県立広島第一高等女学校1年生だった木村幹代(当時13歳)は、動員学徒として建物疎開作業中に土橋附近で被爆。
被爆後、父親と私(被爆後わりとすぐに自宅に帰っていた)は市内へ幹代を捜しに行った。父と私は途中で別れ、父は幹代が動員されていた市中心部の土橋へと向かっていった。道中、父は倒れている人々の口をあけて、幹代を捜し歩いた。病気一つしない健康な幹代だったが、7月13日頃、学校から帰宅するために白神社附近で電車を待っていたとき、(当時の電車は鈴なりに人が乗っていた)すれ違う電車に、背嚢(はいのう)の上に鉄カブトをかけた格好で、ステップに足をかけてぶら下がっていた男の人(たぶん軍人)がおり、その鉄カブトが口にあたり、前歯が全部折れてしまう怪我を負い、7月の末か8月に入ってからか、前歯を銀歯に治療していたためだった。
父と別れて市内に幹代を捜しに行った私だったが見つからず、仕方なく一人廿日市の自宅に帰った。
廿日市の自宅には、幹代の消息(どこで見かけたなど)をしらせてくれる人が何人もあったが、いったい幹代がどこにいるのか分からなかった。そうこうするうち、6日の昼過ぎ頃、私の尾長小学校時代の級友二人(女性)が、「己斐国民学校に幹代さんがいる」ということをしらせてくれた。慌てて私は、歩いて己斐国民学校へ向かった。線路伝いに己斐へ向かい、高須のあたりでは枕木がくすぶっていた。己斐国民学校へたどり着いたときには真っ暗で、市内が焼ける光で薄明かりが見える程度の暗闇の中、「木村幹代はいないかー!!」と必死に捜し歩いたが、幹代は見つからず、仕方なく廿日市へ帰った。私が己斐へ向かった後、父親(当時国鉄廿日市駅の助役)も部下とともに救援隊のトラックで己斐国民学校へ向かい、やはり「木村幹代はいないかー!!」と呼びながら必死に捜していると、校庭の水のみ場のところで、むっくりと幹代が「おとうちゃん」と起き上がった。父が話を聞くと、水を飲むためにそこにいたという。父は、唇もはれて水の飲めない幹代に口移しに水を飲ませ、担架に乗せて部下とともにトラックで廿日市の自宅へ連れて帰った。自宅に帰ったのは夜中だった。
自宅にいた私は、「ただいまー!」という、とても嬉しそうな幹代の大きな声を聞いた。くぐもった声だなと思い、どうしたのだろうと幹代のところへ行くと、幹代は全身真っ黒に焼けただれ、顔ははれ、唇もはれ、髪はまるでとうもろこしの毛のようにぼさぼさになってしまっていた。看護婦を呼んで手当をした。カンフルやリンゲル注射を打ってもらおうと思ったが、全身焼け爛れてしまった幹代の体には、注射を打てるところがなかった。その後、体がしんどくなると何度かカンフルを打ったが、打つと少し持ち直した。
家に帰った幹代は、被爆した時の状況や帰るまでのことをしっかりと話した。
以下、幹代の話。
原爆が落ちたのは、建物疎開の作業が始まったばかりのときで、一番前にいた私は、次の人に渡そうと瓦を持ち上げて振り向いたところだった。爆風で飛ばされ、しばらくして周りが見えて動けるようになると、皆と一緒に「逃げよう―!」と必死に逃げた。しかし、級友は途中で皆倒れ、いつの間にかひとりになっていた。ひとり、橋のところまで来たところで、「熱い!」と思ったら、もんぺの腰の部分に火がついており、川へ飛びこんだ。橋の上には、馬がころげていた。しばらくして川から上がったが、しんどくて動けなくなった。(川や橋の名前は分からない。場所は、後から推察するに三滝と己斐の間の竹やぶのあたりではないか。)そこへ警防団の人が来て、「県女の生徒は、己斐国民学校へ行け!」と言っているのを聞いた。ここで倒れて死んでしまっては、着衣も焼けて裸の自分は、どこの誰だかわからなくなってしまう。そんな情けないことになるのはいやだと、必死に元気をだして私は己斐国民学校へ向かった。己斐国民学校の前に、姉の知人で中国新聞に勤務していた松浦さんの家があり、松浦さんは、全身に火傷を負って裸で倒れている私を見つけて、女の子なのに裸ではかわいそうだ、これは大変だと、赤い線の柄の入ったタオルの寝巻きを着せてくれた。こうして私はどうにか己斐国民学校へたどり着いた。
