1996年8月5日 月曜日
広島市平和公園、私はここに足を踏み入れる度に、心を締めつけられる思いでいっぱいになります。
公園の中にある被爆学徒慰霊の碑の前に立つと、自然に両手をむすんでしまいます。
そして、原爆慰霊碑の前では、手を合わせて頭を深々と下げるのがいつもの習慣になってしまいました。その時の私の両の目からは涙がこぼれそうになります。回りの人たちに見えないように、そっと涙を拭いている私です。
いつから、こんな私になったのか、それは、私の生い立ちと関係します。
私が生まれたのは、1947年(昭和22年)です。日本が終戦を迎えた2年後です。
世の中は、敗戦の傷痕があちこちに残り、貧しい中にも人々の心にやっと生きていく気力が芽生え始めた頃で、多くの日本兵や日本の人たちが外地から引き揚げて来ている頃だと聞いています。
社会がエネルギーを持ち始めたのと並行して、戦後のベビーブームの子どもと言われながら私は育っていきました。
その我が家では、毎晩のように一つの話が繰り返し語られていました。
その時の母は、いつも目に涙を浮かべ涙を流しながら話すのです。
子ども心に「どうして一日の一番楽しいひとときに母は泣くのだろうか」不思議な感じで聞いていました。
繰り返される話の内容は、原爆で亡くなった一番上の姉の話です。
母は「どうして、戦争へ行って戦っている訳ではないうちの娘が、たった13歳でなくならないといけないのか。」という怒りと悔しさでいっぱいの訴えを、どこにも向けられないがために、更に気持ちが高ぶっているという様子でした。
この母を何とか元気にさせたいと、私は一生懸命に面白いことをして、母を笑わそうとしていました。
しかし、そんなことは慰めにも何にもなりませんでした。
その内、私はこの夕飯の場面が大嫌いになっていました。
母に「その頃は皆戦争で死んでいるのだから、おかあちゃんだけが悲しい思いをしたんじゃあないんでしょ。」と、母の苦しみや悲しみなど分からない私は、母を責める立場に立っていました。
そういうことの繰り返しの夕飯が数年も続いていました。
それは、私が小学校3年生の時です。
自分の本を探そうと本棚を開けてごそごそしていると、古い本の間から一冊の日記帳が出てきました。
それは、原爆で亡くなった姉のものでした。
日記には、小学校の時のことや、父が戦争に行っていることへの思いなどが書かれていました。
その日記の最後のページを読んだ時に、私の目から今までに経験したことのない程の涙があふれてきました。
そこには、原爆で我が子を失った母の悲しい思いが綴られていたのです。
「奈津美ちゃん(亡くなった姉の名前です)、お母ちゃんは何を信じていいのかわからなくなっている。どうか一目でいいから姿を見せてちょうだい。」
という部分を読む時には、もう文字が涙でにじんで見えなくなっていました。
この日記を読んでからというもの、私は二度と母を責めることをしなくなりました。
それどころか、その時の姉の様子を話す母の言葉を、一生懸命に聞きいる私になっていました。
この日記のことは、決して母には話さないでおこうと思っていまだに話していません。
1945年(昭和20年)8月、姉は女学校1年生でした。姉が通っていた学校は当時としては、多くの女の子の憧れの的の学校で、その学校に合格するために随分と勉強したようです。たくさん受験した中で姉が合格して、不合格の人達からは羨望の的で見られていたといいます。
数年間手紙も居所も分からなかった父から、20年4月に数年ぶりに手紙が届き、「奈津美の受験先は○○女学校がいいだろう。」と書いてあり、姉はそれを読んでは、「もう私はおとうちゃんの希望の学校に通学しているのにね。おとうちゃんが知ったら喜ぶのにねえ」と何度も嬉しそうに話していたそうです。
戦争真っ最中のこの頃は学校で授業を受けられる状況ではなくて、夏休みといえども学生たちは動員されて、工場や建物の疎開などをする仕事を手伝っていました。
(疎開とは、戦争や火災の時被害を少なくするため人々を地方へ移したり、建物を取り払ったりすること。)
1945年(昭和20年)8月6日、姉は学校の仕事として(学徒動員として)建物疎開へと出ていきました。
