私は当時白島町に住んでいたのですが、実兄の長男(私にとっては甥になります)が陸軍中尉で戦地から広島に変遷されてきたので、私の住んでいる家を貸して欲しいと言ってきたので私は主人が召集されて留守だったので貸すことにしたのです。
私は夫の姉が福山に住んでいたのでそちらで子供二人と共にお世話になっていました。八月五日に甥から用事があるので広島に帰って欲しいと連絡があり、私は余り気が進まなかったのですが、致し方なく帰広したのです。
八月六日の朝、甥の嫁さんが家の中を掃除するから少しの間外に出てくれと言ったので、生後一〇か月の弘子を抱いて外で子守をしていました。その日の朝も青空で風もなく暑かった。
飛行機が飛んで来るよという、息子の声を聞いて、自宅に帰りかけたその時、ピカッと光ったと同時にドーンというすごい音がした。
抱いていたわが子をかばう為無我夢中で背中を向けた。背中が熱いと思ったら着ていたブラウスが燃えていて首から背中一面、そして両足首に亘って熱傷を受けていたのです。私は地獄極楽はあの世の事だと思っていたが、この身に起きた一瞬の出来事は地獄の有様そのものと感じたのです。
住んでいたのが「白島」という町だったので土手の西側に長寿園という公園?があり桜の花咲く季節には多くの花見客でそれはそれは賑やかなことで桜も大樹が多くてきれいな花を咲かせてその光景は素晴らしいものでした。
私は五歳の息子が居ないことに気づき、探すと井戸のそばに倒れていました。爆風で飛ばされ頭を、井戸の角にぶっつけて気を失っていたのでした。その息子も左の腕から指先までや、顔の一部と両かかとにも熱傷を受けていたのです。
私は背中に熱傷を受けて皮がむけてズルズルの状態だったのですが、弘子をおんぶして息子の手を引き長寿園を抜け、干潮だったので川を渡り中之島に避難して行き夕方まで居たのですが、甥の嫁さんが一緒だったので熱傷を負った私や息子と弘子も頭に火傷をしていたので面倒を見てくれて助かりました。この中之島には自分以外にも沢山の被害者が避難してきたのであの大きな島が足の踏み場も無い位でした。現代の島は当時の大きさの五分の一位に小さくなっていますが・・・・・
夕方近くなって世間が落ち着いてきたようなので川を渡って家に帰って来たのですが家は倒壊して中には入れず近くの防空豪に入り一夜を明かしました。
翌日になり医師の回診があり弘子が一番軽い状態だと言ってくれましたが、当時はまだ元気さがあったようでした。甥は松永に帰っていたので被害(原爆)には合わなかったので二日目には来てくれて、叔母さんの様子が気にかかって心配していたのだが生きていてよかったと話してくれた。
三日目になって私の長兄と主人の姉婿が来てくれ必需品を整理して、日暮れの街をリアカーに私たち三人と荷物を載せて広島駅に向かって行ったのです。
途中市内は焼け野原であちこちに煙が立ちのぼり臭いもひどくこの世の有様ではないと思い、思い出しても背筋がゾッとします。
駅に着いても避難をする多くの人たちで一杯でした。何とか列車に乗ることが出来、人と人の間に隙間を見つけてやっと横になり足元に鍋や釜を置いていた。足元でなんか変な音がするので付添いの兄にそのことを伝えると鍋、釜を持って逃げる者がいたので追いかけてそれを捕まえて取り返した。
糸崎駅で途中下車し(なぜ途中下車したのかは不明。多分糸崎駅止だったのではないかと推察する)長い階段を上り下りする間兄におんぶしてもらうのだが首から足迄火傷をしているのでどこを触っても痛いところばかり痛い痛いと言っていました。私の体重が五〇キログラム位あったのでおんぶも楽になかったと思いますが、兄も当時は若かったので頑張ってくれたのではないかと思い、今も感謝しています。乗換列車でやっと松永駅に着き里の近所の奥さんがリアカーで迎えにきてくれていたのでそれに乗りやっと実家に着きました。
実家では三人が一度に増えたので世話も大変だったではないかとそれも大火傷をした私と子供たちもそれぞれ火傷をしているのでなおさら大変だったと思います。当時父母も若く元気だったのでそれなりに面倒を見てくれたのではないかと思います。
それでも三人の世話は大変だろうからと長男は主人の姉が四日目に福山に、弘子は松永新涯町の姉が引取り面倒を見てくれていました。が生後一〇ヶ月余りの弘子は頭部熱傷と広島から松永までの長旅の疲れもあってか、被爆後一六日目の八月二二日に姉の手の中で安らかに眠るように亡くなったそうです。それを聞いて私は自分が見てやることが出来ず残念で残念で私は号泣しました。
亡き子の年を数えるとはよく言ったもので本当です。生きてさえくれたならばと今更ながら寂しさを感じるこの頃です。戦争を憎み、原爆を落としたことを恨みに思います。
主人は兵隊に取られていたのですが、広島が原爆だとわかり早々に除隊となって帰広しましたが、私達が居ないので私の実家に来てくれたのですが一日位いて帰広しました。が住む家もないのであちこちで木を拾ってきてはバラックみたいな家を建てました。六畳一間と押入れという粗末なものでやっと雨露がしのげる感じでした。風呂はドラム缶を調達してそれに入る、風呂があるだけましなほうだと思う。この悲惨な有様は原爆の被害にあったものとか、大空襲で焼け野原にあったものでないと想像もつかないと思います。
