●被爆前の生活状況
私は父、木村幸造(きむらこうぞう)と母、木村常子(きむらつねこ)の三男として生まれました。次女の淑子(よしこ)、長男の吉輝(よしてる)、次男の恭彬(やすあき)、三男の私、そして祖母のヨシとの7人家族でした。長女の悦子(えつこ)は大正15年9月に亡くなっています。父は当時、現在の西区地域福祉センターの南側にあった、今で言う冷蔵庫などの設計施工をする会社に勤めておりました。
私は友人と近所の家の方へ出かけては、よくいたずらをしていました。兄が二人いたので、いたずらをしても兄が何とかしてくれるという思いが根底にあったのだろうと思います。非常に腕白でいたずら好きのガキ大将な子供でしたから、母がよく謝りに行っていたものです。女の子にもよくちょっかいを出していたので、その度に姉の淑子が「また文彦が女の子をいじめたんね!」と言っては「ごめんね!ごめんね!」と謝ってくれました。祖母のヨシはよく意地悪を言っていましたが、兄弟の中で一番可愛がってもらい、いつも子守りをしてくれていました。
まだ幼かったこともあり、戦時中の様子はあまり覚えておりません。覚えていることといえば、警戒警報のサイレンの音が非常に怖かったことです。恐ろしさの余りサイレンが鳴ると、よく母や兄にしがみついていたものでした。また、当時のことを姉に聞くと、カボチャや芋、大根飯などを食べていたと話してくれます。子供だった私は食糧の心配はしていませんでしたが、両親は食糧不足に困っていたと思います。それでもご飯を食べることができて、仕事や学校に弁当も持って行っていました。家族が皆穏やかで元気に生活、私はあの頃の思い出が一番良いのです。
●被爆当日
私の家は、己斐(こい)町2222番地にありました。己斐駅の一本下の踏切を渡り、二つ目の橋を渡って二軒目のところです。当日は、父(49歳)、母(40歳)、兄の恭彬(やすあき)(8歳、己斐国民学校2年生)と私(4歳)が家に居りました。父は仕事のために家を出て、己斐駅の開かずの踏切と言われていた場所まで行っていましたが、そこで姉の淑子(14歳、安田(やすだ)高等女学校3年生)に「ほおずきを植えといて」と頼まれていたことを思い出しました。「このまま植えずにいれば淑子が怒る」と思い、家に戻って来ていたのです。
午前7時頃にあの大嫌いな警戒警報が鳴りました。警報が解除になり、廊下で夏休みの宿題の絵を書いていた兄の恭彬を私は中腰で見ていたのですが、兄が突然「B29じゃあ!」と叫んだと同時に、オレンジ色のような光線が見え、ものすごい爆風がありました。その時の光と爆風は今でも私の記憶にハッキリ残っています。本当に想像を絶する恐ろしい出来事でした。廊下の下にも防空壕はありましたが、私は咄嗟(とっさ)に台所側から飛び出して、旭山(あさひやま)神社がある山のすそ野の防空壕へ駆け出しました。しかし、防空壕にいたのはほんのわずかな時間で、すぐに家に戻りました。
兄は一歩逃げ遅れたために、タンスがひっくり返って怪我をしました。父と母は一緒にカボチャの出来具合を見ていたそうです。もし父が姉との約束を思い出さずにそのまま職場に向っていたら、己斐駅まで行っていたかもしれません。また、我が家の前には二階建ての家があり、その陰になっていたため、家にいた家族は幸いにも大きな怪我をせずにすみました。しかし、二階建ての家の隣から旭山神社にかけては、光が当たった後に焼けてしまい、鉄条網(てつじょうもう)までも焼けていました。爆風で家の天井が抜けてしまい、倒壊する危険性があるからと外に出ているよう父に言われました。お昼前になると、竹の子の皮に似たものが舞い落ちながら、ザーと黒い雨が降り始めました。初めて見た雨だったため、私は子供心に面白がっていたと思います。雨は一時間近く降り続きました。