私たち姉妹は、父親の勤務の関係で、小学校だけで6回の転校をした。小学校の卒業は三篠国民学校だが、その前には尾長国民学校へ通っていた。
己斐国民学校へたどり着いた私は、そこで偶然、姉の尾長小学校時代の友人二人を見つけた。必死に手招きして二人を呼び、「田坂(タサカ)さんでしょう?古川(フルカワ)さんでしょう?私は妹の幹代です」と名乗り、廿日市の自宅へ、自分がここへいることをしらせてくれるように頼んだ。びっくりした姉の級友二人は、慌てて廿日市の自宅に、私が己斐国民学校へいることを歩いてしらせに来てくれた。この友人二人は、何かの動員で己斐にいたらしい。二人によると、「己斐国民学校で、全身火傷で真っ黒な子が、自分たちを手招きしていた。あまりに必死に呼ぶので行ってみたら、妹さんだった」ということだった。
その知らせを受け、姉が己斐小学校へ捜しに来てくれた。姉が、「木村幹代はいないか―!!」と必死に呼んで捜しているのに気付き、「ああ、お姉ちゃん、来てくれたあ」と思って、起き上がって必死に「お姉ちゃん!」と後を追ったが、姉は気付かずに行ってしまった。その後、父親が来てくれたので、一緒に帰ることができた。
以上が、幹代が話した、被爆してから家に帰るまでの経緯である。
自宅に帰った幹代は、母親に桃がほしいと言った。私には、鏡を見せてとせがんだが、あまりに痛々しいその姿を、妹に見せるのは忍びなく、私はとても鏡を見せることができなかった。幹代は全身の大やけどで、肉を切ったようにバックリと割れ、カラカラに乾いて、あまりにも乾ききったひどい火傷の体からは、血すらでていなかった。全身の3分の1以上火傷を負ったら助からない、ということを聞いていた私は、そっと幹代の背中を見てみたが、体の前面と同様に背中も焼けただれ、おへその周りの5ミリくらいだけが、火傷を負っていなかった。被爆時に、ちょうど持ち上げていた瓦の影になったのだろうか。わずかに火傷を負わなかったその皮膚も、壊死したように青白かった。
私が「あんまりしゃべったら疲れるから、ものをいいなさんな」といっても、幹代は、当日の被災状況をつぶさに語った(前述)。作業で手袋をしていたので、手は火傷していなかったが、手袋に穴が開いていたようで、その部分だけが水ぶくれのようになり、幹代は「お姉ちゃん、見て。穴が開いていたところだけが、水ぶくれになっとるんよ」と話した。
家に帰ることができたのが何より嬉しいらしく、「仰向けに寝ても痛いし、ふせると腕が痛いし、どっちを向いても痛いのよ」と泣きもせず、苦しいとも言わず、あっけらかんと幹代は話した。8月7日の明け方、日が明けかかっていた7時40分ごろ、幹代が体を起こそうとするので、私が「起きんほうがいいよ。寝とき」と言ったが、幹代は「うん‥ほいでも…」と言って半分起き上がり、東の方へ向いて手をあわせ、そのまま何も言わずに亡くなった。家族は、7日の朝早く速谷神社に行き、幹代を荼毘(だび)に付してもらった。亡くなったのが早い時間帯だったので、幹代は一人で荼毘に付してもらうことが出来た。そのため、確実な遺骨が家族の元に返ったが、幹代の後に荼毘に付された人々は、何人もがまとめて荼毘に付されたため、はっきりした遺骨も分からなくなり、皆泣かれるので、とても幹代は一人で焼かれ、確実な遺骨があるとは言えなかった。兄の木村一男の日記によると、幹代の葬儀は9月4日。速谷神社から、神主さんを呼んでとり行われた旨が記されている。
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
|