八月六日朝、広島県大竹市三菱化成工場に広島工専学生として勤労動員中に、閃光と爆風でキノコ雲を眺める。以後広島からの被爆者が惨状を伝える。交通手段なく八月七日未明会社の船で広島に帰り、母親を探す。住所の富士見町(爆心より一キロメートル)はすでに焼失。死体累積。各負傷者収容所をしらみつぶしに探すが五日間行方不明。やっと宇品に重傷者として収容中との連絡をうける。この間毎日爆心地を歩き廻った。宇品から坂に移送された母を連れて山口県和木村(現和木町)の親戚に避難。
この間広島市の広島二中、広島工専の同級生多数死亡。さらに二次放射能障害で健康であった者も相次ぎ死亡。母も重傷回復後も白血球数は二〇〇〇以下(正常七〇〇〇)となり不安な半年~一年を過ごし、やっと回復。広島まで通学しながら、アルバイトをしながら介護をつづけた。
(詳細は本年(平成七年)七月二五日の朝日紙面参照)
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