黒い雨の他に、家の近くを流れる川まで水を求めて歩いて来る沢山の被爆者を見ました。引きずって歩いているものが着物なのか皮膚の一部なのか分からない状態の人や、性別の区別さえつかないボロボロ姿の人が「水が欲しい水が欲しい」と言って川まで降りて、水を飲んでそのまま倒れていく姿を橋のたもとで見ました。更に己斐国民学校の川上の方へ上がって行く人もいましたが、とてもひどい光景で、今でも決して忘れることが出来ません。
夜になり、己斐東本町の母の実家近くにある軍人谷(ぐんじんだに)を、私は母に手を繋いでもらって登りました。そこから見た広島市内一面はひどい火災で、とても恐ろしく思いました。あまりの恐ろしさから、帰りは母におんぶしてもらったことを憶えています。火災は三日三晩続きました。本当に戦争は恐ろしいものだと思いました。この当時の状況については思い出したくないし、話をしたくないのが正直な気持ちです。
●外出していた家族の被爆状況
祖母のヨシは、畑仕事に出かけていました。祖母の畑は山手(やまて)町にありましたので、原爆投下後に、父は祖母を探しに行きました。しかし祖母は畑には居らず、探しに探してようやく三滝(みたき)町で近所の人と逃げていたところを見つけたそうです。その時の祖母は、背中の編み笠とシャツなど3枚の衣服は焼け焦げていたそうですが、肌に火傷は無く、無傷で奇麗だったと父から聞いています。
兄の吉輝(よしてる)(11歳、己斐国民学校6年生)は己斐町電車専用橋という鉄橋のたもとにあった、入川(いりかわ)新聞集配所へ行っていました。当時、5年生と6年生が交代で新聞を配っており、6日は6年生が当番日でした。
その日は新聞を積んだ電車がなかなか来なかったため、兄は同級生たちと鉄橋付近で待っていたそうです。その際、兄はトイレに行きたくなったので集配所に向いました。入り口に到着した瞬間、原爆が落ちたのでした。兄は集配所内にいた同級生と共に爆風で倒壊した建物の下敷きになり、気づいた時には同級生の上に覆いかぶさった状態だったそうです。なんとか兄と同級生は建物から這(は)い出すことができたそうですが、同級生の頭に五寸釘(ごすんくぎ)が刺さってしまっていました。同級生に「抜いてくれ!」と頼まれ、兄は本当に気持ちが悪かったけど抜かなければ帰れないと思い、抜いてあげたそうです。兄は、その時の手の感触は今でも決して忘れることが出来ないと言っていました。
新聞が届くまで鉄橋で遊んで待っていた他の同級生たちのほとんどは、爆風で川に落ちて流されたそうですが、大体助かったと聞いています。兄たちは被爆後、顔が真っ黒になっていたので、川で顔を洗い帰ったそうです。その一方、上流川(かみながれかわ)町の中国新聞社まで新聞を取りに向かった入川新聞集配所の入川のおじさんと、同級生二人は、被爆して何処かで亡くなったのだろうと姉に語っていたそうです。
そして、姉の淑子は三篠本(みささほん)町にある工場に動員されていました。工場までは歩いて1時間くらいかかるので、この日も家族で一番早い7時頃には家を出ていました。当時は病気などの理由でバッジをもらった生徒だけ電車に乗れた時代で、大抵の生徒は歩いて通っていました。姉は動員先の工場で被爆したのです。
父は、まずは畑に出ていた祖母を探そうと思いました。ところが母は淑子を先に探してほしいと言ったそうです。その時、夫婦で意見が分かれたため言い争いになり、家に戻っていた兄がその様子を目撃しました。母は父の言うことを何でも聞く人だったので、これまで父に言い返すことなどありませんでした。そんな母が父と言い争いの喧嘩をしている状況は、兄も生まれて初めて見たそうです。結局、父は居場所が分かっている祖母を探しに行くことになりました。祖母は父と家に戻った後、既に戻ってきていた兄と一緒に佐伯(さえき)郡廿日市(はつかいち)町(現在の廿日市市)のおじの家に避難していった記憶があります。
