私の被爆体験
昭和20年8月6日午前8時15分の思い出
当時、私の家庭は5人家族で、両親に中学1年の姉と2歳の妹に、私が小学3年生で、家族全員が被爆しました。
住まいは市内の南観音町で爆心地より約2.4キロメートルの所
父は市内の勤め先の千田町で、母と妹は自宅内で遭い、姉は学徒動員で市内の土橋地区で作業中被爆、私はたまたま当日が登校日で、自宅近くにある中学校に行き、校庭の片隅で友達と一緒に土に字を書いて遊んでいました。
その時の事です。下を向いているのに突然空が白く光ったのを感じ、驚いて空を見上げると、2階建ての校舎越しに東方向の空が一瞬白く光っていたのを今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
当日は朝から晴天で、すでに真夏の太陽がギラギラと照らしている空の様子、それ以上の強烈な光で空が白く光ったのです。
原子爆弾が市内の上空で炸裂した瞬間だったのです。
ほんのわずかの瞬間でしたが、今でもはっきりと覚えています。
しばらくして強烈な地響きを伴った爆発音と、その直後に強烈な爆風が襲い、校舎の窓ガラスの破片が飛び散ってきて、私は額と左足に切り傷を負い、非常に恐ろしさを感じ、一目散に校舎の陰に必死で逃げました。逃げながら校舎の中の様子が目に入りました。頭から血を流して血だらけの生徒が何人かいて、恐ろしくなって学校から家に向けて必死で走り、家が中学校の近くだったので、すぐに帰り着くことが出来ました。
家に帰ってからも逃げる途中に見た、教室の中で血だらけになっていた生徒の事が気になってたまりませんでした。
家に帰ると、母と妹が自宅の庭に作っていた防空壕の中へ逃げこみ、母は頭から、かなりの血を流して震えながら妹を抱きかかえて、しゃがみ込んでいた。母は妹を抱きかかえながら、玄関から防空壕へ避難する際、爆風で崩れ落ちてくる屋根瓦の破片が頭に当たり怪我をしたのだと言っていました。
当時、自宅近くで外にいた人は爆発の強烈な熱線を体に浴び、頭髪、衣服に火が付いてほぼ全身にやけどを負っていた。
私は幸いにも学校の校舎の陰にいたので、強烈な熱線は直接受けないで済み、やけどは
負わなかった。
しばらくして家の外に出て見ると、市内全体が炎に包まれている状況で大変驚きました。また、街の方から、こちらの方角へと次々と避難してこられるので、家の前の中学校が急ごしらえの救護所になったので、そちらの方へと一生懸命に案内をした。ほとんどの人が、頭髪は焼けて着ていた服まで焼けただれて、中には傷を負って血を流している人もいて、非常にむごたらしい姿には、子供心に怖さを感じていた。
しばらくして、父が勤め先の千田町から南観音の自宅まで歩いて帰ってきた。父は会社の建物内で被爆したため無傷で無事でした。父は家族全員を見渡し、姉だけがいないので、すぐに助けに行ってくると言い残して、土橋地区の方角に向かって家を後にした。
姉は当日の朝、家を出る時に「今日は土橋方面に作業に行く」と親に告げていた。(自宅から土橋までは、約2キロで歩いて
30分程度)
姉の救出劇 父の話
我が家から北の方角に向かい、士橋付近に近づくにしたがって、あちらこちらと火の手が上がっていて近寄り難くなってきたが、何とか土橋付近に到着できた。
火の手の弱い所を探しながら、女子学生の生徒達を必死で探した。一帯はすでにすさまじい状況で、まさしく地獄絵そのもの。所々に女子学生がいるものの、頭の髪は焼けちぢれ、着ていた衣服も焼けて皮膚も焼けただれて哀れな姿。必死で助けてー助けてーと大声で悲鳴を上げていた。生徒達は外で作業をしていたので、爆発の瞬間の強烈な熱線を浴びたに違いない。顔があまりにも変わっているので、我が子の区別が付かず、父は叫んだ「船橋清子はおらんかー」「船橋清子はおらんかー」と、ありったけの大声を張り上げて、ほうぼうへ向けて叫び続けた。ふと、天満川の方を見ると“やけど"を冷やすためか川に浸かっている生徒が沢山いるではないか。その方向にも向かって「船橋清子はおらんかー」と何度か叫んだ。更に、あちらこちらと生徒がいる方向に行っては何度か叫び続けているうちに「おとうちゃん助けて」と突然抱き付いて来たのが、我が子の清子であった。叫び続けた呼び声が、遂に本人の耳に届いたのだ ああ良かった。すぐさま我が子を背負い、自宅の方へ歩き出した。しばらく歩いていると、父の背中におぶってもらっているものの、父が息を切らしながら歩いているのを背中の姉が気づかい、途中で「自分で歩いてみるので下ろして」と言って、自分の足で歩きだした。