その日の朝に限って、「体がだるいから休みたい。」と言う姉を、母は「そんなことを言ったらいけん。お父ちゃんや兵隊さんは戦地で頑張っているんだから、奈津美ちゃんも頑張っておいで、その代わり今日の弁当は大好きなジャガイモのカレー炒めをいれておいたよ。」と、元気づけて見送りました。
この後、姉は二度と、元気で我が家に戻ることはできませんでした。
母は、この時どうして休ませなかったかと、後で随分と悔やんだそうです。
8月6日8時15分前、B29が一機、広島に向けて飛んでいるのが我が家から見えました。(我が家は、広島から35kmぐらい離れています。)
その後、2~3分も経たない後(それが15分でしょう)、稲光がしたようなパアーっと強い光がして、アラッと思ったとたん、次にドドーンっと地響きがしたようなひどい音がしました。母は、病気だった2番目の姉(小3)を起こし外へ出るように叫び、3番目の姉(4歳)を抱いて裏の畑へ飛び出していきました。
家の窓ガラスには、ビリビリとヒビが入っていきました。
近所の人たちも同じように出ており、「あれは何だ」と大声をかけ、指さした方向を見ると、そこには、シューっと煙の固まりのようなものが見え、それは空に向かって一直線にそびえ立っていました。
そして、その煙の先が小さくこんもりと広がっており、それは、時間が経るとだんだんと大きくなりました。それはまるで、きのこのようでした。
今までに経験したことのない衝撃に、近所の皆は寄り合って、あれは何だろうとささやき合いました。
10時30分頃になって、広島方面からの最初の汽車が到着しました。
その汽車から下りて来た男の子は裸足のままで、「広島はおおごとだあ~」と叫んでいました。
その後も、汽車から下りる人たちは口々に、「広島はおおごとだ、おおごとだ」と言うばかりで、何が起こったのか全く分からないままでした。
午後になると、中には、広島の学校に行っている子どもを探しに出掛けて行く人たちが出てきました。
母は、汽車が着くたびに駅に出て、姉の帰りを待ちました。
汽車は、大野浦駅から下には行かず、Uターンして広島へということを繰り返していました。
夕方になると、大野から下の人たちは、トラックに乗せられて帰って来ていました。
その人たちの様子は、目と口だけが見えて、後は白い包帯で覆われていました。
その日、いくら待っても、姉は帰って来ませんでした。
次の日(7日)になると、消防団を中心に広島へ捜索隊が出ました。
この日に汽車から上がって来る人は、衣服はボロボロで手や足の皮はむげて、何とも悲惨な様子でした。
姉は、小学校の時の先生に電車の中で偶然にも見つけられて、午後6時頃土橋の電停にいるからという連絡がありました。
その先生も我が子を探しに広島の街を歩き回り、偶然に姉を見つけ知らせてくれたのです。
その後、大野の小学校が収容所になっているので、大野の消防団によってそこに連れて帰られました。
もちろん、当時この廿日市の小学校も多くの被災者でいっぱいであったといいます。
母は、そのことを知り、すぐに小学校に走りました。
そこは、学徒動員でかり出された生徒がたくさん寝ており、「お母さん、お母さん」と呼ぶ声でいっぱいでした。この学生たちの母親は、ここに我が子が寝ているのも知らず、広島の町を我が子を求めて捜しているにちがいないのです。
その内に、その声もだんだん聞こえなくなって、みんな死んでいきました。
母は、すぐに姉の寝ている姿を見つけました。そばにいた人たちが、「お母さんが来られたよ。」と呼び掛けると、姉は母に気付きました。
そこで、皆にかつがれて治療室に運ばれました。
診療をした先生は、傷の少ない姉を診て「お母さん、気を長くみて看病しなさいよ」とおっしゃいました。
そして、半袖から出ていた腕の皮が剥けて垂れ下がっているのを、ハサミできれいに指の先まで切ってくれました。この時、空襲警報が鳴って、恐れる姉が「空襲だあ」と叫ぶと、先生は「大丈夫、ここには爆弾は落ちないから」と慰めると、姉はホッとした顔をしました。
自分の顔はどうなっているのか、どこを怪我をしているのか、姉は自分のことを心配していました。が、事実、姉の傷は本当に少なかったので、皆ひと安心でした。
看護の道具を取るために家に帰った母は、ついでに裏の畑のトマトを持って小学校に帰っていきました。
