●被爆前の生活
私、中村範昭(なかむらのりあき)は広島に原爆が投下された時、13歳でした。高田(たかた)郡井原(いばら)村(現在の広島市安佐北区白木(しらき)町井原)に自宅があり、祖父・中村吾平(なかむらごへい)、父・寿(ひさし)、母・雪子(ゆきこ)、そして私と2歳下の妹・孝江(たかえ)、5人の家族で暮らしていました。父は公務員で、広島食糧事務所に配属され、当時は井原にある出張所の所長として米や麦の検査などを行なっていました。家は農業をしており、母も手伝っていました。しかし、できた作物は全て国に出すようになっていたため、農家であっても家族の食糧事情は厳しく、芋や麦などを炊いて食べていました。井原村では、空爆はなかったのですが、呉の大空襲の時は、井原村からも空襲されている様子が見えていました。
私は広島県高田中学校の3年生でした。私学の旧制中学です。学校では勉強をした覚えがほとんどありません。訓練、訓練の毎日でした。授業といえば、理科、そして国語が少し行われていたくらいです。英語にいたっては、2年生の時、朝学校に行くと全員の教科書が没収され、グラウンドで全て焼かれたことを覚えています。学校の中もほとんど戦争一色だったのです。
高田中学校には隣の秋越(あきごえ)国民学校と一緒に使っていた大きなグランドがあり、そこに、岡山の航空会社が疎開していました。建物を建て、軍事工場を作ったのです。私たち高田中学校の3年生、2クラスはその工場に動員され、飛行機のピストンを作っていました。工員は1人か2人だけ。他には、広島女子高等師範(こうとうしはん)学校附属山(やま)中(なか)高等女学校の生徒が数名動員されていました。私は旋盤の係でした。しかし、工場に行っても、材料が届かず仕事がありません。「いつでも作業できるようにしておいてください」と言われ、機械の掃除をしていました。3時間ほど作業をしたらやることがなくなり、裏山に防空壕を掘りに行かされることも、よくありました。この状況はおかしいと感じ、この戦争は負けるのではないかと思っていました。
●昭和20年8月6日
8月6日月曜日は電力会社による月に一度の点検の日で、停電となるため工場は休みでした。父は勤めに出て、母は田んぼで草取り。私は母に「あなたはしんどい仕事をしているのだから、今日は寝ていなさい」と言われたので涼しいところで横になっていました。そして、うつらうつらとしていた、その時、ピカッと光るのを感じました。「稲妻かな?いや、ちょっと違うな」と思っていたら、ドドドドっと地響きが…。「どうしたのだろう、大きな地震でもないし、おかしいな」と思って家の前の県道に出てみると、通る人が「向こうじゃ、向こうじゃ」と言って、指をさしていました。見るときのこ雲が上がっており、皆、「あれはなんだろうか」と話していました。私は、パラシュートのような物が1つ、ふらふらしている様子、そして、南の方から飛行機が7機ほどこちらに飛んできて去っていく様子も見ました。
雲が上がっているのは可(か)部(べ)だと思っていました。広島での出来事だと知ったのは午後3時頃のことです。私は駅には行っていないのですが、広島方面からやってきた列車には人がいっぱいだと聞きました。その時は、まだ、元気な人ばかりで、広島に通学などしていた人たちが帰ってきたようです。
私の1級上の生徒は、その日、学徒動員のため呉の工場へ向かっていたのですが、その途中、矢(や)賀(が)のトンネルの中にいた時、ピカドンが落ちたと言っていました。皆、「広島は大変だ。火の海になっている」と言っていたそうです。
●救護活動
あくる7日工場へ行くと「各班、各部署から数名出してくれ。昨日、広島に爆弾が落ち、志和口(しわぐち)駅にもけが人が降りるので、その人たちを市川(いちかわ)国民学校に運ぶ手伝いをしてくれ」と学校に依頼がありました。私たちの学校の近くにあった市川国民学校は救護所となっていたのです。
私と学友、3人が掃除役を命じられました。2階建てのL型の建物でしたが、それだけでは収容場所が足りないということで、近くにあった高田中学校の寄宿舎にも負傷者を収容することになり、そこに向かいました。夏休み中で人はいなかったのですが、勝手に部屋に入るわけにもいかず、廊下の掃除や、トイレの準備をしました。
