皆様こんにちは、私の名前は廣谷洲枝。今日この場所に来られた事、感謝致します。
当時私は十四才、父四十才、母三十五才、妹七才です。家で生活していたのは、四人です。祖母六十八才は、父の妹の家に疎開していました。二人の妹四年生・二年生は、学童集団疎開に行きました。バスに乗って行く時、見送りに行きました。母も私もみんな泣いた。妹達も他の生徒も泣きながらバスに乗った。これが両親との一生の別れになった生徒も数多いのです。
1945年 8月6日、午前8時15分、原爆投下。
今日も朝から暑い夏の日ざしが照りつける。母が「今日もお国の為に働いて来なさい」と言って私を送り出す。毎朝の持ち物の点検をする。救急袋の中の物、布をつぎ合わせた、包帯3本、タオル、乾パン、茶筒に入れた炒り米非常食、この時代の最高の食料です。芋で作ったアメ三ヶが入っている。防空頭巾を肩からさげる。弁当、麦大豆の入ったご飯、漬物、梅干、牛蒡(ごぼう)の煮物二切れです。満員の電車に乗り広島南観音の印刷工場に向かったのです。
今日はサイレンも鳴らず不気味に静かな朝だと思った。皆も楽しくはしゃいでいた。でも雲一つない、特に暑い日でした。
午前八時、いつものように朝礼が始まった。あっ、アメリカの飛行機がサイレンも鳴らず飛んで来る、空を見あげる、その瞬間、真赤にも見える、また白にも見えるような光線が横切った。何か先生の声がする。その後どうなったか覚えていない。どのくらい時間が過ぎたか解らない。目が覚めて見ると、爆風で50mくらい先のトイレのセメントの上に転がっていた。友達もいた。友達を早く早くと言って起こす。早く立ち上がらなければと焦る、腰を強く打った様子だ。立つ事が出来なかった。
やっと力を出して、木切れを友達が拾って来てくれたのを杖にして立つ。早く脱出しないと火が廻る、「早くしろ」と先生の叫び声がする。工場は、潰(つぶ)れていた。ほとんどの生徒が泣いた。「誰の荷物でも良いから持ち出して集合せよ」と命令がある。建物の下敷きに多くの人が埋まっている。工場の人血で染まっている。怪我人を背負って走る人、倒れている人、血を流している人。私は何が何やら解らず必死で歩いて、集合場所に行った。死亡した人は同級生にはいなかったが、一学年下の生徒ほとんど死亡、三百人中七名が生き残った。遠くを見ると二階建ての家の中に人が閉じ込められている。その二階に子供を抱えた人が泣いている。今思うあの人は、どうやって逃げただろう?
あちらこちらですでに火の手があがる。友達の頭巾と弁当を持って集合する。
黒い雨が降り出す。白い制服の上にボタボタと落ちる。だれかが叫ぶ「ガソリンを空から撒いている」と。防空壕にみんな列を作って入る。
壕の片隅にお乳を欲しがって泣いている赤ちゃんがいる。見るとお母さんの衣服は破れ胸が赤く腫れ皮膚が垂れ下がっていた。たぶん授乳中の被爆だったのであろう。母親は放心状態だった。かわいそうと思ったがただ見ているだけで涙も出なかった。己斐へ向かう橋が落ちているので川を渡る。すこしでも引き潮を選んで渡る事になった。みんなで黒い雨で汚れた制服を川の水で洗ったが黒い雨はとれなかった。濡れたまま着て歩いた。落ちこぼれないようにと手と手を繋(つな)いで川を渡った。川に死体が浮かんで流れて来る。必死で何も考えず渡った。
