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平和を願って 
佐原 美里(さはら みさと) 
性別 女性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 広島市横川町一丁目[現:広島市西区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 家政婦 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●アメリカからの帰国
私は、大正十五年五月にアメリカで生まれ、アメリカで育ちました。父の山下護、母の春子、長女の私と二つ違いの妹・和子、七つ違いの妹・松子の五人家族なのですが、和子は、佐伯郡河内村(現在の広島市佐伯区)にある父の実家で祖父母とともに暮らしていました。日本に一時帰国したとき、祖父母に「寂しくなるから、この子は置いていってくれ」と言われ、日本に残ることになったのです。祖父母は、私も日本に置いていくように言ったのですが、母が強く反対しアメリカに連れて帰ったそうです。

アメリカで四人が暮らしていましたが、母が亡くなり、昭和九年二月に父と私そして松子の三人で河内村に帰り、父の実家で暮らすようになりました。そのとき私は七歳で、小学校一年生だったのですが、言葉が分からないので最初から始める方がよいだろうと言うことになり、その年の四月、河内尋常高等小学校に一年生として入学しました。ですから、河内国民学校(昭和十六年に名称変更)の高等科を卒業したのは十五歳のときです。

●被爆前
当時私は十九歳で、横川町一丁目にある県職員のお宅(爆心地から約一・三キロメートル)でお手伝いをしていました。そのお宅は、ご夫婦と五人の子どもの七人家族で、県庁にお勤めの近所の人に紹介され、住み込みで働いていました。国民学校の高等科を卒業した後、一年くらいは農業の手伝いなどをしていましたが、当時は、県の関係で働いていると勤労動員もなかったこともあり、そこで働くことにしたのです。その家は、横川橋のすぐそばの川沿いに三軒並んでいた県公舎の一軒で、当時としては大変大きな木造二階建ての家でした。

その家の奥様は、大変親切で優しい人で、母親を亡くしていた私にとって、母親のような人でした。私にしもやけができたときには、一人で掃除をされたこともありました。当時は、使用人に対して、このような態度をとることはありませんでしたので、私は、家族の一員のような気持ちでいました。

●倒壊した家からの脱出
八月六日、その日私は、暑いので戸を開け放ち一階の茶の間で朝食の後片付けをしていました。突然の激しい閃光に目がくらみ、私は意識を失いました。ちょうど爆心地の方向を向いていたときだったので、その光は目を突き刺すようで、入ったか入らないかのうちに何も分からなくなり、ドンという爆音も爆風も記憶にありません。どのくらい時間が過ぎたのか分かりませんが、気が付いたときには、家は崩れ、私は大きな柱に頭を挟まれ身動きがとれませんでした。後で聞くと、この家は最後まで建っていたと言いますのでかなり長い時間が過ぎていたのかもしれません。家族は皆、家の下敷きになっていたのでしょう、ご主人の「だれか助けに来るから待っていなさい」「みっちゃん待っていなさい、大丈夫だから」といった声が聞こえてきましたが、その声もだんだん小さくなり、そのうち家が燃えだしました。家の燃えるものすごい音の中、頭の皮なんか取れてもよいと必死にもがき、やっと動けるようになりました。親に会いたい一心でした。前を見ると、その家の九歳の女の子、育代ちゃんが壁にはまっている竹格子の間を通って外に向かって逃げていました。当時の家ですから壁土の中には竹で作った格子が埋められており、私にはその竹格子をきれいに折りながら女の子が歩いているように見えました。どうやって折っているのか不思議に思いましたが、そのときは、火が迫り必死でしたので、その後を追うようにして外に出ました。女の子の後についていかなかったら、周りを柱や壁に遮られていたので、逃げることができなかったかもしれません。

やっとの思いで外に出ましたが、外に出て驚きました。そこには、誰一人いないのです。道路の両側の家はすべて押し潰されたように崩れており、火も迫ってきました。私は我を忘れて、道路を西へ、山の方に向かって走りました。道路の両側の家は燃えており、道路も熱くなっていましたが、割りと広い道路でしたから、真ん中を通れば何とか進むことができました。それでもはだしですからとても熱かったことを覚えています。逃げて行く途中、外で被爆したのでしょう。やけどをした皮膚は垂れ下がり、目が飛び出ている女の人が道に座り込み「お姉ちゃん、助けて」と私に助けを求めました。しかし、一人ではどうすることもできず、ただ「ごめんね」と言ってそこを去ることしかできませんでした。この女の人のことが今でも思い出されます。

