走り回っていたのに気付きました。川べりの土手に上り(天満川)そこで肝の潰れるような状況に出会ったのです。
それは潰滅の町の中から、ようやくの思いで逃れて来られたのでしょう。申し訳ないのですが、お化けのような異様な人々の群れでした。

皆一様に両手をダラリと前にたれ、ボロボロに焦げ残った衣服、ひどい人は丸裸に近いパンツのゴム紐だけの人もありました。

抜刀(ばっとう)した兵隊さんが、それらの人々を先導してるみたいでした。重傷者を乗せた馬車もいました。歩いている人も重傷者とあまり変わらない位ですから、少しでもと馬車に乗せてもらおうと、一人寄りかかるとあと人々もフワッと馬車の荷台にむらがったのです。そうすると兵隊さんが刀を振りかざし、鬼のような顔をして今にも倒れそうな人々を馬車から追い払い、わめきながら力づけていたのでしょうか、群れはノロノロと海の方に向かって進んでいきました。

建具みたいな木が目にささったままの人も見ました。目もあてられない惨状で普通だったら卒倒する光景ですが神経が少し狂っていたのでしょう、それ等の人々と反対に火の手の上っている方向にむいて二人で走り観音橋の向こう側にも前方にも、もう火の手が上っているのを確かめて工場に帰りました。

バケツに入れた乾燥豆をかついで、私達は先生の指示の下、工場を出て反対側の土手に向かってゾロゾロ歩き出しました。

こちら側の橋の方も火の手が上っているので、満潮でいっぱいの太田川放水路の川ばたで潮の引くのを対岸の庚午あたりの方を眺めながら待ちました。しばらくして干潮になり怪我人の担架をかついで私達は川を渡り己斐の山をめざして歩き出しました。

己斐の山の中にある広島印刷の分工場にようやくの思いで着いたのですが、そこには泊まれず、私達はその夜は野宿という事になりました。どこからか炊き出しがあって、おむすびを頂いてとても有難かったです。八月なのに夜の山の中の冷え込みはひどく、緊急袋から非常用の衣類をとり出し肩にかけて冷えにそなえました。その後も警戒警報のラジオのアナウンスの音が山の中にも聞こえたりで、ともかく暗くなる前に山のせせらぎで泥だらけ血だらけの顔や手足を洗う事になり、ついでに身体のあちこちにささったガラスは今のうちにとらないと取れなくなると言われ、それぞれ傷の手当てをすることになりました。

私の右手のひらのガラス片は大きく恐かったのですが、思い切って引き抜きましたが、血がふき出して、しばらくは気分が遠くなり立ち上がれませんでした。
坪井先生が「先生は剣道三段柔道四段(これは実は知らん)だから、今夜は先生がついているから心配しないで皆肩を寄せ合って寝るように」と話されたのですが、真っ暗な山の中ですが真っ赤にもえる広島の町は、すぐ下に見えるのです。

何とも説明のつかない異様な匂いと雑音と喧騒。あの燃える火の中にいるかも知れない家族の事を思い、皆暗澹(あんたん)たる思いでなかなか寝つかれませんでした。

だいぶ経って己斐小学校に収容されている県女の下級生の介護に行っていた先生と学友が帰って来られ、その話を聞いて、広島の街にいた人々の想像以上の悲惨な被災の様子が判り、皆家族が友人がと泣きくずれました。

建物疎開の手伝いに行っていた県女の一、二年生は土橋で被爆。助けられた人達が己斐小学校に収容されていることがわかり、先生と数人の人達が皆から医薬品を集めて介抱に行かれたのです。医薬品といっても赤チンと油だけです。まだ十二、三才の女の子が皆衣服はボロボロに焦げ顔は火傷で異状にふくれ誰か判別つかなかったようです。焦げ残った衣服に名前がついている人は氏名がわかりますが、そうでない子は意識が残っていれば紙切れに名前を残してあげるのが、せいいっぱいだったそうです。

皆一様に「水をください」「お父さん、お母さん」と言っているのに、火傷に水は飲ましてはいけないからと末期の水もあげられなかったのが、身を切られるようにつらかったとの事でした。

翌日の朝、己斐の山を出てそれぞれ帰ることになり、私は可部線方面に帰る方々と一緒に一団となってまだ燃えくすぶっている街に向かって歩き出しました。

どこをどう歩いたのか、今もって思い出せないのですが、多分川べり(太田川放水路)を通ったのだと思いますが、途中見たものは、この世の地獄絵図でした。河原にころがっていた異様にふくれ上がった馬の死骸、黒焦げのワクだけ残った電車の中の黒い骸骨の人達、電車を見たのですから市電の通っているあたりだったのでしょうか。

横川駅に着いたものの可部線電車は不通で、ずっと歩き続け、古市駅から電車に乗る事が出来、家族の待つ可部の町に帰り着く事が出来ました。

でも私の母は、当日帰って来ない娘の身を案じてというより、せめて死体でも連れて帰る覚悟で翌日の朝救援団のトラックに乗せてもらい、広島の街に向かっていたのです。

母が救援の男の人に混じって必死の思いで横川駅近くの国鉄の鉄橋を這って渡っていた頃、私はその下の河原あたりを歩いていて、すれ違ったものと思われます。

広島で被災した者、又はあとから入市した者は、レディエーション(放射線)にやられ髪が抜けたり歯ぐきから血が出て死んでいくと言われ、私も母もしばらくは生きた思いがしませんでしたが、私は御陰様で今日まで元気でおります。母も定年退職するまで広島市役所に勤務する事が出来ました。

後記
私は本年六十六才になるアメリカ西海岸カリフォルニアに住む主婦です。

在米生活四十四年かならずしも平穏な生活だったとは思いませんが、ただ今は健康に恵まれ穏やかな毎日を送っています。

それがこの度、五十二年前の被爆体験を書く事を思い立ち、うすぼけた記憶をたどりたどり書きました。

今日の日本の繁栄は遠く外地に住む私達にとっても誇りがましく、とても嬉しい事でございます。

でもこれも、たくさんの戦争犠牲者の上になり立った平和だという事を幾世代に渡っても、忘れないで欲しいと願いつたないペンを持つことにしました。

あの当時、ひたすら苛酷なまでの窮乏生活に耐え、国のため頑張ってきたのに無念の思いで亡くなられたであろう有縁無縁の人々の鎮魂(ちんこん)のため、原爆体験記を書く事は生き残った被爆者の義務であると思い書き綴りました。
                                     合 掌
一九九七年九月
                                   更科 清子
 
 
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。 

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