私は、当時、千田町の広島文理科大学(兵舎・高等師範学校)に駐屯していた第二七八四部隊(隊長・陰山稔大尉)に警備召集を受けていました。
六日は、朝七時半ごろ、新川場町付近の建物疎開作業のため、隊員七、八〇人が出て行ったあと、本部詰(指揮班)であった私は、事務室の黒板にむかって、来る八月十日はいよいよ満期除隊になるが、軍隊手帳にこんなふうに記入するのだと、その要領を書きかけていたとき、突然、ピカッと光ったのです。ドンという音はききませんでした。
光った瞬間に、落下物の下敷きになっていました。夏のことで、みな上半身は素裸でした。私は右の目の下が骨折したうえ、ガラスの破片などで血が流れでました。意識はあり、失明したなと思いながら、もがいてみましたがどうすることもできませんでした。
そこへ、建物疎開作業に出ていた兵隊が逃げかえって来て、片手だけ落下物の上にのぞいていたのを発見し、ひっぱり出してくれたのです。
大混乱の最中のことではっきりしませんが、後日聞くところによると、私をひっぱり出したのは同室にいた田原正人二等兵であったかもし知れません。
広商時代に野球選手で有名であった天満町出身の竹岡曹長も、同じく下敷きになっていましたから、助け出そうとしましたが、落下物が多く、その上腰の長い指揮刀が何かにひっかかっていて出ることができぬまま、火が迫って来て、ついに焼け死なれました。
私はヨロヨロと這うようにして、大学の前の広島赤十字病院へ行きましたが、もう負傷者がたくさん集っていて、長蛇の列を組み、アカチンを塗ってもらっていました。私は他の人々よりも軽傷であったし、なかなか順番がこなかったので、足のむくまま御幸橋の方へむかって逃げました。
御幸橋の西詰の交番所のところで、ボンヤリ立っていましたら、海の方から川をのぼって船が一隻近づいて来ました。兵隊や負傷者が二〇人ぐらい乗っていましたが、「もう一人乗れるから乗れ。」と、兵隊が呼ぶからそれに乗り、似ノ島へ運ばれました。これが正午ごろでした。
舟で運ばれる途中、すごくノドが乾いたので海水をすくって飲みましたが、びっくりするほど辛かった。しかし、実にうまかったのが忘れられません。
似ノ島には三日いました。似ノ島の収容所では、多くの負傷者はただ運ばれて来て、ムシロの上に寝ているだけで、治療というものはありませんでした。薬品もすぐなくなったのでしょうが、負傷者の収容作業だけが精一杯というありさまでした。その上、負傷者がバタバタと死んでいきますので、夜は火葬の火があがり続け、異臭がするどく鼻を衝いてきました。
私も次第に身体が弱ってきましたが、配給のにぎりめしを食べるより、部隊のことが気にかかりました。原隊へ連絡したいから帰してくれと頼んで、三日目の八日午後二時ごろ宇品の桟橋まで舟で送ってもらい、そこから電車道伝いに歩いて大学へ帰りました。
立札に、二七八四部隊は草津国民学校にいるから、そこへ来い、と書いてありましたので、鷹野橋→福島町→己斐駅と道をたどっていき、午後六時前に国民学校につきました。
皆は私が死んだものと思っていたので、びっくりしました。氏名をかいた貼紙をみると、私の名の上に斜線がひいてあったほどで、緑色の三角巾で片目をおそっている姿の私を、「瀬川だ。」と言っても、はじめは信用してくれませんでしたが、判ると小原中隊長らみんな非常によろこんでくれました。
草津国民学校には、終戦になる十五日までいました。
一方、私の家族の妻菊江、長女祐子、次女富美子、長男泰司らは、東観音町二丁目の妻の両親の家の二階を借りて疎開していて被爆しました。
家屋は一瞬に倒壊し、辛うじて妻と妻の母、長女、妻の妹と次女は助かりましたが、妻の父と三歳の長男泰司の二人が見つからないまま、猛火が迫って来て逃げるほかないことになりました。火炎がグングンまわって来るので、火の中をぬうようにして、西(己斐)へむかってとにかく脱出しました。
観音町は、万一の場合の避難先として、あらかじめ地御前方面が決められていたのでありますが、地御前には私の親類もいましたので、そこへ逃げのびていきました。
それから毎日、父と長男を捜しに焼跡へかよいました。父の骨はすぐ見つかりましたのに、長男はまったく影も形もありませんでした。八月の末ごろでしたか、ある日、ラジオの尋ね人を探す時間に「戦災孤児は五日市町の収容所にいる」ということが放送されたので、すぐ尋ねて行ったのですが、それらしい姿が見つからなかったのです。孤児は五日市に来る前は、比治山国民学校に収容されていましたが、私と叔母が尋ねて行ったときには、その半数しかまだ来ていなかったことを知らなかったのです。
妻は、毎日のように孤児収容所へ出かけていき、洗濯物などの勤労奉仕を続けながら、長男を探しておりましたが、とうとう見つからず、死んだものとあきらめて、お寺にたのみ戒名を作ったのです。
三年の法事、七年の法事をやり、十三年の法事をしようという時でした。朝日新聞が全国の孤児の親さがし運動をやりました。長く読んでいた新聞をやめ、朝日にかえてから一週間もたっていない昭和三十五年十月六日のことでした。妻は働きに出ていて疲れるためあまり新聞を読まなかったのですが、その日に限って紙面をひろげたのです。そこに「中村勝己」という名で出ている子どもを見つけて、アラッと感じたのです。
本籍不詳、少しどもる。生年月日は十月らしいと、書いてある。
十月七日、朝日新聞社の車で尋ねて行くと、私を見るなり、そこの先生が「中村勝己に似ている。」と言われた。すぐ個人別アルバム帳を見せてもらうと、長男と同年令の子の写真があった。それが戦後生まれた三女とそっくりの顔でびっくりしました。まったく性別が違うだけでした。私は見るなり、長男が生きていたという実感が湧きました。
「中村勝己」という名は、山下義信所長がつけられた名前ですが、九月末日限りで満一七歳になったから、収容所を出て、八丁堀の会社に勤めており、皆実町にある会社の寮に住んでいると聞かされました。
その晩、朝日新聞社で十五年ぶりに泰司と逢いました。泰司はすでに一八歳の立派な青年に成長していて、童顔だけ覚えている私には、急には判りませんでしたが、どことなく似ていました。
現在は、死亡で末梢してあった戸籍も旧に復し、完全に長男になっております。何も彼もそっくりになり、酒をのむことまで父親と同じです。
出典:『広島原爆戦災誌』第2巻 広島市役所 昭和46(1971)年
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