3時間ほどすると、先生から「患者さんに使っていたガーゼを洗濯してくれ。手袋をして洗ってくれ」という指示がありました。私たちは今でいう軍手をして洗ったのですが、擦れてガーゼの方がダメになってしまいます。そこで、軍手を外して素手で洗い、ダメなガーゼは捨て、いいものだけを干しました。ガーゼは臭く、虫が喰ったようになっていました。しかし、医療物資がなく、そのようなガーゼを洗って使わなくてはいけない状況だったのです。干したガーゼは30分もすると乾くので、我々はそれを片付け、寄宿舎での作業は終わりました。結局、寄宿舎は救護所として使われることはありませんでした。
市川国民学校での治療は市川村にあった病院の佐々木(ささき)医師が行なっていました。薬と言えば赤チンくらい。あとは、油を塗るのがよいだろうということで、各家庭から集めた食用油を負傷者に塗っていました。
●救護所の様子
市川国民学校には多くの負傷者が収容されていました。床にござを敷き、そこに並べられていました。皆、人相が変わったような面持ちでした。ござに付いた汚れを洗うのも我々の仕事だったのですが、洗ってもなかなか落ちません。また、水をたくさん使って洗うので、なかなか乾かず、すぐには使えません。代わりに筵(むしろ)を敷いたのですが、筵はござ以上に扱いが難しかったです。
負傷者が収容されている部屋の中は、なんとも言えない臭いでした。朝、窓を開けて空気を入れ替えるのですが、それでも、臭いは消えません。並べられた負傷者たちを見て、惨めだなと思いました。空いている場所があると、誰か亡くなったのだなと思いました。田舎だったので火葬場では1人2人しか焼くことができません。そのため、地域の人たちが下にある田んぼに穴を掘り、そこに死体を入れて焼いていました。私たちも死体を運ぶ手伝いをしました。
自宅から市川国民学校へは歩いておよそ1時間。8月7日から5日間くらい通って救護活動を手伝いました。弁当を持って行くのですが、あの臭いが鼻につき食べることができません。自宅に帰る途中で食べようとも思ったのですが、やはりあの臭いが鼻について食べることができず、3人で弁当を川に捨てたことを覚えています。そんな日が2日ほど続きました。
運搬係だった友人から聞いた話なのですが、駅から負傷者を運ぼうにも担架がないので、彼らは戸板に負傷者を乗せて運んだそうです。とても大変だったと言っていました。
●死体の整理を手伝った父の話
父は、原爆投下の3日か4日目から4日間くらい、死体の整理のため広島に出かけました。「川の中に入り、死体を引き上げようと手を握るとスーッと皮が剝(は)げ、滑ってしまう。手袋していると滑ってしまい、かえって邪魔(じゃま)になる。1人、2人ならいいが、何人も引き上げることができないので素手で死体を引き上げた」と言っていました。私たちがガーゼを洗った状況と一緒だなと思いながら、父の話を聞きました。
●皆実(みなみ)町の親戚の被爆状況
原爆投下から4日くらい経った時に、皆実町に住んでいた親戚2家族が私の家に避難してきました。皆実町は焼けてはいなかったので、持つことができる荷物をある程度持ってきました。1つの家族は、夫が戦争に行っており、妻と子どもの2人。もう1つの家族は、夫婦と2人の娘の4人。娘さんの1人は割れたガラスによるけがで重症でした。10日ほどすると髪が抜け始め、丸坊主になってしまいました。
1軒で3家族の生活はとても大変でした。
●終戦
8月15日、学校に行っていると、軍事工場の上の広場に集まれと連絡があり、そこで終戦を告げる玉音放送を聞きました。20人ほどが一緒に聞いたと思います。日本が負けたことを知り、皆、気が抜けたようになっていました。誰一人、負けるなんて思っていなかったのです。工場に部品が届かないことをおかしいと思っていた私は、「終わったか」と思いました。そして、「この先、どうなるのだろう」という不安な気持ちになっていました。他のみんなも不安な気持ちを持っていたと思います。
●親戚宅の片付けで広島へ入る
原爆投下から15日くらい経った頃、親戚の皆実町の家を片付けるため、被爆した広島のまちに入りました。被爆したおじさんはやけどをし、体調も悪かったため、戦地から戻ってきた彼の息子、そして、もう1人、女性が一緒に行ったと思います。おじさんの息子は広島か山口に配属されていたので、終戦後、すぐに戻ってきたのです。
広島駅から見ると、福屋の建物はありましたが、見渡す限り、家という家はありませんでした。私たちは歩いて皆実町三丁目に向かいました。専売公社のところに「太陽館」という映画館があったのですが、そこがクシャッとなっているのを見ました。まだ、煙が出ていました。1発でこれだけ被害が出る爆弾を、よく作ったものだと思いました。
