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私の一中時代 姉の原爆死 
南部 敬之(なんぶ たかし) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一中学校  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 


昭和20年8月6日月曜日。“私の広島一中時代”を語ろうとすると、どうしてもこの日が強烈に頭をよぎる。この日は、広島一中時代のあらゆる追憶の原点となっている感がする。従って、前回、回想録を作るとの連絡を受けた時は、まだ原爆当時を思い出すのが辛くて書く気になれていなかった。あれから20年。私も年を重ね、半世紀以上も過ぎた今回は、林憲弘君、それに小学校以来の友、三田村英雄君の強い薦めもあり、ようやく、辛いことではあるが、当時代の自分史として書き残しておこうか、と思うようになった。

その日。私は、いつものように早朝6時、広島駅前から己斐行きの市電に乗り、地御前の旭兵器工場に向かっていた。雲一つない真っ青な空に夏の太陽がギラついていた。「今日も暑くなるな。それにしても眠い…。」毎晩のようにB29の襲来があった。大編隊での北上とのニュースの時、必ず母は幼い妹の手を引き、とにかく東練兵場まで避難しようと言った。そのたびに姉は言った。「私はここに残る。死んでもいいから眠らせて。」当時第一県女の四年生だった姉は、向洋の東洋工業に学徒動員として働きながら、それでも毎週月曜日、大学進学のため学校に戻って勉学の日々。相当疲れていた。

運命の8時15分。上半身裸になって全員でラジオ体操をしていた。南下中のB29が2機、その機影を見た瞬間、ピカツ!間髪してドッカーン!と来た。足もとの上衣をとっさに頭にのせ、状況が全く判らないまま、全員近くの山に走った。山腹から海越しに見た広島方面に、巨大なキノコ形をした雲がムクムクと天に向かって広がっていた。

工場に戻ると、早くも広島方面から黒く焼けただれ、衣服もボロボロになった人たちが、工場敷地内に次から次に運び込まれて来た。私たち一中の生徒も班別に編成され、大勢の負傷者の救護に当たった。「学生さん水を下さい」「水を飲ませて…。」ほとんど全員の人が火傷を負って地べたに身体を横たえていた。工場の係の人が大声で叫ぶ。「水を飲ますな。死ぬぞ!」喧騒渦巻き、この世の地獄絵さながらの中を夢中で走り回った。そんな中、焼けただれた一人の女性と目が合った。「水を…」と弱々しく訴える。私は「いけない」と思いつつもガーゼに水を含ませ、そっと唇を濡らせてあげた。「ありがとう、学生さん。おいしい…。」60年たった今も、その声が耳に残る。

その夜は一晩中、地御前の土手に座り、炎々と夜空を焦がす広島市を何一つ遮る物のない海越しに呆然と眺めて過ごした。最初、火は3ケ所で火柱をあげていた。やがて夜半過ぎ、その火は一つになり全市を大きく覆った。右手、広島駅の方も火に包まれた。「ああ、家が焼ける。」その時、はじめて家族のことを思った。母や妹は。今日は月曜日、第一県女にいるはずの姉は無事であろうか…。夜空は何事も無かったように星がキラメキ、時折すすり泣く女子生徒の声のほかは静寂そのもの。ひどい孤独を感じた。

翌、昼過ぎ頃、突然の動員解除。帰宅待機せよ。大豆入りのおむすび2個を手に、三田村君と帰途に着く。途中宮島線が動くことを知り草津か古江まで乗り、あとは歩き。己斐駅に出て、はじめて菰(こも)で覆われた死体を目にする。市電の鉄橋上の枕木をひとつ、ひとつ慎重に足を運びながら一つ目の川を渡る。そこは一面の焼野が原。道路には多くの死体が散乱し、菰さえも覆われていない。死体を踏まないよう、避けるように先を急ぐ。二つ目の鉄橋を渡る。ここからは、もう一面瓦礫と死体の山。避けて歩くすべもない。焼けた市電が死体を乗せたまま放置され、馬が木馬のようにカチンコになってヒックリ返っていた。相生橋を渡り、紙屋町、八丁堀でそれぞれ数人ずつの友達グループと別れ、三田村君と二人きりとなる。銀山町まで来た時、一団の人の群れ。近寄ると警察署の前で乾パンをもらっている。「これから先、何が起こるかわからん。まずは食料だ。」三田村君が言う。罹災証明書をその場で書き、乾パン一袋もらう。「よし、これで2~3日は生きられる。」不思議に元気が出た。荒神橋を渡る。覚悟はしていたものの、我が家は焼け、跡形も無くなっていた。ここで三田村君と別れた。彼は避難先と決めていた温品村に向かった。