トマトの汁をしぼって飲ますと、姉は「おいしい、おいしい」と言いながら幸せそうな顔をしていました。
元気を少し取り戻した姉は、昨日からのことを話そうとしましたが、「今夜はしっかり休んで明日からゆっくり話そう。」と言って、話したがる姉を母は寝かせました。
傷の少ない姉の帰還で、母は安堵し明日からゆっくりと姉の話を聞こうと楽しみにしていたのです。
しかし、8日の朝3時頃から、姉は急に様態が変わり、うわごとを言い始めました。
うわごとの中には、お腹が空いているからでしょう、「おかあちゃん、料理の講習があるんよ」とか、友だちの名前を呼んでいるのが分かりました。
そして、妹たちの名前を呼び、逢いたがっているのがよく分かりました。
様態の急変を先生に告げ、先生も診てくれましたが「お母さん、残念です」しか、おっしゃいませんでした。この時には治療の方法などないのです。
そして、5時15分頃姉は静かに息をひきとりました。妹たちにとても逢いたがっていいましたが、それも叶いませんでした。
近所の人に戸板で家に運ばれ、次の日に葬式を済ませました。
当時は、死んでいく人が多くて火葬場が間に合わず、焼き場の回りで多くの人たちが焼かれていきました。
が、姉はたまたま火葬場で焼くことができ、これが母の唯一の慰めであったようです。
この間も、戦時中ですから空襲は何度も続きました。
中には、広島の爆弾で死んで、その葬式の途中にまた空襲を受けてしまった人もいるということでした。
何やら分からない大きな爆弾で、私たちの町の人をはじめ多くの人たちが命を落としていきました。
後に8月15日の終戦になって、しばらくしてそれが、『原子爆弾』という恐ろしい新兵器であることを人々は知りました。
それまでは、ピカッと光ってドーンと大きな音がしたので、『ピカドン』と呼ばれていました。
娘が、希望の学校に合格したことも、その娘がよもや新兵器の犠牲になって死んだことも知らずに、父は昭和21年に戦地から帰ってきました。
当時は、戦争にいけば無事に帰れないことは覚悟の上でしたが、まさか実際に戦争に加担しない13歳の娘が死んでしまっているなど想像だにしていない父の帰還でした。
その時の父の驚愕と悲しさは、どんなものであったろうかと、想像するしかありませんが、その父も昨年他界しました。
どういう訳か、父は生前、この姉のことをあまり話しませんでした。ただ、その話が出た時には、いつも目に涙をため必死で堪えているのが見えました。
姉が亡くなって、数年の後、その学校の慰霊の碑が建ち、毎年供養が行われています。
その中で当日の様子が話されましたが、姉たちは8月6日、広島の土橋の付近で疎開作業に入ろうと先生の指示を受けている最中の爆撃だったようです。姉は、すぐに電車の中に逃げたにちがいありません。
楽しみにしていたジャガイモのカレー炒めの弁当も、食べられないままに真っ黒になったでしょう。
一つの原爆投下は、悲惨な数奇な運命を、広島の街やその周辺の街々に、たくさんのものをもたらしていきました。
長崎でも、同じことが起こったにちがいありません。
そして、現在も核実験が実施され、核の被害が叫ばれています。
この悲惨な出来事を人類が忘れた時に、同じことが繰り返されるでしょう。
今、核廃絶に向け、また戦争反対を叫び、平和な社会を築いていく運動があちこちで行われています。
私は、この姉の死を無駄にしないように、私にできることをして、平和な社会を築いていくための活動に参加していこうと思っています。
そして、この母の悲しみに満ちた涙を受けついでいこうと思います。
私の子どもへ、そして孫へ、そのまた子どもへと…。
そして、私が、学校で教師をしている間は、多くの生徒たちへ…。
明日はちょうど8月6日です。明朝は広島へ出掛けて、姉を始めたくさんの犠牲者に手を合わせて、平和な社会を築いていく一員になることを誓ってきます。
きっと、母の涙を受けついだ涙を、今年も流すのだと思います。
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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