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被爆について思うこと 
河田 和子(かわだ かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一高等女学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

60年も前の遠い昔の恐ろしい出来事なのに…昨日の出来事のように私の中を渦巻くあの時の事…。当時広島県立第一高等女学校二年生であった私は、国策に従って「広島7264航空機工場」に動員され、爆心地より2kmあまり離れた工場屋内で被爆した。午前8時過ぎ、上空を白い飛行機雲を引いてB29が飛んでいるのを窓越しに見た直後にオレンジ色の閃光が窓から室内を走った途端に建物が揺れ、物が落ちくずれた。私たちはとっさに机の下に入ったが、すぐに皆で高須の山に逃げた。その時黒い雨にさらされながら、何も考えずただただ枇杷(びわ)の山に避難し、どの位の時が過ぎたか、ようやく思考が戻り皆実町のガス会社が爆発したらしいと、ひたすら待避の時を過ごした。何時か過ぎた頃、世にも無惨な見たこともない姿の人たちが続々と逃れて来たが、何も分からず爆弾が落ちたという知らせもないまま、友達と寄り添って茫然の時を過ごしたように思う。

夕方近くになって家族の迎えがあった友だちの去っていくのをただ見ていたように思う。少しずつ自分を取り戻し始めた時、私も家に帰ろうと思った。しかし爆心地より500m地点にある我が家に、燃え盛る街を帰るすべもなく、誰の迎えもないままに真っ赤に空を焦がす我が家の方向を見ながら時を過ごした。

今秋他界した同級生の筒井花子さんの父上が、花子さんを探してこられ、私も一緒にまさかの時の疎開先地御前にようやく向かった。大勢の被災者と共に日暮れ道を歩いて歩いて黙々とただ歩いた。その時の被災者のあまりにむごい姿、体は赤ぶくれ、皮膚はむげてたれ下がり、顔は見分けのつかぬほどにふくれ、口はとがりむくれ、目はむけ、頭髪などまるで無くて赤黒く爛れた皮膚のみ、そして息絶えている赤児を背にぶら下げて半狂乱の女。ただただ語ることも出来ず意識は遠い所にあってただ歩くだけ。「水を水を」と求めつつ倒れてしまう人・人・人。まるで声なき阿鼻叫喚の中をさまようがごとき長い行列と共に、燃え盛る市街地を背に月明りを頼りにただただ歩いた体験は、13才の少女にはあまりに残酷異様、衝撃的出来事であったと後日思ったことであった。その時、私を完全に無感覚、意識の無い世界に置いてしまい、思考力ゼロ、恐怖心も悲しみも何にも感じない空白の世界をさまよわせた時であった。幸いに軽い怪我ですんだ私は、運よく前夜から疎開先にいて被爆をまぬがれた母と、親戚の人たちと一緒に、翌日から来る日も来る日も父や身内の安否を確かめるために、我が家跡をまだまだくすぶる中を掘り返し、周辺を探し回った。足の踏み入れようもないほどの死体の転がる中、一体一体を確かめ、また我が家のそばを流れる元安川に浮かぶ数えきれないほど大勢の死体を、スコップや鍬(くわ)などで岸に引き寄せ、ひっくり返しては確かめた行為は、今なら絶対に出来ない恐怖として甦る。全く無感覚のまま街中を何日も何日も歩き回ったそんな中、紙屋町交差点の現在興銀ビル前の道路で、性別さえ不明の死体を重ね、兵隊さん達が油をかけて焼いている場面に出くわした。母と共に茫然自失立ちすくんで見ていた。火が回ると死体から体液が流れ、異様な音を発しつつ腹部が割れて、オレンジ色とも黄色とも見える腸がむくむくと盛り上がり、誠に異様な時を過ごした。よく地獄といわれるが少女の私は地獄の意識すら無かった。街には特に練兵場附近には、大きな馬の死体があちこちに横たわり、行き交う人も異様であった。大手町4丁目の生家の近所のおじさんがボロボロで生きていた。しかし翌日からは消息不明、いまだに気がかりなことである。このような異常な状況の被災地を探し歩いたが誰も見つけることが出来なかった。

9月広島に強い台風が襲来、山川は荒れ、市街地は洗われ流された。あれだけ掘り返し見つからなかった遺骨が二体だけ玄関付近から地上に出てきた。父と伯父の遺骨として持ち帰り、伯母は行方不明のまま弔った。

その頃から私の体に変調を覚え、喉からの出血、続いて下血、不明の高熱が続き、頭髪脱毛の症状が出た。法定伝染病の病名のもと隔離のすべなく、医師も薬も病室も不足のため、 ただただ母の看護のもと疎開先の家で闘病した。後に原爆症と診断された。

8月6日、瞬時にして父や身内、そして多くの友や師を失い、昨日までの生活の全てを喪失した。「いのち」だけが残った。初夏、路地にさりげなく咲く白い花「どくだみ草」を見ると、私はたまらなくいとおしいと思う。「いのち」を感じる。治療の出来ないまま、母はひたすら「どくだみ草」を煎じて毎日毎日私に服用させた。その結果命拾いをし健康を回復した。

当時、友人たちはどちらを向いても両親・片親・家族を失い、家も失い、苦しさや淋しさ悲しみに耐えていた。私たちはこの苦しみや悲しみを共有したがゆえに、みんな強く生きた。私の人生も老年期に入ろうとしている。生き残った私は60年越し方をふり返った時、今は自分なりに納得のいく人生を送れていると思う。多くの犠牲者を出した戦争をくぐり、生かされている自分を感じる時、私を限りなく奉仕の世界に走らせる。国際ボランティアに参加し、ボランティアを通して友好を結び平和な世界を願って活動しているこの頃である。現存する被爆者の平均年令は72才を越えた。当時13才であった私たちが確かな記憶を持つ最後の生の証言者かもしれない。あの忌まわしい記憶を封じこめるのではなく、語り伝える勇気を再燃させるように、その責任と使命を痛切に感じた今年の8月6日であった。犠牲者となった師や友、多くの人々に心からの冥福を祈る。
 
                                                      河田和子
 
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。 

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