渡り切った所で地面に顔をつけてみんな大声で泣いた。泣いているひまなどない、すぐにみんな歩き出した。黙って…歩いて逃げて逃げ惑う。草むらの中に血だらけの怪我をした人、死んだ人の中を歩く。うめき声を聞きながら山の中に逃げる。高須から己斐まで辿(たど)りつく、先生達と出会った。ここで初めて下級生は全部死亡を聞かされた。筵(むしろ)を被せられ死んだ生徒を見た。これから八木の修練道場に行くと言われた。己斐から八木の山まで歩く。早く家に帰りたい。一人だけ家に帰りたいと申し出たが許されなかった。私の思いつきでどこかで列を離れる事を考えていた。それには一番最後尾について歩いた。チャンスを伺っていた時、己斐の橋の角まで来た時一人列を放れた。たった一人になった。でも帰りたい一心で歩き始めました。橋が落ちているので鉄橋の橋桁を一つずつ渡ることにした。下を見ると目が回るので下を見ないで渡り切った。その時は足も腰もふらふらになった。気がついて見ると靴の底が口を開いていた。包帯を取り出し足と靴を強く結んだ。その時はじめて頭と顔を触ってみた。頭の髪は固く髪の毛の中に小さいガラスの粉のような物がザラザラとしていて触ると指先から血が出る。左眼がチカチカ痛む、光線が入ったのかもしれない。一刻も早く帰りたい。夕方までに帰りたい。全市内の道が、死人怪我人で埋まって道という道が全部通れない。死人怪我人を跨(また)いで通る。橋の上に被爆した馬が横倒っている所を通るのが恐かったが仕方がない。韓国の人が鉄橋に跨がって気が狂ったように子供の名前を呼び叫んでいる。
白島町のガードに差し掛かった所で一人の兵隊さんに出会った。どちらに行かれますかと私の方から聞いた。宇品の部隊に帰る途中との事。「千田町に一緒に連れて行ってください」と頼む。女学生の身で無理だと言われたが私は黙ってついて歩き始める。どこをどう歩いたか横川、白島に向かう橋に差し掛かった時、火傷をした馬がたくさん横倒っているその中を潜り抜けるその時、目の前の馬が苦し紛(まぎ)れに急に暴れた。私は夢中で通った。足が震える。両親はどうしているだろうばかりを考える。暗くなるまでに帰りたい。だんだん淋しくなってきた。泣くに泣けずただ歩く。行く道がほとんど火の海で塞がれている。また鉄橋を渡って遠回りをする。幼子が母親に抱かれ黒焦げになって転がっている。髪を振り乱し皮膚は垂れさがった人の列が黙って通り過ぎて行く。初めて口を開き「どこの学校ですか。」「私は第一県女です。」「他の生徒はどうしましたか。」「八木の修練道場へ行きましたが私一人で逃げて来ました。」「それではついて来なさい。」「お願いします。」再び黙って歩きました。
現在の広島城(昔西練兵場)の所まで来ると石に腰を降ろし「貴女は、袋の中に弁当を持っていたら食べなさい。」と言われ「一緒に分けて食べましょう。」と言うが「私は煙草の残りを吸います。」煙草の残りとは一本の1/3位の長さの物です。弁当箱の蓋は熱くなっていた。音がすると今まで死んでいると思っていた人が起き上がってくる。焼け焦げた茶色の顔、衣服は原型を留めぬ姿で水を求めてゆっくりと歩いて来る。怖さでいっぱい。喉を通らない。すぐその場を立ち去った。
紙屋町から電車の線路伝いに歩く。宇品方面へだんだん我が家に近づいてくる。でも死人と怪我人で思うように歩けない。また靴が破れ足の先が出る。放心状態で歩いている。時折サイレンが鳴り響く。もう逃げられない。ここに居ようと思った。やっと今紙屋町あたりを歩いている事を実感する。広島市全体が焼け爛れ、目標が何一つ無い。電車の線路伝いに黙々と歩き続けました。日はとっぷり暮れ、家屋が焼ける炎を明かりにして歩く。家の近くまできたが、路地が家が焼け炭になって道が熱くて歩けないので遠回りして町内で決めてある集合場所、大学のグランドに行った。ここで兵隊さんと別れた。多くの人々が口も開かず座っていた。暗闇の中で土の上に横たわる。暗闇の向こうで火の手、焼けていくのが見える。炎が近くに来なければ良いがと一晩中心配した。何度もサイレンが鳴る。結飯(むすび)が配られる。玉葱の蒸し焼きになった物、腐っている。水筒の水を飲んだ。一晩中目が覚めていた。
