国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
三本木 郁(さんぼんぎ いく) 
性別 女性  被爆時年齢 20歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属 日本赤十字社 北海道支部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二〇年五月に日本赤十字社北海道支部より戦時救護班員としての召集令状を受け、広島大野陸軍病院(旧広島陸軍病院大野分院)に派遣され勤務中、八月六日八時一五分に閃光と轟音、衝撃をうけたが、大して被害もなかった。

午後から、全身火傷や大怪我をした重症者が次々とトラックで運び込まれ、病院の廊下にまで一ぱいになるほど収容し、軍医の指示のもとに夜になるまで夢中で処置に当った。

夜半すぎに起され、トラックの荷台につめこまれて、病院から少し離れた大野国民学校へ行き、かなり大きな学校にトラックや石炭用貨車で運びこまれる被爆者の処置に一睡もせず当った。重症者は次々と息を引きとり、空いたところへ新らたに負傷者を入れるといった状態で、翌七日には一〇〇〇名近い負傷者に軍医以下約四〇名のスタッフで治療を続けた。足の踏み場もない中で水を求める声や痛さの悲鳴、親を呼ぶ子供の声など、さながら地獄図のようであった。

八日に救護本部から病院も手不足なので何人か戻るように命令があり、私は病院の娯楽室に一〇〇名ほど収容した負傷者の担当になった。連日連夜、食事や睡眠の時間もろくにとれない状態で治療介護を続けたが、その間何度か敵機の来襲があったが、防空壕へ避難する余裕もなかった。被爆者のレントゲン写真に放射能が感光しているとレントゲン技師から聞いたが、原子爆弾とわかったのは後日であった。

真夏の暑さもあって負傷者の傷は化膿して悪臭をはなち、銀蝿がたかって血膿を吸い、傷に当てたガーゼの下のところどころに大きな蛆がもり上るほどにかたまり、治療を始める前に、まず蛆をとらなければならなかった。負傷者の殆んどが全身火傷の重症者で、次々と死んでいったが、比較的元気であった者も何日かたつと、発熱、下痢、脱毛、歯茎出血、鼻血などの症状が出て死亡したものも多かった。

連日連夜の殆んど休息のとれない状態の中での激務は疲労が蓄積し、私達看護婦も発熱、下痢、目まい、貧血、化膿症(手足のわずかの擦過傷も化膿して、なかなか治らなかった=放射能のためか)などの症状が出たが、欠勤する余裕もなく、皆は蒼白な顔色で、フラフラしながら働き続けた。体力の限界をこえる勤務の中で、お互いに励まし合いながら、気力と平均二〇才という若さの体力で頑張り通した。

九月一七日、関西地方を襲った枕崎台風による裏山からの土石流で病院は全壊し、職員、患者、一五八名が死亡、行方不明となり、負傷者も多く出たため、病院は閉鎖することになり、生き残った被爆患者は九月二〇日に船で広島市宇品へ転送し、被爆者救護活動は終了した。

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針