一緒に来ることができなかったおじさんは、朝、自転車で職場へ向かう途中、皆実国民学校の前で被爆しました。国民学校の前にあったドブ川に落ち、そこでメガネを落としたと言います。探す余裕もなく避難してきたらしく、そのメガネを探してきて欲しいと私たちに頼みました。メガネは、無事、見つけることができました。
親戚宅は、家の形は多少残っていましたが、半分以上は吹き飛んでいました。ガラスは割れ、家の中はくしゃくしゃ。私たちは、雨が降っても大丈夫なように屋根の修理をしました。一晩、親戚宅に泊まり、翌日、一緒に井原(いばら)村へ帰りました。
皆実町付近は当時、ほとんど蓮根畑だったのですが、その中に犬や猫、小馬などの死骸が突っ込まれていました。夜になると食用蛙(がえる)が大きな声で鳴いています。私は、畑の中には人の死体もあるのではないかと思っていました。
●戦後の生活
学校は夏休み中で、動員されていた工場にも行っていなかったため、生徒たちはそれぞれ家の生活に戻っていたような気がします。我が家は農家だったので、何人もの人が「食糧と交換してください」と着物などを持って来ていたことを覚えています。2つの家族が避難していた我が家では、そのドタバタで、食糧事情がどうだったかなどは覚えていません。3家族での生活はとにかく大変でした。夫が戦争に行っていた家族は、1か月くらい経った時、子どもを連れ妻の実家がある島根(しまね)県に行きました。もう一つの家族は、3か月くらい私の家で一緒に暮らした後、近くに家を建て、3年くらいそこに住んでいたと思います。その後、皆実町の家を建て替え、戻って行きました。
学校がいつ頃から始まったかなどは覚えていません。ただ、まともに勉強ができるようになったのは1年くらい経ってからだと思います。学校制度が6・3制に変わり、もう1年行けば高校卒業になると言われ、向原(むかいはら)高等学校に移りました。そこで勉強した1年間だけが、私が机に向かってまともに勉強した時間だったと思います。
●被爆の影響
父は原爆が落とされた数日後から死体の片付けで被爆したまちに入りましたが、その後、特に体調に問題はありませんでした。被爆者健康手帳は取得したのですが、妹がいたため、「あまり被爆した、被爆したって言うなよ」と言っていました。世の中に被爆者に対する差別意識があったからです。父は85歳の頃、がんを患い亡くなりました。
私は仕事をしており必要性を感じていなかったので、長年、被爆者健康手帳を取得していませんでした。健康面で気になることもありませんでした。退職後、人に促(うなが)されて申請することにし、取得しました。
●93歳で体験を話すことの経緯
私は子どもにも被爆体験を話してきませんでした。良い話ではないので墓場に持っていけばいいと考えていたのです。しかし、近年になり、私のように負傷者を救護したという話は出ているのだろうか、話しておいた方がいいのかなと思うようになりました。白木(しらき)町の井原や市川(いちかわ)では郷土史を作り、そこに負傷者を看護したことは書いてありますが、具体的な話までは書いてありません。それで、93歳となった今、自分の体験したことを話す気持ちになりました。
●平和への思い
戦争はいけない。絶対にいけない。勝っても負けてもいいことはない。被爆後の惨状を見た私にとって、テレビや映画などで戦争の映像が流れているのを見るのも嫌です。
戦時中は、学生であっても全く勉強できませんでした。罪のない人、小さな子どもまで犠牲になるのです。本当に戦争はいけない。絶対にやってはいけない。戦争は人の暮らしを破壊します。このことがどうしてわからないのかと思います。核による抑止(よくし)力という考えのもと、今も核兵器が存在しています。偉い人は何を考えているのか、ばかなことを考えるなと思います。
アメリカ人の中にも、考え方が変わってきた人がでてきているとは思います。「核兵器はいけない」と考える若者が増えています。しかし、核兵器がなくなるにはまだまだ時間がかかると思っています。
ただ、今、核兵器を使ったら終わりです。今の核兵器は、広島に落とした原爆より何十倍、何百倍も威力があるのです。それが使われたらと想像すると、世界は終わりです。やはり、何事も話し合いで解決することが大切です。武力での解決は、勝っても負けてもいい事はないのです。核兵器を使えば自分たちも死ぬことになります。自殺行為のようなものです。戦争、核兵器は絶対にいけません。
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