私も一時は四一度以上という高熱に見舞われ、もう死んだと言っていたそうです。その時の私の状態は穴の中に吸い込まれるような感じでドーンと落ちて行った。それが死の状態ではなかったのかと思います。
姉が商売をしていたので栄養になるようなものを持ってきては食べさせてくれました。そして兄姉たちや廻りの方たちが面倒をよく見てくれたりして私自身も高熱状態でありながらも食欲が旺盛であったし若かったので快復も早かったのだと思います。本当に皆さんのおかげで薄皮をはぐように元気になりました。が何せ三か月と言う期間うつぶせで寝たきりという状態だったので、さて立ち上ろうと思ってもなかなか立ち上がることが出来ませんでした。それは赤ん坊が立つ時と同じような感じで転んでは立ち、転んでは立ちを繰返してやっと立ち上る事が出来た。その時の喜びは嬉しさとやったーという思いで感無量でした。
療養中には親戚や近所の方たちが次々と見舞いに来てくれて励ましてくれましたが、今思えば「ピカドン」にあったことが珍しくて見に来たのもあるのではと感じています。私はこの原爆にあって大火傷をし、幼子を亡くし又市内は眼を覆うような惨状を見たりした事は脳裏にこびりついて死ぬ迄忘れる事はないでしょう。
長男も何とか元気になり一一月一三日揃って帰広することが出来ました。家は主人が建てたバラック建てでとても不自由な事でした。それに当時は泥棒が多くて狙われたのは衣服でした。我家は二度も盗難に合い、僅かしかない衣類を取られて不便この上ない状態でしたが命を取られなかっただけ良かったと自分を慰めていました。話を聞くとアチコチで軒並み泥棒に入られたようでした。
五〇年過ぎたこの頃では衣類を取る泥棒はいないと思いますが、世の中は変わるものですね。最近の広島の復興ぶりを見て昔の面影はなく、ビル群が立ち並び原爆を知らない人に当時の話をしても想像ができないと思います。私が被爆した年は三二歳(厄年?)で若かった。主人は入市被爆の影響かもわかりませんが病弱で昭和六一(一九八六)年一一月一三日六一歳で亡くなり、平成一〇年(一九九八)年一〇月一八日没後三〇年祭をしました。寂しさを感じています。
体格もよく元気だった甥も原爆投下後に私達を探すため入市したのがよくなかったのか病魔に侵され惜しくも昭和三一年一〇月一八日に永眠した。
甥の嫁さんも元気だったが(私達と共に被爆に合い共に防空壕で過ごして大火傷をした私をかばいながら実家に帰ったのですが、被爆の影響があったのか)平成元年二月二七日に永眠。私より若いのに先に亡くなるなんて本当に寂しい。大火傷をした私をおんぶしてくれた兄も平成二年に一〇〇歳で永眠。
思えば元気だった父は昭和二五年二月一五日に、母は昭和三七年二月一一日に永眠。こうして私の周りにいてお世話になった身内が亡くなってくると私自身生きていても(何の為に生かされているのかなどと考えても良い案も浮かばず)何の楽しみもなく気力も失せて唯漫然と過ごす日々でございます。
主人が早く迎えに来てくれないかと安寧住生を願うこの頃です。
今の時点で思う事は人間一生の間には何が起きるのか全く分からないのです。ただ私はその時のおかれた状態で懸命に働き、考え、耐えて家族の幸せを祈って生きてきました。
一九九五(平成七)年八月 私八二歳 現在
私の火傷の治療状態について
実家は農家だったので部屋数はあったが自分がいたのは広く風通しもよかった。その部屋に蚊張を吊って蚊やハエが入らないようにしてくれました。ただ背中全体を火傷しているので常時うつぶせで生活をしていたのです。その背中は自分では見られないが、当時元気だった母の話では魚のはらわたを割ったような状況のようで夏でもあるし、ハエが飛んで来たりして蛆がわいたりして臭い臭いと言っていました。治療と言っても薬があるわけでもなし油を塗って布を被せる位の事で、その布を取る時の痛さはとても我慢が出来るものではなかったのです。汚れた火傷の汁を拭い取ったり、沸いた蛆虫を箸などでつまんで取ってくれる位の事でした。
長男 秀隆の追想 (被爆当時五歳になる八日前) 二〇一四年三月一七日 記
母が平成二五(二〇一三)年一一月一七日一〇〇歳九か月余りで亡くなって、生前に原爆に関して殆ど話をしていなかった事に対して残念な思いがあります。
母が元気な時に被爆時の様子を証言活動するように話をした事がありますが、本人は思い出す事が辛いようで承諾してくれませんでした。それで私が母に頼んだのは辛いかもしれないが、自分の記録としてでも何かの形で残して欲しいと頼んだのが数ページに亘る手記でした。この手記をワード化する作業でもっと聞いておけばよかったのにと思う場面が多々ありました。が時折被爆当時の話を聞くと思い出したくないのか口ごもって答えてくれませんでした。
最も辛かったことは自身の中に封印して墓場まで持って行ったかと思うと戦争があった事と原爆投下された事についてはやり切れない思いです。
母が残してくれた手記を公表することで少しでも核兵器の撲滅に繋がれば幸いです。又核兵器に限らず核の放射能(原発含)の拡散による被害が無くなることを心より願っています。
瀧口 秀隆 拝
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