そのまましばらく走って、打越町に入った辺りだと思いますが、私と同様に逃げ惑う近所の人たちと一緒になり、ホッとして、自分の状態を確かめるだけのゆとりができました。見ると、衣服は引き裂かれ、頭から止めどなく流れ落ちる血で真っ赤に染まっています。この頃でしょうか、突然真っ黒な雨が夕立のように降りだしました。降っている時間はそんなに長くなかったように思いますが、バケツでザーと注いだような大粒の雨が体を打ち、頭の傷に染みて気が遠くなりそうでした。そんなとき、近所に住んでいた十歳くらいの男の子が、傘のかわりにということでしょうか、大きな丸い葉っぱを私の頭に乗せてくれました。多分ハスかフキの葉っぱだったと思いますが、とても助かりました。

●民家に避難して
火を避けながら夢中で逃げて、当時打越町にあった安芸高等女学校の近くまで来たとき、爆風に吹き飛ばされたのでしょうか、壁が無くなり、柱と屋根だけが残っている大きな民家があったので、みんなでそこに避難しました。やけどやけがをした人たちが「痛いよう」「水をください」などと叫んでいましたが、「水を飲ませたら死ぬ」と言われていたので水をあげることもできず、周りの人はその家の押し入れから服などを取り出し、やけどやけがをした人に掛けてあげていました。

そこに、今の仕事を紹介してくださった近所の方が、私を捜しに来られました。私は知らなかったのですが、この近くにお勤めで、私のことを心配してあちこちを捜し、この民家に多くの人が避難していたので様子を見に来たそうです。お会いしたときは、ただもう嬉しいという気持ちでいっぱいでしたが、この方が父に連絡してくれたので翌日父に迎えに来てもらうことができました。

また、その民家では避難するときに私を外に導いてくれた育代ちゃんと思いがけず再会することができました。育代ちゃんは背中にやけどを負っていたので、私もその家の押し入れからワイシャツを取り出しやけどをした所に掛けてあげました。

夕方になり、私はご家族のことが心配なので、横川町一丁目の公舎に向かいました。横川町に入った辺りからは周りの家が燃え、道路も熱くなっているので、はだしの私は進むことができませんでした。仕方がないので途中から川に入り進んで行きました。川の深さは五十センチメートルぐらいで、膝の上辺りまで水につかりました。周りの様子はよく覚えてはいませんが、川の水が真っ黒だったのは強く印象に残っています。何とか公舎の所まで行くことができましたが、熱くて護岸に上がることはできず、仕方なくまた黒い川の中を通って元の民家に戻りました。ふと気づくと足の親指の先が爪も一緒にきれいに切れて無くなっていました。緊張していたからでしょうか、痛みはほとんど感じませんでした。何年かして元に戻りましたので骨までは傷ついていなかったのでしょう。民家で横になっていましたが、だんだんと顔は何も見えなくなるくらい腫れあがり、体中打撲で紫になり、動くこともできなくなりました。重傷といっても普通の状態ではなく、とても言い表すことはできません。

そして、私たちはその民家で一夜を過ごしました。

●河内村への帰途
翌朝目を覚まし、山の方を見ながらこの山を越えたら河内村かもしれない、この山を越えて帰ろうとも思いましたが、山はあちこちが燃え、越えられる状況ではありませんでした。そのうち、午前中だったと思いますが、近所の人から連絡を受けた父と妹の和子が大八車で私を迎えに来てくれました。父は私をかわいがってくれていたので、知らせを受けてすぐに迎えに来ていたのだと思います。

父と妹に会った私ですが、なぜか感動もなく痛みに耐えながら大八車に乗せられました。しかし、私は育代ちゃんと一緒でしたので、この子を置いていくわけにはいきません。横川駅前の広島市信用組合本部(旧三篠信用組合本部)の建物に設置された救護所にみんなで移動するときも、大八車に乗せられたまま一緒に移動しました。そこから三次方面にある救護所に向かうトラックに育代ちゃんが乗り、出発するのを見届けた私は、やっと安心でき、それから河内村の自宅に向かいました。

この救護所にいるときのことですが、たくさんの死体が運ばれている様子が、とても残酷な光景として強く記憶に刻まれています。どの死体も真っ黒に焦げ、死後硬直によるものなのか手も足もちょうど前に投げ出すように上の方に向けられていました。横になっていた私からもよく見えたので、少し高くなった線路伝いに運ばれていたのだと思います。

自宅に向かう間はずっと眠っていたので、帰った経路も途中の様子も全く分かりません。ただ、一度目が覚めたときに、道端に大きなかめがあり、そのそばに乳飲み子を抱いた女の人が座っていました。その人は私たちに助けを求めたのですが、どうしてあげることもできなかったことを覚えています。そして、夕方だったと思いますがやっと自宅に着き、被爆後初めての食事をとりました。それまでは、食事もなく、治療を受けることもなかったように思います。