姉の足の裏は、靴は脱げ、火災の中を裸足で逃げ回っているので、道路の熱で焼けただれ、皮がめくれあがって痛々しい状態。歩けるはずがない。少し歩いただけで「足が痛いのでおぶって!」と言い、父と姉とで交互に助け合いながら、約2キロの道のりを歩いて自宅までたどり着いたのである。
多くの動員された生徒の中で、父のがんばりで姉を見つけることが出来て、命ある間に我が家に連れて帰れたことは、どんなに良かったことか。
父の話はこれで終わりです。
私は父が連れ帰って来た姉の姿を見るなり、そのむごさにびっくりした。すぐに 父と私とで姉を自宅前の救護所に連れて行った。中学校の講堂が救護所ですでに多くの怪我人がいて行列で治療を待っていた。父は一旦家に帰り私が順番待ちで付き添っていた。
私が待っている間の目にした情景、耳に入った声
生きているものの頭から体全体が焼けただれ、男女の区別も判らないほど皆黒々とした姿。「水をくれ」「助けてくれ」「苦しい」「痛いー」「熱いー」「兵隊さん殺してくれ」等、悲痛なうめき声、床に寝ころんだままの叫び声、この世の地獄模様 。
この悲痛な叫びは今でもハッキリと覚えており、大変むごい事であったと当時を思い起こして振りかえる。
姉の簡単な治療が済んで家に連れ帰ったが「水が欲しい」「水が欲しい」と言い続けていたが、大やけどをしている病人に水を与える事は命を縮めることになるので、やるわけにはいかない。可哀想だが水はやれなかった。
明くる日、午前11時頃、姉は14才の生涯を終えた。その時父は姉のかたわらで男泣きで「清子」「清子」と叫びながら泣き崩れていた。そばにいた母も一緒に我が子にすがり泣き崩れていた。私も子供ながら涙した。我が子を失った両親の姿が非常に痛々しかった。
明くる日に聞いた話だが、前の日に救護所にいた多くの被災者は、板の床に転がされたまま「水をくれ」「助けてくれ」と叫びながら絶命したとの事。
その他の思い出
* 毎朝、炊き出しのおにぎりをもらうためにお米の配給通帳を持って並んだ事。
(お米の配給通帳は家族の人数が表記してある)
* 消火栓から水が出ていた所があり、飲み水に使うためバケツで水くみを毎日した。非常に辛かった。
* 食べ物が無いので遠くの缶詰工場に行き、焼け跡の下の方から焼けていない缶詰を掘り出し、手押し車に積んで家に
持ち帰り近所の方と分け合い食べていた。
* 被爆当日、突然「おばちゃん助けてー」と言って小学2年生の女の子が逃げ込んで来たので、1週間ほど面倒を見て
やっていたが「あなたもお母さん、お父さんがきっと探しているので」と言って警察に迷子として引き渡した。
* 夜には「焼夷弾攻撃がある」との噂があり、街の全てを焼け野原にするとの事。どこの家も外で蚊帳を張って寝た。
デマで何事もなかった。
結び
戦争と原爆を経験した者として、改めて戦争のない平和な社会を強く望み、また、日本は世界唯一の戦争被爆国、今こそ積極的に核廃絶に向けて強いリーダーシップを取ることが必要と思う。
令和4年1月23日
船橋利晴
(昭和11年11月生)
文中の「姉」船橋清子氏は、ご遺影を当祈念館にご登録いただいております。
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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