8月6日当日の朝、私は広島県立広島第一中学校2学年、学徒動員で早朝自宅(荒神町)を出て市電で広島市を横断、宮島口近くの旭兵器に出動しておりました。8時15分の一瞬、全学徒が上半身ハダカで朝会後の体操をしていたときピカードンで工場のガラスが飛び散りました。すぐさま上衣をつけ隊伍を組んで山に退避しました。山から見渡すと海越しに広島市の中央、何とも無気味なキノコ雲がモリモリと昇りつつありました。先生の引率で山を降り、工場に戻った頃から被爆して衣服がボロボロ、黒く焼けただれた人達が工場の前の国道に姿を見せはじめました。工場では臨時野戦病院が設置され、私たちはグループに別れて救護活動に当たりました。「学生さん水を…」「飲ますと死ぬぞ」との軍医さんの声、今でも耳に残っています。
夜、私たち動員学徒は女生徒を含め全員が海岸に出て赤く燃えさかる広島市を海越しに見ていました。広島市ははじめ中央、己斐側、広島駅側と3ヶ所で燃えていましたがやがて全市が一つになって燃えました。炎が広島駅近くに広がり比治山のシルエットが黒く浮んだとき「ああ俺の家も焼けたな」と思い突然母、姉、妹の安否を思い身が震えたのを記憶しています。
翌朝10時、突然学徒動員の解除命令。各人自宅待機ということでニギリメシ2個をもらい友人と2人、ともかく自宅へ戻ろうと歩いて帰ることにしました。15時ぐらいでしょうか己斐駅前を通過、通常の橋が燃えて渡れないので市電の鉄橋を渡り市電のレールに添って帰ることにしました。己斐駅附近ではじめての死体をみました。ムシロがかけてありました。鉄橋一つを渡るとムシロもかけていない死体があちらこちらにありました。もう一つ鉄橋を渡ると一面死体の野原でした。道路にまで横たわり死体をまたいで歩かねばならないところもあるほどでした。紙屋町に来たとき広島駅の建物が何もさえぎるものもなく、はっきりと見えました。銀山町の警察署の前で罹災証明を書き、水をもらいカンパン1袋もらってこれで当分生きられると真剣に思ったことを記憶しています。
夕暮れに着いた荒神町の自宅は全焼していました。そこで友人と別れ一人になりました。一人で焼け跡に立ち、「まあいいやカンパンもあることだし明日になったら母親のこともわかるだろう」と防空壕の入口を探していたとき「お母さん、お姉さん、妹さんをエノ宮の避難所で見かけたよ、元気だったよ」と近所のおばさんが教えてくれました。一日中歩き通した疲れた足を元気づけ夕暮れの暗くなった道をまた歩きました。そしてエノ宮の避難所にいる母、姉、妹と合流しました。姉は中心部の県立第一女学校にいましたが不思議とケガもなく脱出してきていました。が、12日後原爆症で死にました。一晩中、道端の防空壕の中で倒れた家屋の木材で焼き骨を拾いました。父は出征中でしたので、長男の私が母を助けて弟を児童疎開の地から連れ戻したり、焼け跡を整理したり、親戚に連絡をとったり父が復員してくるまで頑張りました。
以上50年経ってはじめて原爆について書きました。
(本心は書きたくなかった。原爆はそのときいた人でないとその苦しみと怒りは誰もわかってもらえないと思うからです。)
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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