国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
田村 任子(たむら たかこ) 
性別 女性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は小学三年の三月に東京から疎開して母の実家(安佐南区長束)へ来ました。

兄は千葉の秀才ばかり入る中学へ入学が決ってたのです。広島へ行きたくない、父と一緒に残ると言ったのですが泣く泣く連れて来ました。

父は千葉の飛行場の工場長をしてた為一人残りました。兄は入学手続きやらで手間どり六月にやっと二中へ入学しました。

あの朝虫が知らせたのでしょうか。学校へ行きたくないと、しばらく土間に坐ってました。母が休んだらいけないと叱って出しました。

一年生は、爆心地の平和公園辺りの建物こわしに動員だったのです。丁度朝礼で先生の話を聞いている時に爆弾が落ちたそうです。

母は晩になっても兄が帰らないので、乳飲み子の弟を祖母に預けて朝方から歩いて相生橋の辺まで捜しに行きました。逢う人皆に二中の生徒は知りませんかと叫んだそうです。

相生橋の川のふもとは死体とか、まだ息のある人が倒れて水を求め地獄のようだったそうです。捜しようもなく途方にくれていた時、一人の人が山陽中学の一年生が横川の(今の信用金庫)にいたと言われ、学校が違うので我が子ではないと思いながらも帰る途中なので寄ってみようと思い行くと横たわった人が入りきれない程の人だったそうです。足を踏み入れた時足下に兄がいました。服に付けていた名札でわかったそうで、服はボロボロに焼け、顔はヤケドでふくれて、眼ははれて名前を呼ぶと「ハイ」と返事をして立ち上がり「お母ちゃん、ここまで帰ったら眼が見えなくなったんよ」と言った。余りの変り果てた姿を見て言葉もなく泣きくずれたそうです。

近くの家で雨戸を一枚貰い可部方面へ行くトラックに乗せていただいて、雨戸をタンカのようにして乗せ連れて帰りました。

あの日八月六日は相生橋の川につかっていたそうです。満潮になり多くの人が流されていったそうです。

両手の皮膚は垂れ下がり、持つとこがなかったのを覚えています。近所の方々が帰って来たのを聞いて(礼儀正しいいい坊ちゃんだったからと)珍らしい桃のかん詰め等を持って来て下さり、おいしいおいしいと食べ、ラバウル航空隊の歌を口づさんだりしていました。

八月八日、近所に軍医さんがおられ看に来て頂きました。軍医さんは兄はわからないと思われたのか、兄の枕元で母に駄目ですねと言われ兄は「お母ちゃん駄目だと言われたね」と聞き返しました。間もなく歯ぎしりしたかと思うと、息が切れました。

どんな想いで死んで行ったのかと思うと、胸がはりさけそうです。一四才の短い生涯でした。戦争のために尊い命が・・・・・・・・

戦争と核のない平和な世が永遠に続くことを祈ります。

◎二中の生徒は全員死にました。相生橋の川筋に慰霊碑が建ってます。

乱筆乱文お許し下さい。

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針