●自宅での療養生活
河内村に帰り、自宅での長い療養生活が始まりました。自宅に帰った後もしばらくは動くことができず、また治療を受けることもなく、ただ寝ているだけでした。頭の傷口から入ったガラス片のせいで、髪をとかすこともできないくらいこめかみの辺りが痛くなったときでさえ、治療を受けることはありませんでした。治療を受けようにも、村のお医者さんはたった一人だけで、そこには、被爆しやけどを負った患者が道にあふれ出るほど多く詰め掛けており、治療を受けることができなかったからです。たくさんの被爆者が苦しみながら治療を待つ様子は、まるで地獄絵を見るようでした。

食事は妹が運んでくれ、自分で食べることはできましたが、食欲はあまりなかったように思います。一週間くらい過ぎた頃でしょうか、ある日足の甲が異常に腫れあがったので、そのときはお医者さんに診てもらいました。はだしで逃げ回るうちに入ったガラス片をピンセットで探りながら取り出したのですが、麻酔もありませんでした。お医者さんに診てもらうと言っても、そこは自宅から一キロメートル以上離れているので簡単ではありません。隣にある母の実家にいるおばが、私を手押しの一輪車に乗せて、その道のりを何度も往復してくれたのです。もう亡くなりましたが、おばには今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

それからしばらくして、髪の毛が抜け始め、顔に斑点が出たりしたので不安になったこともありましたが、徐々に体は回復していきました。

●横川町の公舎を訪ねて
しばらく療養して体も動くようになったので、勤めていたお宅のご家族や近所の方の安否を尋ねるため、父と一緒に横川町の焼け跡に行きました。「できればご家族の遺骨を見付け、福岡にいらっしゃるご遺族の方に届けたい」と思いながら焼け跡を探しました。ご夫婦のものと思われる頭の骨が二つありましたので大切に持ち帰りましたが、子どもたちの骨は見つかりませんでした。そして、近所の人に話を聞くと、黒い雨が降る中で私に傘のかわりにと葉っぱをくれたあの男の子も、そのお母さんもその後亡くなられたということでした。

遺骨を私の家の仏壇に納めて、福岡にいるご主人の弟さんに連絡したところ、遺骨が見つかったことを大変喜び、すぐに遺骨を引き取りに来られました。私もご夫婦を安住の地にお返しすることができ安心しました。そして、そのとき弟さんから「救護所に避難していた育代ちゃんを迎えに行き、今は福岡で一緒に暮らしている」と聞いて大変嬉しく思いました。でも育代ちゃんは、原爆により一瞬のうちに独りぼっちになってしまったのです。しばらくは連絡を取り合っていたのですが「原爆のことが思い出されてつらいだろう」と思い、さみしいのですが今ではお互いに連絡するのをやめています。
 
●健康への不安
被爆後、元気になるまではかなりの時間を要しました。なんとなく動けるようになり、紫斑病も出ず、髪の毛も抜けなくなった頃「私は生きているのだ」と思えるようになりました。そして、その頃から家事や畑仕事の手伝いをするようになりました。

その後の健康状態については、ひどい貧血になって起きられなくなったことがあるので、貧血への不安があります。父と妹も貧血がひどいので、私を迎えに来て被爆したせいかと心配もしました。

昭和二十五年に結婚しましたが、被爆したことは特に言っていませんし、主人も気にしていませんでした。被爆者健康手帳も早い時期に取得しました。しかし、娘が結婚するときにはやはり心配で「離婚されるといけないから、母親の私が被爆していることは絶対に言わないように」と言いました。

子どもは、昭和三十年に娘が、昭和三十四年に息子が生まれました。最初の子どもを出産するときは、やはり原爆の影響があるのではないかと心配でした。息子を出産するときもそうした不安はありました。

●今の思い
被爆のことは思い出すのがつらいし、怖いから、これまで、八月六日の平和記念式典に出ることも、体験を話すこともしませんでした。孫たちと平和記念資料館に行ったときに、おばあちゃんも被爆していると言おうかと思いましたが黙っていました。これまでは、聞かれなかったのであえて言わなかったのですが、一方では、誰かに聞いてもらいたい、誰かに伝えなければという思いもありました。
 
この度、娘に勧められたこともあり、「私の体験が原爆の実情を知ってもらうことになり、平和の実現に役に立つのであれば」と思って体験記を書き残すことにしました。この目に映った被爆の惨状や体験は、被爆者でなければ分かりません。大変つらい思いをし、忘れようとしても、夜、夢に出てきます。当時のことを思い出す度に、なぜ戦争をしないで穏やかに話合いができないのかと思います。戦争は二度としてはいけません。そうした事実を大切な孫たちにも知ってもらいたいと思います。

 

 

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