父は、お昼過ぎ頃から今度は姉を探しに行きました。しかし動員先の工場は焼けてしまっており、姉を見つけたのは捜索を始めてから三日目、安佐(あさ)郡緑井(みどりい)村(現在の安佐南区)辺りでした。その日の夕方頃に姉は父と一緒に家に帰って来ました。姉と再会できて私は本当に嬉しかったです。今思えば、母が私を連れて軍人谷から広島市内の確認をしていたのは、娘の身を案じていたからかもしれません。
●被爆後(戦後)の生活状況
8月15日の終戦のラジオ放送を聞きましたかと問われても、その記憶はありません。しかし、日本が戦争に負けて落胆している親や兄弟を見てなんとなく肌で感じていました。
昭和22年1月23日に父が亡くなってからは、生活が月とすっぽん、全く様変わりしました。母は布団を作りに行ったり、ご飯づくりを手伝いに行ったりしていました。そんな母に私はどこでもついて行っていたものです。次第に母は、私が小学校時代に入退院を繰り返す状態になり、テレビで「君の名は」というドラマが流行っていた頃から、赤十字病院に入院しました。私は入院をしている母に会いたい一心で、ボロボロの自転車で病院まで通いました。病院に行った際、洗い場で母の腰巻などを洗濯石鹸で洗ってあげることは当たり前のこととしてやっていました。
今までは母にどこでもついて行っていた私ですが、母が入院してからは、姉によくついて歩いていました。姉は母の代わりに働き、弟3人を育ててくれた家の大黒柱のような存在になりました。姉は特に私のことをしっかり育てなければいけないと思っていたのでしょう、私がいたずらをすると、今まで母がしていたように、今度は姉が謝りに行ってくれていました。また、大事な学校行事にはいつも来てくれていました。厳しかったけど、姉は私にとってもう一人の母のような存在だったのです。
●大好きな母との別れ
入退院を繰り返していた母は、亡くなる10年位前から家に戻り、近所のお医者さんに診(み)てもらっていました。私は母の看病をしながら働き、大手町(おおてまち)商業高等学校、広島商科(ひろしましょうか)大学短期大学部へと進学しました。働いていた帝国データバンクの上司は私の家庭環境を知っていたので、午後4時30分頃になると「残りの仕事はやるから先に帰れ」と言ってくれていました。職場からの帰宅途中に食材を買い、家に着いてからは食事の準備をして、母に「ご飯が炊けたら食べんさいよ」と伝えてから学校へ向かいます。そんな生活を6年間続けました。
母は危篤状態の時、吉島(よしじま)病院に入院していました。今日が母の最期の日になるかもしれないと、家族皆が思っているような状況の中、兄に「おい文彦(ふみひこ)、今日がお母ちゃんの最期になるかも知れんけえ」と言われ、母が亡くなった時に体を冷やすために必要な氷を一緒に買いに行きました。これが本当に辛くて悲しい記憶となりました。母は三日三晩生死を彷徨った末、昭和42年11月24日に脳溢血(のういっけつ)で亡くなりました。母は亡くなる前「淑子に会いたい」と言っていました。しかし姉は商売をしていてとても忙しく、お見舞いに行くこともままならない状況でした。「えびす講が終わったら行くね」と言っておりましたが、結局姉は母の最期に会うことは叶いませんでした。
私は母が亡くなった年の4月18日に26歳で結婚をしたのですが、母は私に子供ができたことを知った時、とても喜んでくれました。結婚して5月から7月までの間、たらいにお湯を張り、妻が母の身体を流していました。妻は母の身体を見て「本当に奇麗な体じゃね!」と言っていました。私は仕事へ行く前に母の背中を拭いてから出かけていましたし、刺身は鮮度の落ちたものは絶対に食べず、新鮮なものだけを食べていました。母の肌がとても奇麗だったのは、新鮮な刺身を食べていたからかもしれません。
親である父の存在とは、父親とはどうあるべきものなのかを、父親の立場になっても父を早くに亡くしている私には正直分かりません。そんな環境で育ったこともあり、尚更母親の存在は大きく、とても大好きで大切な存在だったのだと思います。
