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慟哭 この思い風化させまじ 
酒井 乙女(さかい おとめ) 
性別 女性  被爆時年齢 32歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1980年 
被爆場所  
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

見たこともない人々がぞろぞろ西へ西へと続く。黙々と続く。どの人を見ても皆、頭は灰色、顔は泥だらけ。一糸まとわぬ人が夢遊病者のようにとぼとぼと、中にはそれでも途中の畑から拾ってきたのでもあろうか、わずかに腰にこもを当てている人もいる。衣服を身につけている人は一様にその端々が焼け焦げているのであるが、広島で何事が起きたのか、想像さえ出来ない。帽子の形を残してその首筋まで焼けただれ、膨れ上がった男の人、ブルーマーのゴムひもの跡だけ残して全裸、全身やけどの女の人、その中に学徒の姿が一人もいないというのはどうしたことだろう。胸が早鐘のように鳴る。

須賀の石井さんが一点を凝視したままで通るのに会った。はじめての知った顔にすがりつく思いで声をかけ、広島の様子をきいた。物憂そうな流し目で私を見て、「私は雑魚場にいたの、学生は知らない」と言って去った。

夏の陽がようやく傾きかけた上平良を後に廿日市へ帰ったときは、もうすっかり夕やみが迫っていた。子供二人をふろに入れてくれた姑が浴衣を着て門の外で待っていた。詳しい報告も出来ず、くずれるように縁側へ座り込んだところへ、「酒井君が帰った」と港町の岩本君が不自由な足を引きずって駆けつけてくれた。教えられた場所へ義兄と夢中でたどりついたときには、地面にじかに置かれた担架の中へ仰向けに寝かされたまま、

「お母ちゃーん、お母ちゃーん」とかぼそいながらもありったけの声をしぼって叫んでいた。
「春坊!春坊だね、あんた春坊ね!」
念をおさねばわからないような変わりようである。両眼は全くはれあがってつぶったまま、顔はどす黒く灰にまみれ、手足の皮はかんなくずのようにめくれて、「よく帰れたね、よく帰ってくれたね」と抱きしめたときの体の冷たさ、そのとき、もう血の流れは止まっていたのかも知れない。

彼がぼつぼつと語ることはこうである。
―僕らは新大橋のたもとで、建物疎開の手伝いをしていた。朝行くとすぐ空襲警報が鳴ったので一時待避したが、じきに解除になって朝の点呼が始まった。だから手袋も防空ずきんも着用してはいなかった。その時、空からフワリフワリと落下傘のようなものが落ちてくるので、皆上を向いて眺めていたところへ、ものすごい音がして瞬間、まわりが真っ暗になり何も見えなかった。すると僕の後の方で蓑浦先生が、
「血路は川だ、川に飛び込め!」と号令されたので、僕はまわりの友達と一緒に岸の上から飛び込んだ。その時振り返ったら、倉庫のれんが塀が倒れ、山本先生が生徒と一緒に下敷きになったのを見た。蓑浦先生は皆をかき寄せるように手を振って
「皆んな、軍歌をうたえ、大きい声で、元気に軍歌をうたうんだ!」と叫んだ。
その後はどうなったのかなあ?だんだんと水が満ちてくるので、僕は岸へはい上がった。―

新大橋のたもとで川からはい上がって、我が家に向かって西へ西へと歩み続け、落ちた橋に突き当たると川上へ川下へと橋を求め、己斐へたどりついて気を失い、倒れた。
ふと正気に戻った時、頭の上をヒタヒタと行き交う地下足袋が見えたので、思わず、
「僕を連れて帰って下さい。廿日市の酒井春作です」と叫んだ。春作は父の名であるが、父の名を言えばわかりやすいと思ったにちがいない。地下足袋の主は、春作をよく知っている、同じ町の警防分団長の渡田市助さんだった。乗せられたトラックは市内から各地へ被災者を運ぶ車で、夜間は空襲警報が発令されて自動車は動かせないことになっていたので、最後の便であったのである。神の助けとはこれを言うのだろう。この便にはぐれたら、翌朝広島西端の町の土の上で屍となっていたにちがいない。

「起こしてくれ」、「寝かせてくれ」と言う病人は臨終近いと聞かされていたが、繰り返し、繰り返し軍歌を歌っていた春之は、突然、不吉な言葉を言い始めた。
「お母ちゃん、起こして」
「寝ていたほうが楽じゃない?」
「いいの、起こして」
私は仕方なくそっと背へ手を入れて、静かに起こしたが、
「やっぱり寝かせて」と言う。早鐘のように胸が鳴った。
「やっぱり起こして」
左の胸にぬれ手拭いを当て、また静かに起こしたとたん、上半身が二、三度揺れて前につんのめった。
「春坊、春坊!」と絶叫したが、円満な笑顔にもう生色がなかった。

四十九日忌あたりの頃だったろうか、広島近郊のある寺で校葬が営まれた。
参加した人達は、皆それぞれ知らない者同士でも話題は共通していて、お経を聞くどころではなく、「何か最後に話したか」、「何日頃亡くなったか」と向かい合ってさめざめと泣く。
最後に代表者らしい人が、
「新大橋のたもとにあった、明らかに広島二中の生徒と確認出来る七名の遺骨を百に分骨しましたから、ご希望の方はどうぞ」と言われるのに、あるいは自分の子供がその中にいたかもしれぬというかすかなよりどころとして、小さい骨つぼを受付でもらい受ける人さえ多かった。
家に帰って来てくれて、一晩中看護もしてやり、お骨も全部拾って墓へ納めることの出来た私は何という幸せ者かと、心から感謝せずにはいられなかった。

(この被爆体験記は、一部を抜粋しています。)
出典 『慟哭』 酒井乙女 昭和55年(1980年)

 

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