夜が明け、両親と妹を探しに家の焼け跡に行って見る。跡形もなく焼けている。家の庭に防空壕が二個所作ってあって一つの壕の前に父の浴衣の袖が血で染まって落ちていた。袖だけが千切れている。瞬間父は死んだと直感しました。途方に暮れ、これからどこに行けば良いのかとたたずんでいる所へ隣家のお姉さんが惨事を聞いて帰って来たと言っておられ二人で一緒に町内の連絡場所に行った所、町内のおじさんがメガホンを持って叫んでいる。貴女の両親は日赤病院へ運ばれたと聞き、すぐに病院へ行く。助かっていてくれ。
一歩足を踏み入れる。異臭が鼻をつく。臭いなんかどうでも良い。足の踏み場も無い。一階から四階まで必死で探す。筵(むしろ)の上に寝かされている人が自分の家族ではないかと思って振り向く。立って歩いている人は少ない。居なかった。
希望を失って歩く気力が無くなって、外に出て道端に座り遠くを見ていた。目の前を壊れたリヤカーに子供と老人を乗せた人が通り過ぎ、髪はバラバラ、服は千切れている人が通る。黙って通り過ぎる。光線で左目が傷ついた事を知る。チクチク痛む。県病院がある事を思い出し勇気を出し立ち上がり歩き始める。一足病院内に入り目に飛び込んだのが水を求めて蛇口の前で力尽き息絶え倒れている人。うじ虫が湧き蝿が集まっている。呆然と立ち竦んでいると突如として私の名前を呼ぶ声を後ろで聞いた。振り向くと母と妹が立っていた。夢かと思った。抱き合って喜び泣いた。嬉しい温もり、今でも忘れる事が出来ません。妹はとても可愛い思いがした。父は全身に硝子の破片が突き刺さり、肩の方は肉が剥き出している。熱も出ていた。天井のコンクリートが下がり今にも落ちそう。
私が父の看病を交替している間に防空壕の中の食料品を取りに行きましたが、焼け残った物は取られていたと言っていた。口に入れる物と言えば水です。暑くなれば水、空腹になれば水でした。夜は電灯も無く闇の世界、夜が明けるのが待ち遠しい。朝になって洗面に行くと毎朝何人もの人が折り重なって死んでいる。蛆が湧く。夜中になると体中真っ白に薬を塗った人が痛みでうめき声でたまらない。夜は外で横になったが何度もサイレンが鳴り響く。四晩病院で夜を過ごした。その間この世の出来事でない出来事を数々見、体験した。死体をどんどんトラックに乗せる中には虫の息の人も何人か居た。私は何も考える事が出来ず見ていた。死体を焼く所も見ました。明朝死体を焼いた場所に行って見ました。何か小さな生物が動いている。近づいて手に取って見た。蟻だった。茶色で色褪せた小さな蟻、小さな命を手の平にのせた。動いている「良く生きていたネ」と話しかけた。暫く見てハッと我に返った。私も生きれる蟻のように、小さな蟻に大きな力と勇気をもらった。この四日間生きる為に水の中も通った。また燃える火の海の中も潜りもした。何をしても頑張れると心に誓ったのです。
五日目に父の妹が軽三輪トラックで迎えに来てくれた。皆手を打って喜んで泣いた。
皆乗れないので父だけ乗せ私達は広島から海田駅まで歩いた。呉の叔母の家に着いて初めて生きている命の尊さを実感するのです。助けていただいた命に感謝致しました。
何十年も草木が生えないと言われていた広島は、今すっかり復興をなしています。この苦しい体験があったおかげで今の生活が幸せと思える人間に生まれ変わりました。被爆の時、左目に光線が入ったので今ではほとんど視力が出ないので右目だけで生活をしています。とても幸せです。最近医師から手術を奨められています。五十六年が経ってようやく体験談を話す気持ちになりました。
今日は今まで苦しかった事、辛かった事、哀しい出来事を聞いてくださって皆さん本当に有難うございました。皆様から大きな力を頂き感謝致します。
勇気を持って強く生きていきます。
また元気でお会い出来る事を望んでいます。
有難うございました。
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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