●子どものこと
私と妻は3人の子供に恵まれました。被爆体験と、父が亡くなってからの大変な時代を経験したこと、そして先祖のためにも何不自由のない生活をしてもらいたいとの思いで子供たちを育てて来ました。現在、孫が8人いますが、当時の厳しい生活状況については、子や孫には話をしたことはありません。私が食べることが大変な時代を体験しているからこそ、子供たちには同じ思いをさせたくない思いが本当に強かったです。
●被爆者健康手帳の申請と原爆症
私たち兄弟の被爆者健康手帳の申請は、申請開始の昭和32年に母が内緒で申請してくれていました。姉だけは、爆心地からの距離が動員先の三篠本町までの「2.3キロ」が正しいところを、安田高等女学校までの「850メートル」になっていたなど、事実と異なる内容があったことから訂正申請が必要となり、2年遅れの昭和34年頃に手帳取得となったそうです。
私の子供は被爆2世なので、現在広島にいる長女と長男は診察を受けるように言って10年間受けさせていますが、被爆者健康手帳を出し辛い環境の東京にいる次男は、健康診断受診票を使っての診察を受けておりません。また、コロナ禍前に亡くなった兄の吉輝(よしてる)は山口県に住んでいましたが、「何で治療費を払わんの?」と言ってくる人たちが周りにいたそうです。そのため兄は一度も被爆者健康手帳を出したことはないと、姉を通して聞いたことがあります。
私は脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)と、その2年後にヘルニアで2回手術の経験がありますが、令和6年12月3日に左太腿のお尻側に皮膚がんができて手術をし、12針縫いました。その皮膚がんが原爆症であるかどうか確認をするため、病院の勧めで12月27日に厚労省へ申請して、5月の終わりに書留通知が届きました。結果は原爆症では無いとの内容でした。その後、喉を見てもらった際に5.6センチと3.6センチのしこりが二つ出来ているのが見つかり、広島市民病院の先生にすぐ検査をするよう言われて検査をしました。3年前、コロナにかかったことがあるのですが、未だに声がおかしいのです。そのうち治るだろうと思っていましたがなかなか治らず、コロナの影響にしては3年は長すぎますし、被爆の影響なのかと思っています。
●平和への思い、原爆・戦争を知らない世代へのメッセージ
今、ロシアとウクライナを初め、戦争が世界各地で起こっています。現在のウクライナの状況を見ると、爆撃で壊された建物を再建していくのも大変だろうし、私たちの経験したような、食物が乏しく苦しい生活を子供たちがしていると思うと本当にかわいそうで仕方ありません。子供たちが亡くなったとテレビで報道されているのを見る度に、広島と長崎の2発の原爆で何十万人もの人たちが亡くなった経験と同じ思いを、私たちの子供や孫など若い世代にさせたくないと思います。
以前の原爆資料館には、被爆当時の悲惨な状況を納めた写真が展示してあったと思いますが、現在ではそのような写真の展示がほとんど無く、きれいな写真ばかりになっていると思います。当時起こった実態を平和のために伝えていくには、やはり以前のような現実の悲惨な写真の展示があった方が良いのではないかと思っています。
何はともあれ世界が平和であってほしいと強く思います。世界が平和であれば、たとえ家族でいがみあったとしても、戦争で人が亡くなることはありません。未だに戦争で何人死んだ、また何人死んだと言う報道を聞く度に、早く戦争が終わってほしい、終わらないものかと思うばかりです。核兵器廃絶は無論のこと、今のような明るく平和な生活が出来る世の中になることを切に希望しています。
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