私は、ひとりぼっちになった。さすがの太陽も西に傾き、人っ子ひとりいなかった。我が家の焼け跡に立つ。焼け跡を丹念に見回る。すべて完全に燃え尽き何の痕跡もなかった。一瞬ホッとした。母と妹は無事脱出したなと直感した。その夜はもらった乾パンを食べ、我が家の焼け跡で寝た。どこに行けばいいか判らなかったし、動くには暗くなりすぎていた。

翌朝、運よく近所の小母さんに出会った。「敬之ちゃんかい?あんた生きとったの。お母さん、埃宮(えのみや)で見たで。」地獄で仏。飛び上がるほど嬉しかった。埃宮目指して歩いた。

小高い山上に鎮座する神武天皇東征神話の埃宮に着いた時は、お昼に近かった。大勢の女の人たちが忙しそうに炊き出しをしていた。避難した人は木陰でうずくまっていた。母はすぐ見つかった。妹もいた。案じていた姉もいた。校舎が崩れ、下敷きの中から抜け出し裸足で逃げて来たという。不思議に傷一つなかった。家族全員の無事を喜んだ。しかし、姉の容態は心配だった。元気がなく相当衰弱していた。

翌日。壊れてはいるが類焼をまぬがれた西蟹屋町の伯母の家に、とりあえず行くことにした。

伯母の家に落ち着いたものの、姉は微熱を出し続け、床にふしたまま食事もほとんど口にしなかった。何が欲しい?何が食べたい?母も伯母も何度もたずねるが首をわずかに横に振るだけ。そんな日々、姉がはじめて自分から口を開いた。「西瓜が食べたい…。」   

私は姉の願いを叶えてやるため、翌15日。早速、単身呉線まわりの汽車に乗った。三原の奥、父の故郷に西瓜をもらいにである。途中、天応駅で長いこと、汽車が停車した。やがて雑音のひどい駅のスピーカーから「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え…」の玉音放送が流れた。最初は何の事かわからなかったが、超満員の大人たちがざわついた。「日本が負けた…」と。私は「これからどうなる?汽車は動くか?今日中に西瓜持って帰れるか?」日本の敗戦より西瓜の方を心配した。その晩遅く、西瓜は姉の口に入った。「ありがとう、敬之ちゃん。おいしい」と一言。にっこり微笑んでくれた。

その翌々日、朝から姉は鼻血を出しはじめた。なかなか止まらなかった。どう見ても危険に思えた。近所の小父さんたちの力を借りて姉を雨戸板に乗せ、比治山にある陸軍の野戦病院へ運んだ。病院は足の踏み場がないほど、被爆者で溢れていた。入口の土間に姉を寝かせ、係の衛生兵と掛け合った「そこに置いとけ。」とても投げやりで不親切だった。私は悲しく腹立たしく泣きたい気持ちになった。私は姉を助けたい一心で、言うべきではなかった言葉を心ならずも口にしていた。「この姉の父親は、西部軍司令部に所属する陸軍少佐、南部と言う者。頼みます。」衛生兵の態度は一変した。2~3人の衛生兵が来て、姉を奥の方に移してくれた。応急手当の甲斐あってか、夕方に鼻血が止まった。ホッとした母は「光代ちゃん、これで楽になるね。元気だすのよ…。」鼻血の止まった姉のやさしい顔を今でもはっきりと憶えている。透き通るほど白く、びっくりするほど美しかった。ここに連れてきてよかったと思った。が、それもわずかな時間だけだった。

やがて夜が明け、周囲に朝の陽がさし込んできた頃、姉は、一度大きく息をしたあと、静かに、穏やかに息を引き取った。病名、急性敗血症。後に原爆症と書き改められた。

伯母の家に無言で帰ってきた姉。でも私は皆と同じように泣いている暇はなかった。姉を茶毘(だび)に付さねばならなかった。道路の横に掘られた防空壕を探し、壊れた家の柱や木切れを集めた。伯父にお経を唱えてもらった。私は一晩中、姉と向き合い火が消えないように燃やし続けた。燃やしながら、はじめて声を出して泣いた。ただ無性に辛く、悔しかった。

明け方、焼き終えた時にはもう一滴の涙も残っていなかった。この日も太陽は何事もなかったように昇り、ギラついていた。

こうして、私の大好きだった姉は、17歳の短い生涯を終えた。広島一中に合格した時、一番に喜んでくれた姉。あまりにも酷で悲しくて、思い出すのも辛い思い出の一つである。

 
出典:広島一中有終会回想録刊行委員会『続 鯉城の日々』 208~213頁


*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。

 
  

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